のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

◎マタイの福音書26章52節にみる 「キリスト者が武器を取ること」についての一考察

f:id:kinokunizaka66:20180807075708j:image

 

マタイの福音書26章52節にみる 「キリスト者が武器を取ること」についての一考察

 

 

目  次

                     

略語表

序論
Ⅰ. テーマを選んだ理由                
Ⅱ. 研究の前提                    
Ⅲ. 研究の目的と範囲                 

本論
Ⅰ.翻訳比較
Ⅰ-1. 翻訳比較の結果 
 ①ギリシャ
 ②日本語訳
 ③英語訳    
 
Ⅱ. 本文批評

Ⅲ.問題の提示                     
Ⅲ-1. 「剣」μάχαιρα の語彙研究                                              
Ⅲ-2. ペリコーペ分析
  Ⅲ-2-1.小結論          
 Ⅲ-3. 文脈の検討
  Ⅲ-3-1.マタイの福音書の目的と特徴
  Ⅲ-3-2.アウトライン分析
  Ⅲ-3-3.小結論
Ⅲ-4. 問題の提示まとめ
Ⅳ. マタイ26:52の文法分析             
Ⅳ-1. マタイ26:52のパースと図解分析                          
Ⅳ-2.  マタイ26:52の文法解析                 
(1) ἀπόστρεψον              
(2) τὴν μάχαιράν σου          
(3) εἰς τὸν τόπον αὐτῆς·           
(4) πάντες γὰρ以降の文          
 ①接続詞γὰρ
 ②形容詞πάντες
 ③主語οἱ λαβόντες μάχαιραν
 ④述語ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.


 Ⅳ-3. 小結論

Ⅴ. マタイ10章と26章の関連性の分析
(1) 剣とイエス

 (2) 剣と滅び
 (3) 剣と弟子たち


 Ⅴ-1.小結論

結論
                     
適用

今後の課題  

参考文献

 

 

    略語表
本論文で使用する略語は次のとおりである。

【用語】
マタイ        マタイの福音書
マルコ        マルコの福音書
ルカ         ルカの福音書
ヨハネ        ヨハネ福音書
黙示録        ヨハネの黙示録
【聖書】
新改訳       『新改訳聖書 第三版』
新共同訳      『新共同訳聖書』
口語訳       『口語訳聖書』
フランシスコ会訳  『フランシスコ会訳聖書』
UBS 5版      The Greek New Testament, 5th revised ed
ネストレ28版    Noveum Testament Graece, 28ed
NIV New International Version(2011)
KJV King James Version(1611)
ESV English Standard Version(2001)
【辞書】
Bauer   Bauer,W.,et al.,A Greek-English Lexicon of the New Testament and other Easty Christian   
     Literature, 2ed ed (Chicago,IL:chicago University  Press, 1979)

 

 

   序 論

Ⅰ. テーマを選んだ理由
 私がキリスト者になってから持っていた疑問は、キリスト者が戦
争をすることが正しいことなのかということである。それは歴史的
に見ても、実に多くの戦争にキリスト教国と言われる国々が関わっ
ていることがわかるからである。また、教会外の方々の声として、
宗教があるから戦争があると言うことを聞くことがある 。しかもキ
リスト教国が中心となって戦争を起こしているという非難である。
つまりキリスト者が戦争を起こしているという意味である。人間の
歴史は戦争の歴史であり、そこに宗教が必ず関与している。特に聖
書の歴史も人と人の争い、戦争を避けて説明することはできない。
そこで、その最小単位であるキリスト者個人が武器を取ることに
注目しようと思った。それは、究極的には、集団を構成する個人として武装するところから戦争が起こるとも言えるからである。
聖書は、キリスト者が武器を取ることを何と見ているのか。聖書
キリスト者が武器を取ることについて、どのような答えを持っているのかという問いをもって、イエスが語られたことばからそのことを調べたいと思わせられた。
それで、マタイの福音書26章52節に記されている「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」に着目し、そこから浮かび上がるものを調べ、このイエスのことばを書き残して、著者は何を言いたかったのか、イエスご自身は何を伝えようとされたのかを深く調べたいと思い、テーマとして選んだ。 

