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◎釈義ノート「カナン人の女とイエス」マタイの福音書 15章21〜28節

 

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1. 序言
 この箇所は、23~27節の冒頭にὁ δὲまたはἡ δὲが置かれ、一節一節の意外性のある描写が豊かである。短い箇所であるが、カナンの女性とイエスとのユニークなことばのキャッチボールに読み手が引き込まれていく。
   
2. 分析
①ツロとシドン地方へ
v.21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

①-1 場面設定がイスラエルから異邦人の地へ移される。そのことをマタイは「立ち退いた」と表現する。その理由として、並行箇所マルコ7:24にある「だれにも知られたくない」思いでイスラエルの地から異邦人の地であるツロとシドンの地方へ立ち去ったことがわかる。しかもこの出来事は道端ではなく、ある「家」でのことである。
②-2 新改訳で「立ちのかれた」と訳されているἀναχωρέω(NT. 14例、内10例はマタイ)は、「退く・去る・立ち去る・帰る・ひきこもる」と訳せる1。新共同訳や口語訳では「行った」という表現にとどまる。新改訳でもマタイ2:12においては同様に「帰って行った」と訳している。KJVにおいては「departed」(出かける、去る)が用いられ、NIV、ESVにおいては「withdrew 」(撤退、引き下がる)と、より「退く」意味合いの強い表現となっている。

カナン人の女の懇願
v.22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 ②-1 カナン人の女は、マルコ7:26では「この女はギリシャ人で、スロ・フェニキアの生まれであった」と紹介されている。
 ②-2 この場面は異邦人の地方での出来事である。ピラト相手の対話でもそうだったように、明らかにイエスは通訳なしでその地方の住民たちと会話をすることができた2。
②-3 この女性は、イエスに呼びかけた。「主よ。ダビデの子よ。」
彼女の最初の願いのことばは考え抜かれたものだった。「ダビデの子」を付け加えることでκύριεが先生以上のことを意味するようになる。異邦人の女性がユダヤ教の遍歴伝道者に対してこの二重の称号を使うことは、きわめて思いがけないことだからであるとベイリーは言う。
  ②-4 当時の常識の上では、この段階で、カナン人の女は異邦人であることと、女性であるという意味において二重のハードルを越える覚悟が必要であった。
 ②-5 彼女の要求は、「娘が、ひどく悪霊につかれている」ので、「私をあわれんでください。」という、娘の癒しではなく母親である自分へのあわれみを請うものであった。これは、見方によっては、母親は悪霊に憑かれた娘を持った大変な状況にある自分の辛さを訴えているとも捉えることができるが、一般論としても、母親の子を思う愛が、娘の苦しみを自分の身に負って、ともに苦境に立たされていると解釈する方が自然である。
 ②-6 彼女はイエスが町に来られたという噂を聞きつけ「すぐに」イエスがおられた家にやってきた。(マルコ7:25)

③イエスと弟子たち
v.23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
 ③-1 ベイリーは、イエスがこのカナン人の女性との会話をしながら弟子教育にも従事していたと述べる。それは旧約聖書Ⅰ列王記17:8~24の出来事をイエスは弟子たちの教育のために再演していると言う4。弟子たちは女性に対するイエスの振る舞いを見て、先祖由来の異邦人と女性に対する蔑視の思想を後押ししているものと錯覚して「あの女を帰してやってください…」と言った。この弟子たちの言葉は「釈放する、赦免する、離婚する、解散する」などと他の箇所では訳されており、上位の立場の人間が目下の人に対して使用する言葉であることがわかる。弟子たちも、この女性を蔑んで「去らせよ」と言ったのである。
 ③-2 イエスが憐れみを請う女性に対して沈黙されたことは、少なからず読者に衝撃を与える。このあとのお言葉に対しても、一見冷淡さを覚える。あのサマリヤの女(ヨハネ4章)の出来事との明らかな違いがわかる。だからこそ、この箇所でのイエスのみことばの深さを味わわなければならない。
③-3 この節からὁ δὲ(ἡ δὲ)が文頭に置かれ、この箇所のイエスと女性の会話のユニークさが際立つ。δὲは「しかし」、「すると」、「そして」とも訳せるが訳出しない場合も多い。反意的に用いる場合や連繋的にも用いられるが、イエスの言葉と態度の意外性とともに、カナン人の女性の返答の意外性にも読者は注目させられる。

