のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

網走監獄

以前から一度行きたいと思っていた網走監獄へ、とうとう行ってまいりました。

 

敷地が広いので、じっくり観るにはもっと時間がかかるのですが、今回は家族もいたので、そこそこに出てきました。

 

それでも、昔の監獄、つまり刑務所の厳しさ、犯罪者、被告人への扱いの酷さをあらためて知りました。

 

それでも、至る所に、一応は人権を考えている部分を見ると、その時代の中で精一杯のやり方であったのかもしれないと思います。理想は、犯罪者も人権が守られていくことが大切ですが、その時代によって、限界がある現実も見ます。

 

では、現代はどうでしょうか。私たちは最善を尽くして、犯罪者も被害者も、守ろうとしているでしょうか。なかなか難しい問題もあります。殺人などの重要犯罪を行なった者に対して、法律は寛容で良いのか、など、犯罪者を更生させるための刑務所ではなく、やはり刑罰も必要ではないか。そんな声が聞こえているのです。

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黙想:一つの業を終えて

"サムソンは言った。「ろばのあご骨で、山と積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」
こう言い終わると、彼はそのあご骨を投げ捨てた。彼はその場所を、ラマテ・レヒと名づけた。"
士師記 15章16~17節

 

サムソンはろばの顎骨で敵を千人打ったが、そのろばの顎骨をいつまでも握りしめていることなく、それを投げ捨てて、次の働きへ向かう。しかも、その顎骨は捨てたがきちんと「顎骨の高台」と名づけて、その顎骨による神の恵みを忘れなかった。

 

私たちも、次の働きへ向かう時がある。そのとき、サムソンがろばの顎骨を捨てて次の働きへ向かったように、私たちもきちんと、これまでの働きにケリをつけて、投げ捨てるように手放していかなければならない。

 

しかし、ゴミのように投げ捨てて終わりではない。そこで神様が与えてくださった恵みを忘れないで、きちんと祈念することは大切である。

 

さあ、次の働きに向かって進もう。主がともにおられる。

 

"主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」"
申命記 31章8節

黙想:キリストとの交わりの中へ

"神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。"
コリント人への手紙 第一 1章9節

 私たち人間には多くの交わりがあります。交わりということばは、交際とか、交流と言うと分かりやすいかも知れません。

 そうすると、家族や友人知人関係がその対象であったり、ときにペットなどの動物かも知れません。

 

 しかし、その交わりには、時に傷つけられたり、傷つけてしまったりすることがあります。それは、近い存在の家族、夫婦でもよくあることてす。

 なぜ、血のつながりのある家族で分かり合えないのか、どうして愛し合って結婚したのに、本当の意味で愛し合えないのか、多くの人はそこに苦しみを覚えているのではないでしょうか。

 しかし、聖書はそこに解決の光を提供します。それは、決して裏切らず、決して傷つけない、100%依存し委ねて良いお方との交わりにこそ、本当の交わりがあり、その交わりによって、他者との交わりにも平和を与える真実の道です。

 それを計画して与えてくださったのが、唯一真の神です。使徒パウロはその神のことを真実であると言っているように、この世がどんなには不真実でも神こそが真実である、私たちの全てを委ねて良いお方として指し示しています。

 その真実の神が、私たちにイエス・キリストを与えて、このキリストとの交わりに入れてくださったのです。キリストとの交わりとは、もはや交際とか交流ということ以上に「結合」と言えるでしょう。

 それは、このキリストと心身ともに繋がることこそ、私たち罪人すらきよい者として造り変える唯一の手段だからです。なぜなら、このキリストこそ、神の御子だからです。神ご自身であるお方が、神から離れてしまった人間を取り戻すために人間の姿で来てくださった。

 そして、私たちが本来そうなるはずであった神との完全な断絶を通って、神のさばきを身に負われたのです。それが十字架です。

 そのことにより、このキリストを信じる者の罪を赦し、このキリストがそうであるように私たちをも神の子どもとしてくださるのです。だから、私たちとキリストが繋がるのです。

 キリストと繋がることで、私たちはキリストのように、父なる神を心から愛する者へと変えられます。そして、隣人を自分自身のように愛する者へとも変えられて行きます。

 ここに、他者との関係の再構築が起こり、これまで傷つけ、傷つけられてきた関係にキリストにある平和が訪れるのです。そのために、私たちは神を信じキリストを我が救い主と受け入れなければなりません。

 あらためて、今日、神の真実に触れ、神の御子であるイエス・キリストを受け入れて、キリストとの豊かな交わりに入れられてまいりましょう。

主は宮で私の声を聞かれる

私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた。
詩篇 18篇6節

私たちは神に祈ります。私たちの声を、叫びを、願いを主に祈ります。その祈りは、どこにおいてもささげることができます。

 

しかし、神はあえて祈る場を設けられました。それは、神との会見の場であり、交わりの場です。その時間、その場所を聖別することの大切さを示しています。

 

かつてイスラエル民族が荒野を旅する時、主は幕屋をつくるようにモーセに命じられました。そして、イスラエル王国が確立して、ダビデを通してソロモンによって神殿が建てられました。