Ⅱ. 研究の前提
 私は聖書66巻すべてが、神の霊感によって記された、誤りのない神のことばであると信じる。またマタイの福音書の著者については、増田は歴史的な伝承として、また内的外的証拠等からマタイが著者であるという可能性を支持し 、エトキンソン も山口も同様にマタイの可能性を支持している 。ゆえに、この前提に立って本論文の執筆を進めるものとする。なお、文中の日本語訳聖書の引用は基本的に新改訳聖書第三版を用いる。

Ⅲ. 研究の目的と範囲
 本論文の目的は、マタイの福音書26章52節からキリスト者が武器を取ることについて、その意味を明らかにすることである。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」という言葉は、聖書を見渡しても黙示録を除いて、このマタイの福音書でしか見出せない 。いったい聖書は何と言っているのか。これを語ったイエスの真意は何か、また著者がこのことばを書き残した理由は何か。 
この箇所については、キリスト教会もキリスト者も立場によって見解が大きく異なっており 、意見の対立という現実を見るときに、果たしてこれで良いのかと疑問が湧いてくる。
以上の問いから、本論文を通して、キリスト者が武器を取ることの意味と理由について考えたい。もちろん必要と思われる部分は旧約聖書からも取り上げたいが、新約聖書の光に当てつつ必要最小限度にとどめたい。旧約聖書の聖絶等についても掘り下げるなら、本論文において収めきることができないことが明らかだからである。かえって旧約聖書の成就としてのメシアであるイエスが語られ、イエスが望んでいるキリスト者のあり方について学びたい。ひいては現代を生きる私たちキリスト者が武器を取って戦争すること。戦闘に参加することをどのように考え、どのように行動すべきなのかという問題にも光が当てられ、混沌とした世界にあって、今後の教会の果たすべき役割について少しでも実践に繋がる答えを見出し、このような取り組みを通して私たちキリスト者が日々キリストに似る者とされていくことをより深く味わいたい。

 

 

 

 本 論

Ⅰ.翻訳比較
マタイ26:52のギリシャ語本文と日本語訳・英語訳を比較し、問題の所在を明らかにする。マタイ26:52のギリシャ語本文と、おもな日本語訳聖書と英語訳は巻末資料1の通りである。

Ⅰ-1. 翻訳比較の結果
ギリシャ
 UBS 5版とネストレ28版を比較したが、本論文の釈義上問題となるような箇所は見当たらなかった。
 
②日本語訳
各日本語翻訳を比較したが、際立って翻訳上、問題とされるような箇所は見当たらなかった。しかし、「剣」を納める場所について、新共同訳が「さや」と訳出しているが、他の日本語訳では「もとの所」などもともとあったところに戻せと言う意味だけで、それがどこなのかを確定していない。しかし並行箇所ヨハネ18:11を見ると「剣」を納めたのがθήκη(さや)であることが示されているため、新共同訳の翻訳において「さや」と確定したことが推定できる。UBS5版もネストレ28版も「さや」を意味するθήκηは使用していないため、これは新共同訳の意訳であることがわかる。
 また新改訳と新共同訳の「納めなさい」に対して、口語訳は平仮名で「おさめなさい」と訳し、フランシスコ会訳と詳訳聖書では別な漢字の「収めなさい」と訳されている。発音はすべて「おさめなさい」であるが「収納」という言葉があるように剣や刀を「おさめる」場合、基本的に「納」と「収」のどちらでも同じ意味で使用することができるため、この程度の訳の違いによって、意味を大きく変えさせるようなことはないと考えられる。
ゆえに日本語訳においても、釈義上問題となるような箇所は見当たらなかった。

③英語訳
 英語訳はNIVだけが主文“Put your sword back in its place,”が先行しているが意味において大きな違いはない。またNIVは「滅びる」(ἀπολοῦνται)に対して「死ぬ」“die”を使用しているが、他の英語訳は「滅びる」“perish”を使用している。
原語ἀπολοῦνται についての考察は文法解析において行うため、英語訳の翻訳比較での分析はここまでとする。

Ⅱ. 本文批評
UBS5版とネストレ27版を比較すると、UBS5版はαὐτῆςの後ろに「·」がつくが、ネストレ27版では「,」がついている。しかしネストレ28版ではUBS5版と同様に「·」に変更されている。
以上のことから、本テキストに異本がないと判断する。よってUBS5版をマタイ26:52の本文と確定し、このまま釈義を進めるものとする。