v.24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところに
は遣わされていません。」と言われた。
 ③-4 これまで沈黙していたイエスは、弟子たちのカナン人の女性への冷淡な言葉を受けて発言された。ここで新改訳は「しかし」と訳し、新共同訳は訳出していない。確かに23節から24節の会話の流れに果たして「しかし」は不要に思われる。それは、24節のイエスの言葉の内容があくまでカナン人の女性に取り合わないという姿勢だからである。この場合、口語訳のように「すると」が適切かもしれない。
 ③-5 イエスが言われた「イスラエルの家の滅びた羊」は、マタイ10:6でも使われており、十二使徒を任命し遣わす際、どこへ行くべきかをイエスご自身が語られたときにも使われた表現である。ここでイエスが語られたのも、決してカナン人の女性に対する思惑があってのことだけではなく、事実、イスラエル民族が異邦人に先立って福音が語られる必要を言っているのである5。神の国の特権はまず契約の子らである選民に提供される6。
 ③-6 カナン人の女性にとって、異邦人で女性という二つのハードルだけでなく、イエスはさらにハードルを上げた。それは第一に、訴えに対する「沈黙」であった。しかしイエスはなおもこの女性に対して冷ややかな態度で臨む。その第二とはイスラエル民族以外の人とは関わらないという言葉であった。この四つ目のハードルが女性の前に立ちはだかる。

カナン人の女の信仰
v.25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
 ④-1 ここでの「しかし」はインパクトがある。この女性の前に立ちはだかる四つ目のハードルは、主のことばによる拒否とも受け取ることができるものであったが、この女性がとった行動は、あきらめずに主の御許にひれ伏すことであった。この「ひれ伏した(προσεκύνει)」は、「礼拝した」とも訳せるが、真の神を信ずるユダヤ人ではなく異邦人であるなら神以外にもひれ伏すことは珍しいことではない。特にこの箇所では未完了形であるため、礼拝というよりは嘆願の意味合いが強いと考えられる7。」
④-2 ここでも彼女は「私をお助けください」と言った。彼女の悲痛な願いは当然幼い娘の癒しであるが同時にそれは彼女自身をも救うことにも通じていた。マルコ9:24の口をきけなくする霊につかれた少年の父親のように、イエスの前に自分自身の罪と弱さに気づかされた者の告白ではないだろうか。
v.26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
 ④-3 しかしイエスは益々、彼女に対してチャレンジを与える。彼女にとっては第五のハードルである。それは「犬」と呼ばれることによる侮辱への応答であった。ここで使われている言葉が「小型犬」を指すからと言って侮辱の度合いが低いとは考えにくい。彼女につきつけられたこのハードルには、彼女の願いや娘への愛を越えて、イエスという存在に対する本当の信頼(信仰)が試される。
 ④-4 ベイリーはイエスによるこの侮辱を意味する言葉の使用の第一義的理由は弟子教育のためだったと言う8。ベイリーはイエスの真意をこのように読む。「あなたがたが異邦人を犬畜生並みの人間だと思い、先生も彼らを犬並みに扱って欲しいものだと望んでいることを、わたしは知っている。しかし、注意せよ。それはあなたがたの偏見の結果だ。こうした場面を見聞きして居心地は良いか。」弟子たちは、イエスのこの態度に同調し、差別的思想を益々加速させるか、それとも主の真意を悟り、自らの異邦人女性に対する愛のない冷淡な姿勢を恥じるか。

v.27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 ④-5 「しかし」彼女はイエスの侮辱的発言に憤慨するどころか、とても謙遜に、そして嫌味なく軽快に言葉のキャッチボールをしたのである。しかも「パン屑」で十分であると、主の祝福のほんの切れ端であったとしても、何によりもまさる価値を見出していたことは、主の彼女に対する賞賛の言葉からでもあきらかである。
 ④-6 最期の「しかし」に読者も驚かされる。特に、カナン人をよく知っているユダヤ人にとっては、この出来事は大きなチャレンジであり、イエスの「心の貧しい者は幸いである」という革命的なメッセージの真髄を見たのではないだろうか。ツロ、シドンとはイスラエルからすれば、祝福の論外である。しかし、イエスは、イスラエル民族を超えて「すべて疲れた人、重荷を負っている人」の主であり、心貧しき者、悲しむ者に幸いを与えてくださるお方なのである。