 

それは、神を礼拝するためであり、そこで時間も場所も聖別して、神と交わるためでした。

 

しかし主イエスは、こう言われました。

 

"イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。"
ヨハネ福音書 4章21節

 

それはこれまで限定された場所だけではなく、それぞれのところでも神と交わり、神への祈りをささげられるということです。

 

では、今日、お読みした詩篇はもう無効なのでしょうか。そんなことはありません。やはり、私たちは宮で祈るときに神は聞いてくださるというみことばを今の私たちへのみことばとして受け取る必要があります。

 

それは、やはり神との時間や場所を聖別し、最善を尽くして、その時を設けるという、神への献身が問われているからです。

 

だから主イエスはこうも言われています。

 

"あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。"
マタイの福音書 6章6節

祈る時は、家の奥の自分の部屋に入りなさいとは、神と交わる祈りの場所、時間を聖別することです。

 

ですから、やはり礼拝する日である日曜日は、同じ信仰をもつ仲間とともに教会に集まり、礼拝をささげる。また、日々のディボーションにおいても、私たちなりに、家の中の自分で定めた主と交わる部屋で、決めた時間に神に祈るのです。

 

それは、義務や形式ではありません。なぜ、そう行うのかという理由をきちんと受け取ることが大切です。その理由とは、そうすることによって「御耳」に届くからです。また、そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださるとみことばが約束しているからです。

 

より、主に近づけること。より愛すること。それを今日も求めてまいりましょう。

 

 

 

 

今日のこと

今日は朝から神学校で北海道のキリスト教会の歴史と世界のキリスト教会の歴史の授業があり、その合間にチャペルも担当でした。

私はいつも通りに神学校まで行きましたが、久しぶりにZoomと対面のハイブリッドでした。

やってることはいつもとあまり変わらないのですが、二系統の会話は、やはりやりづらいですね。それでも、休講になるよりはずっと良いので感謝です。

午後からは次回の礼拝説教のための黙想と礼拝プログラム原案作成。明日の聖書研究会の設問づくり。終わってから、区役所や銀行へ行って色々と手続きなど。

夕食後にはファイターズの試合を観ようと思っていましたが、地上波でもBSでもネットでも放送されないのであきらめ、提出があった神学生のレポートをチェックし、あらためて私もそこで学びつつ、その世界、時代、歴史を思い巡らし、とても良い時間となりました。

今、寝る前に、今日一日を色々と振り返って、神様に感謝しています。

就寝前の祈り(詩篇4篇7~8節)

あなたは喜びを私の心に下さいます。

それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。

平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます。

主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。

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主が相続地である

"レビ部族にはモーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおり、イスラエルの神、主が彼らへのゆずりである。"
ヨシュア記 13章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

今朝のみことばは、第一に、レビ部族には他の十一部族らのように土地が与えられなかったということを伝えています。

 

同じイスラエル民族でありヤコブの子孫でありながら、このような扱いを受け、神の側に不均衡に見える内容が聖書にあると、私たちは、つい神様は不公平ではないかと思ってしまいます。

 

しかし、レビ部族が他の十一部族と同じではないということには、もう一つの面があることも忘れてはなりません。

 

それは、他の十一部族から取り分けられた特別な栄誉に与っているということです。それはスペシャルという意味です。扱いが違うことは、差別しているというよりも区別して、その存在、その働き、立場を認めていると言うことです。

 

だからレビ部族に対する扱いを見る時に、他の箇所ではこうも言っています。

 

"主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。
さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。"
民数記 18章20~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

ここで、レビ部族は土地を持たないかわりに、土地が与えられている諸部族で生産され神にささげられたものの十分の一がレビ部族に与えられるというものです。

 

それは、神へのささげものであり、神からの分け前とも言える、神の同労者という立場であることを意味しています。

 

それは、彼らは神の幕屋につかえ、神への礼拝のために働く、礼拝奉仕者という特別な働き人であるからです。

 

このことは、現在、クリスチャン全てが祭司と呼ばれ、クリスチャン全員が預言者であり、更にはその中から、主の伝道者として召された者とも通じる価値観と賜物と職務があり、その立場があります。

 

私たちも、目に見える土地だけでなく、この世的な財産も多く持っていません。また、それ自体に価値を求めるものでもありません。では、それで神からの祝福を失っているのかといえば、そうではありません。

 

既に神御自身を得ているからです。そのために神は御子を私たちにくだし、その身を裂いて、神の子という衣を着せてくださいました。それは、神である主御自身が私の、そして、あなたのゆずりの地となったということです。

 

そして、そこに主の者とされた証しとして、聖霊が与えられ、私たちが正真正銘の神御自身と一つとされたことが確定されたのです。

 

今日もその恵みを覚えつつ、主を崇めてまいりましょう。神の国は目に見えるところにではなく、肉眼で見えないところにあります。なぜならば、それはパウロが言っている通りだからです。

 

"私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。"
コリント人への手紙 第二 4章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会