 

Ⅲ.問題の提示
Ⅲ-1. 「剣」μάχαιρα の語彙研究
 聖書本文から「剣」μάχαιρα について考察するにあたり、まず「剣」の聖書的語彙について調べ考えたい。
 新約聖書における「剣」μάχαιρα は、26箇所の節で29回使用されている 。中でも13例は福音書のイエスの逮捕の場面に集中している。それは常に一般的な刃物を意味しており、特に調理器具と言うよりは武器としての意味合いの方が強い 。
新約聖書ではもう一つῥομφαία という「剣」を意味する単語が用いられているがῥομφαία は新約聖書中7回しか使用されておらず、ルカ2:35で一回と黙示録で6回 である。岩隈によればῥομφαία は、トラキヤ人等の用いた幅広く長い大剣のことを言い、一般的にはμάχαιρα と同様に剣であるとする 。ルカにおいては、イエス誕生後、エルサレム神殿にいたシメオンがイエスの母マリアに告げた預言の中で一度使用しているが、イエスの受難について「剣」という言葉で表現している。また黙示録においても、イエスの口から出ている両刃の剣として、抽象的な描写で用いている。
以上のように、ῥομφαία はμάχαιρα に比べて形状が大きく特殊なイメージで語られているが、いずれにしても、本テキストで使用されているμάχαιρα との劇的な差異がないことを認め、μάχαιρα を中心に検証を進める。
さて、μάχαιρα を構成しているμάχη は「争い」を意味する名詞だが、E.Plumacherは、μάχη の動詞形であるμάχοηαι (争う)から派生した語ではないとしている 。しかし、聖書で「剣」は、実際的な戦争における武器として400回以上も言及しているほかに、象徴的な意味で、戦争、争い、苦痛、暴力、武器全般などを表現するために用いられている 。書簡においては、「神のことば」を鋭い剣に喩えている 。
以上の結果から、新約聖書において剣μάχαιρα は一般的な刃物
としての意味だけではなく、戦い、争いに使われる道具としての武器、またそれを用いて行われるところの戦いや争いなどの象徴的表現としても用いられていることがわかる。

 

Ⅲ-2. ペリコーペ分析
 次にペリコーペ分析によって他の福音書と比較し、マタイの文脈で語られている意味を深めていきたい。

①マルコ14:43  
 この箇所はマタイ26:47と並行している。ここではイエスを逮捕しに来た群衆が持参していたものとして「剣や棒」が挙げられている。この「剣や棒」という言葉は慣用句のようにマタイ26:55でもイエスによって使用されている 。
 「剣や棒」という言葉は、この場面では集団での暴力的な威圧感を表す道具として、丸腰のイエスとのコントラストを生んでいると推察できる。マタイ26:55のイエスの言葉としての「剣や棒」も、共観福音書記者たちは、口を揃えるように「まるで強盗にでも向かうように」とまったく同じ言葉でその対比を強調していると考えられる 。
 
②ルカ22:36~38
この場面は、本テキストの場面の直前である最後の晩餐後の出来事であるが、イエスは着物を売って剣を用意するように言われ、しかも弟子たちが剣を二振り 用意したことが書かれている。このやり取りだけを見ていると、イエスが剣を用意させており、しかもイエスは彼らの剣の準備に対して「それで十分」と答えられ、武器を準備しておくことの必要をイエスが認めていたということだけではなく、むしろ指示していたように見える。
 それを受けて、弟子が師であるイエスの逮捕に際し、その準備した武器を使用することは一般論的には理に適っていると言える。ところがイエスはその剣を納めるように弟子に命じ、しかも「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言って剣を用いること自体を否定することばを告げられたのは、それまでの発言と矛盾しているように見える。
 このことについて宮村は、それは「神の恵みの力による霊的武具 、特に祈りの備え 」であると解釈している 。また、遠藤は、「弟子たちに、剣を抜かせないことを、学ばせるための剣であった」と言い、目の前の問題や危険に対して、剣ではなく祈り以外に方法はないと言う意味で解説している 。また石川も、この一文だけで、イエス武装を奨励し好戦性を示唆すると考えるには無理があるとしている 。