⑤その願いどおりになるように
v.28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
 ⑤-1 主に賞賛される信仰とは何か。それはとことん自らを低く、へりくだることではないだろうか。人は信仰すら神に与えていただかなければならない。自分には何もないことを認めて初めて神との交わりが始まる。しかし、信仰をも私たちは自分の力のように勘違いし、犬扱いされるような侮辱に耐えられずに、憤慨し、侮辱した相手に報復を願い、呪うことさえ正当化しようとする。しかし、主は心をご覧になる。それは、カナン人の女性に対してもそうであるが、先に弟子とされた者にも絶えずチャレンジを与えておられる。
 ⑤-2 多くのハードルをクリアした女性の主への絶対的信頼に対しイエスは、「その願いどおりになるように」と言われた。多くの場合、たとい相手がクリスチャンだとしても、その願いどおりになれと言うことは簡単には言えない言葉である。それは、私たちの願うことがすべて主の御心に適うとは限らないからである。しかし、主は彼女の信仰に曇りがないことをあえてチャレンジをお与えになることで確認し、その願いどおりになるようにと仰せられたのである。
  
3. ペリコーペ分析
  並行箇所:マルコ7:24~30
  ①マルコによると、「家に入られたとき」と記されているように、この出来事の場所が道ばたではないことがわかる。24節
  ②マルコによると、イエスのツロの地方へ退かれた理由が「だれにも知られたくない」ということであったことがわかる。24節
③マルコでは、カナンの女はイエスのことを聞きつけて「すぐに」やって来たことが記されている。25節
  ④マタイでは単なる「カナン人の女」と記されているが、マルコでは、彼女は「ギリシャ人」で、スロ・フェニキアの生れだったことがわかる。26節
  ⑤マタイでは、イエスにひれ伏すまでのやりとりを詳しく記しているが、マルコでは後半の彼女の娘の癒しが詳しく記されている。
  ⑥マルコでは弟子たちの様子が省略されている。

4. パースと私訳…別紙

5. 神学的分析
  弟子たちの中に、異邦人を差別する罪があった。それは、先祖から受け継いだ常識であったため、主は特別なミッションを通して教育された。人間とは、常に勘違いという罪を犯している。自分を他人よりも上位に置く癖がついている。しかし、その癖が砕かれなければ、神を知ることはできないし、人にみことばを伝えることもできない。いつも主の近くに置かれている弟子ではなく、異邦人の女性が主に賞賛された。その事実に、もし私が弟子としてその場にいたら、嫉妬していたかも知れない。

6. 結論
  私たちの思いの奥底を主はご覧になる。時に誤った考え、洞察であるのに気づかずに、状況が好転している中で、自らの主張や思いを主が応援しているような勘違いをすることはないだろうか。みことばに聞かずに、自分の常識や状況で判断して御心だと思い違いすることはないだろうか。しかし、主は常に私たちがどれほど自分自身が足りない者であることを自覚し、へりくだっているかご覧になっておられる。状況が悪化しないうちに自らの誤りに気がつき、悔い改めて歩むものとされたい。主は、心の貧しい者を祝福される。

7. 参考文献表 
荒井献, H.J.マルクスギリシャ語 新約聖書釈義事典』 教文館, 2015.
ケネス.E.ベイリー『中東文化の目で見たイエス,』教文館, 2010.
山口昇『新聖書講解マタイの福音書いのちのことば社, 1997.
増田誉雄『新聖書注解新約1マタイの福音書いのちのことば社, 1980.
岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店,1996.