ヨハネ18:10~11
 一方ヨハネでは、並行箇所において、この群衆がどういう人たちなのかが明らかにされている。また剣や棒もὅπλων「武器(複数形)」という言葉によってまとめられている。それはすなわち、剣や棒が「武器」であるという説明になっている 。
 共観福音書では、弟子のうちの一人であることは語られていてもヨハネだけが、実際に剣を振るったのが誰であるかを記録して、イエスが逮捕される場面を共観福音書とは違う角度で伝えている。イエスがユダに裏切られ、イエスを捕まえるために多くの群衆が剣や棒を持って集まって来たとき、近づいた大祭司のしもべに向かってシモン・ペテロが剣を抜き、耳を切り落とす。しかも、ペテロが耳を切り落としたことは、このあとペテロの否認の場面でも触れられていることは興味深い 。
 また共観福音書ではペテロが抜いた剣は「もとに納めなさい」とイエスに命じられたと伝えているが、ヨハネでは「さや(θήκη)に収めなさい」という言葉を伝えており、ペテロが剣を鞘に入れて所持していたことが明らかにされている。

Ⅲ-2-1. 小結論
 本テキストの並行箇所を見ると、マタイとマルコは、ほぼ同じ内容を記しているのに対し、ルカ、ヨハネは違った角度からこの場面を描いている。特に、ヨハネによれば剣を取った弟子はペテロである ことがわかり、ルカによれば剣で打とうと思ったのはペテロだけではなく、イエスの周りにいた弟子たちもそうであったということがわかり 、またペテロによって耳を切られた大祭司のしもべがイエスによって癒されたことがルカにより明らかにされている 。
 イエスご自身は、弟子たちに剣を用意させた。しかし、それは弟子に武装させ世の権力との戦闘を指示したのではなく、どのような理由であれ、剣を取ることが滅びをもたらすものであることを教育するためであったと推察できる。

Ⅲ-3. 文脈の検討
 マタイの福音書26章52節の内容を考察する前に、マタイの福音書の背景を理解し、26章が書かれた意味を知っておく必要がある。そのため、ここではマタイの福音書の緒論的なこととその中での26章の意味を簡潔に整理する。

Ⅲ-3-1. マタイの福音書の目的と特徴
 マタイの福音書の執筆目的について、マタイ全体として伝えようとしている、その内容の特徴を以下の三つにまとめる。

(1)イエスが誰であるかを明らかにすることが挙げられる。神の国の訪れを告げ知らせ、病人・身体障害者を癒し、悪霊を追い出し、ガリラヤ各地を巡って、その後エルサレムで逮捕され十字架によって処刑され、三日目によみがえったイエスが、旧約聖書によって示されてきたキリストであり、旧約聖書の成就のために来た方であることを証ししようとしていると読み取ることができる 。このことは、旧約聖書からの引用や数多くの言及からわかる。

(2)内田によれば、マタイの福音書はイエスの教えを数多く収め、説教を5つにまとめているということである。それによって、イエスの弟子たちは、すでに来た神の国の現実の中でどのように生きるべきかを学ぶ ということである。

(3)律法主義的ユダヤ教の敬虔との対比において説明されている。イエスがもたらすものはユダヤ教の一派ではなく、むしろイスラエルに代わる新しい神の国の建設とその国民を生み出すことである 。

Ⅲ-3-2. アウトライン分析
 マタイの福音書全体からアウトラインを分析する。前述の内田
の解説を参考に巻末資料7を考察すると、神の国の到来とマタイ
福音書は深く関係しており、イエスダビデ王家の末裔であっ
て、マタイが繰り返し記す「天の御国」(βασιλεία τῶν οὐρανῶν)
の王(メシア=油注がれた者)として表されていると言われてい
ることが明確にされていく。ゆえに神の国の王として来られたイ
エスのことばと行動に注目し、そのことを念頭に置いて著者マタ
イが本テキストにおいて何を伝えようとしているのかを「剣」(μάχαιρα)が使用されている以下の5ヵ所から検討する。

① マタイ10章(34節)
 マタイがまず最初に「剣」(μάχαιρα)を使用している10:34に注目する。
 34節は、38節の「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われたイエスに対する献身を促す段落の一部である。イエスはここで剣をもたらすために来たと言っているが、文脈から考察すると「平和」との対句として用いられているため、刃物としての剣を直接的に言っているのではないと考えられる。前後の文脈から鑑みても34節の剣は、イエスに弟子として従おうとするときに起こる軋轢について言っていると推察できる。その軋轢が、ルカが言うように分裂であろうし、戦争、争い、苦痛、暴力という意味での剣であるとも言えるのではないだろうか 。
 フランスは、イエスがもたらす「剣」とは、ここでは軍事的な衝突ではなく35~36節が示しているように、社会の激しい分裂であると言っている 。
 確かに、並行箇所であるルカ12:51によれば剣ではなく「分裂」であると明らかにされている。つまり「平和」に対する「分裂」という意味で婉曲的に「剣」を用いているのである。しかし、ルカがそのように説明しているのに、なぜマタイは「剣」と記録したのか。もし「分裂」という意味で良ければ、ルカと同様に比喩を用いずに「分裂」と記しても良かったはずである。しかし、あえて「剣」としたところに、次に「剣」が使用されている箇所との関係性、連続性に意味を持たせていると考えることができるのではないだろうか 。つまり、弟子たちはイエスに従う歩みの中で起こる「剣」を経験し、自分の十字架を負ってイエスについて行くことができたのか。イエスに従うことでもたらされる剣に対してどうだったのかが問われてくると考えられる。
 以下②の箇所との関連性の分析については、「Ⅴ.マタイ10章と26章の関連性の分析」(p.26)において行う。
 
② マタイ26章(47、51、52、55節)
 マタイが次に「剣」を記録しているのはイエスの逮捕の場面に集中している。10:34の「剣」を念頭に文脈を追ってみると、イエスの存在によって「剣や棒」を持った群衆が押し寄せたことに目が留まる。マタイ26:47~55は、福音書では「ゲツセマネの祈り」から「イエスの裁判」。そして「十字架刑」に繋がる場面である。
 この直前までイエスは、三人の弟子 を連れてゲツセマネの園で祈っておられた。そうこうしているうちにイエスを裏切ったユダが大勢の群衆とともにやって来た。このとき群衆は手に剣や棒を持っていた 。人数は600人ほどであったと言われている 。その威圧的な群衆にイエスの逮捕を命じていたのはサンヘドリンを構成していた祭司長たち、民の長老たちであった 。つまり、彼らが持っていた剣や棒は為政者側の権威の下に所持していたということができる。これらの群衆がイエスを逮捕するための案内役をイスカリオテのユダが務めていた 。
このユダのイエスに対する口づけが打ち合わせどおり合図となり、群衆が来てイエスに手をかけて捕らえた 。ここで弟子の一人が剣を取り大祭司のしもべに切りかかりその耳を切り落とした。そこでイエスは言われる。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」そして、そのあとの言葉 により、この場面で剣を持って反撃するべきではない理由が示される。
エスは、彼らの武器に対抗するだけであれば、神に祈願し、ローマ帝国の大軍にまさる天の御使いを配下に置き、それを撃ち滅ぼす力を持っていることを明言した。しかし、その力をあえて用いない道を選択したのである。その理由の一つとして旧約聖書の預言成就のためであることがイエスの言葉からわかる。それは、イエスは神の計画を実行しなければならなかった。それは、このまま捕えられて十字架に架けられることを意味していると考えられる。ゆえに、ここで剣をもって抵抗し十字架を遠ざけようとすることは避けなければならないということではないだろうか。そういう意味で、ここで剣を振るうことは、聖書の預言の成就に逆らうという意味において相応しくないと考えられる 。そのあと弟子たちはイエスを見捨てて皆逃げてしまった 。

Ⅲ-3-3.小結論
 以上のようにマタイの福音書は、過去との関係を旧約聖書との連続性とユダヤ教との非連続性というかたちで明らかにし、同時に将来に向って形成されていく教会という展望を示しており、それが天の御国の到来とメシアであるイエスによって旧約聖書の預言が成就されるという観点から見ると、以下のように区分することができる 。
・1~4章11節:ダビデ王家から生まれたメシア
・4章12~15章20節:御国の到来~招き~真実~世の現実
・15章21節~20章34節:御国への備え~目指すは十字架
・21章1~25章46節:御国の開始~メシア入城~終末の預言
・26章1~28:20節:御国の完成を目指して~イエスの逮捕・裁判・十字架・死・復活・昇天
 マタイの福音書における26章の役割としてわかることは、イエス旧約聖書で預言されていたメシアである数々の証拠の中で、イエスの弟子たちを含めて、当時の多くのユダヤ人たちがそうであったように、ダビデのような地上における政治的、この世的な王とは全く異なった姿のメシアとしてイエスが現わされたということである。つまり、この世の価値基準では到底受け入れられない王の姿である。この視点が本テキストを読み解くときにも必要であると思われる。

Ⅲ-4. 問題の提示のまとめ
 以上「Ⅲ-1」~「Ⅲ-3」へと検討を進めてきた結果、問題点が明確になったので以下の三つにまとめた。
(1)イエスがここで剣を取ることをやめさせた他の理由は何か。
(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用することは正当であったのかどうか。
(3)本テキストとマタイ10:34とはどんな関連性があるか。

Ⅳ.  マタイ26:52の文法分析
以上の提示された問題の答えを読み解くために、イエスが語られた26:52の文法的な分析を行う。

Ⅳ-1. マタイ26:52の各単語のパースと図解分析
 ギリシャ語本文の単語の意味や構造をわかりやすくするために、パース と図解分析 を行う。マタイ26:52における主文は、ἀπόστρεψον τὴν μάχαιράν σου εἰς τὸν τόπον αὐτῆς·[剣をもとに納めなさい]であり、その理由としてπάντες γὰρ οἱ λαβόντες μάχαιραν ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.[剣を取る者はみな剣で滅びます]が語られている。その主文と従属文を接続しているのが接続詞γὰρである。

Ⅳ-2. マタイ26:52の文法解析
(1) ἀπόστρεψον
最初に、主動詞ἀπόστρεψον について見ていきたい。ἀπόστρεψον(基本形ἀποστρέφω)は、新約聖書において9箇所、その内マタイにおいては2箇所で使用されている。また新改訳聖書において、「断る、もとに納める、惑わす、立ち返らせる、取り払う、離れる、背ける、背を向ける」などと訳出されている 。
 ἀπόστρεψον(第一不定過去命令法二人称単数)は、接頭辞ἀπό
と動詞στρέφω が組み合わされてできている合成動詞である。もと
もと語幹のστρέφω 自体に、「変える、返す、戻す」 という意味
があり、それに前置詞ἀπό が接頭辞として着く事により、基本的
にその前置詞によって意味が修正される。
 Bauerによると、その用例として「return、put back 」が挙
げられているが 、翻訳比較を見ても、「Put~back in its
place」や「Put up again~into his place」など、元の場所に戻すという意味で訳されており、語幹のστρέφω 「戻す」という動詞に前置詞ἀπό の機能が加わっていることがわかる。
 ゆえにイエスの弟子に対するこの命令には、その剣を別途使用する可能性を示唆していたかどうかは不明だが、公に取り出された武器としての剣を、「あったところに」戻す、仕舞う、片付けることに重点を置いていると推察できる。

(2) τὴν μάχαιράν σου
 次に、この文における目的語τὴν μάχαιράν σου の役割について考える。τὴν μάχαιράν σου は、既に語彙研究の中で取り上げた「剣」としてのμάχαιράν に定冠詞τὴν と人称代名詞σου で構成されている。
σου は二人称単数、属格であり、その様々な機能のうちの「所有」である可能性が考えられる。文脈上、剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落としてしまった「弟子」を指す人称代名詞である。その剣が、弟子の所有物か否かは別としても、そのとき所持していた物であるということは確かである。主動詞ἀπόστρεψον に対して何を納めるのかが、この目的語τὴν μάχαιράν σου によって明らかにされている。
 
(3) εἰς τὸν τόπον αὐτῆς·
 ここで補語εἰς τὸν τόπον αὐτῆς· について見ていきたい。εἰς τὸν τόπον αὐτῆς は主動詞ἀπόστρεψον に対して、目的語τὴν μάχαιράν σου をどこへ納めるのかを明らかにしている。
前置詞εἰς は、対格を伴って、「~の中に、~の中へ」という意味で用いられ、新約聖書においてἐν に次いで、その頻度は多く、ἐν と同様に空間的次元を表すが無方向の場所・位置関係ではなく、一つの目標に至る一定の方向を指示する 。つまり本テキストにおいて「剣」を納める場所が曖昧なものではなく、納められるべき本来の場所であることを意味していることがわかる。τὸν τόπον(対格、男性、単数)の中にαὐτῆς(属格、女性、単数)が納められるということである。αὐτῆς は「剣」μάχαιράν と性、数、格が一致しているため剣を示す代名詞として用いられている。τὸν τόπον がどういう場所かについては、共観福音書ではすべて「さや」θήκη とは明確にしていないが、前述したとおり並行箇所であるヨハネ18:11によれば「さや」θήκη(対格、女性、単数)であることが推定される。
 
(4)πάντες γὰρ 以降の文
①接続詞 γὰρ
 γὰρ は、続く文章が前文の理由を明らかにしていることを示している。日本語に訳すなら「なぜなら」、「だから」、「というのは」となるが、実際に日本語の聖書本文では、日本語の接続詞に置き換えるというよりは、語尾の中に「~だからである」などと、γὰρ の存在が生かされる訳になっている場合が多い。このγὰρ の存在によって、「剣を納めなさい」とイエスが命令した理由が、剣を取る者は全員滅びる者「だからである」ということを言っていると考えられる。

②形容詞 πάντες
 このπάντες を境に、前段の剣を元の場所に納めるべき理由が語られる。形容詞πάντες は、πᾶς の主格、男性、複数形であり、主語οἱ λαβόντες μάχαιραν を形容している。πᾶς の意味としては、「すべての」であり、英語のall、everyと同様に用いられている。単数の名詞とともに用いるのであれば「何れの」という意味にもなるが、本テキストにおいては冠詞、分詞とともに用いられているため「~はすべて」、「~はみな」というように述語的地位に立って訳すことができる 。すると、この「すべて」、「みな」はどの範囲のことを言っているのかを捉える必要がある。主語οἱ λαβόντες μάχαιραν を新改訳のように「剣を取る者は」とすると、剣を取る者を文脈で判断しなければならない。
以上の分析から、πάντες は、47節の「剣や棒を手にした大ぜいの群衆」であり、51節で実際に剣を抜いて大祭司のしもべに撃ってかかった「イエスといっしょにいた者のひとり」であると推察できる。つまり、この場面で剣を持っている者たち全員ということである 。

③主語 οἱ λαβόντες μάχαιραν
 主語は、新改訳で「剣を取る者は」と訳しているοἱ λαβόντες μάχαιραν である。動詞λαμβάνω の不定過去分詞能動態であるが、冠詞οἱ を伴う名詞的用法であり、複数形なので、直接には、そこに居合せた剣を持つすべての人について言及していると考えてよいと言える。

④述語 ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.
 主語οἱ λαβόντες μάχαιραν「剣を取るものは(みな)」どうなるのかが説明される。ἀπολοῦνται は、未来形、三人称、複数、中態であり、前置詞ἐν の機能「手段」として、剣を取る者が「剣によって」(ἐν μαχαίρῃ)滅びることを意味している。それは、何者かによって滅ぼされるのか、自分自身で滅びるのかは断定できないが、このἀπολοῦνται は、マタイの福音書では17回使用されており 、最初に出てくるのが2:13で、最後は27:20である。それは何れもイエスを殺害しようとする陰謀であり、27:20では明らかにイエスを十字架につけようとする意味で、「死刑にする」ことへの言及として用いられていることとして注目できる。その他の用例としては、失う、滅びる、救いに漏れるなど、文脈によって用いられ方が異なるが 、先に挙げた2:13と27:20がイエスへの言及であることに対して、それ以外は12:14を除いて人間に対して使われている。12:14はちょうどマタイがἀπολοῦνται を使用している17箇所中9番目にあり、マタイの福音書の構成上イエスについて用いられているἀπολοῦνται の中間地点にあたる。
 マタイが福音書を著すにあたり、福音書の最初、中間、最後という三箇所にἀπολοῦνται を配置したことにどのような意味があるのかは確定できないが、イエスの歩みが、失われた人間、また滅びゆく人間のために、メシアとしてそのἀπολοῦνται (失う、滅び)をご自身で負われる歩みであったこと、または十字架においてἀπολοῦνται (死刑、殺される)を負われたことを考えさせられる。

Ⅳ-3. 小結論
(1)イエスが「剣を捨てよ」ではなく「剣をもとに納めなさい」と命じたのは、その剣を別途使用する可能性を示唆しているものではなく、むしろ公に取り出された武器としての剣を目に触れないように、片付ける、仕舞う、その状況から離れさせる意図があったと推察できる。それはつまり剣を用いることをイエスが認めていないと考えられる 。
(2)以上のイエスの命令は、剣を取った弟子だけでなく、また剣と棒を持って集まって来た群衆だけでもなく、その場面に居合わせた剣の持つ権力、能力、威力等に価値を置く人間全員に対して語っているとも考えられる。
(3)その剣を取る者は、みな滅びる(ἀπολοῦνται )ことが警告されている。それは剣に拠り頼む者すべてに対するものであると考えられる。その滅びるべき人間のために、イエスがἀπολοῦνται を負ってくださったことを、マタイのἀπολοῦνται の用い方から考えさせられる。ただし、イエスがこの26:52文脈で、その滅びをイエスご自身が負うことまで言っているとは断定できない。

Ⅴ.マタイ10:34と26:52の関連性の分析
(1)剣とイエス
 マタイ10:34で初めて使用された「剣」は、文脈の検討でも既に触れたが、直接的な武器を意味しているというよりは、争いや分裂等の意味があることを確認してきた。
エスは徹底して敵を愛することを表し、平和をつくる者は幸いであること を、まさに神の御子ご自身として、言葉においても行動においても貫徹した歩みをされたが、そのイエスがこの罪の世に来られたことは、必然的に世の罪が御子の光によって明らかにされ、争いや暴力、分裂に満ちている事実が露呈される。ヨハネの言うように、イエスは「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」ことに分裂が起こる要因があると推察できる 。つまり、イエスを受け入れなかったこの世に分裂や争いの種があるということである。それがイエスの言う「剣をもたらすために来た」という意味ではないだろうか 。  
確かに本テキストで登場する「剣や棒」は字義通りの武器であることはペリコーペ分析でも触れてきたとおりである。しかし、マタイがあえて剣という言葉を二箇所 に限定していることから、マタイ10章と26章の間には何らかの関連があると推察することができる。

(2)剣と滅び
 10章においては39節でἀπόλλυμι が使用されている 。そこでは「滅び」とは訳出されておらず「失う」という意味で用いられている 。しかし、10:39の「自分のいのちを自分のものとする者」がそれを「失う」ἀπόλλυμι ということと、26:52の「剣を取る者」はみな剣で「滅びます」ἀπόλλυμι との繋がりを考察するとき、「自分のいのちを自分のものとする者」と「剣を取る者」に関係性があると推察できる。
 10:34~39のイエスに従う弟子たちの生き方についてイエスが語られたという文脈では、「自分のいのちを自分のものとする者」とは「自分の十字架を負ってわたし(イエス)について来ない者」であると考えられる。その意味を汲んで26:52に重ねるなら、「剣を取る者」とは、イエスに従うこととは反対の生き方をする者を指すことばであると推察できる。即ちそれは、剣をもし取るならば、イエスを守るのではなく、またイエスのためにいのちを捨てるのでもなく、むしろ「滅びる」ことになるという意味として分析できる。

(3)剣と弟子たち
エスが、十二弟子を任命し彼らに求めたことは、イエスに従うことにおいて起こる「剣」を伴う十字架への道を、その苦難を負って歩むことであった 。ところが、実際に「剣と棒」を持った人々が迫ってきたときに弟子たちが取った行動は「剣」を取って戦うことであったが、イエスによってその剣を納めるよう命じられるや否や、イエスを見捨てて、みな逃げてしまった。
 このことから、イエスが求めていた弟子としての歩みを弟子たちのだれもが実行できなかったと推察できる。

 

Ⅴ-1. 小結論
 10:34の内容から、イエスは剣をもたらすために来られたと言うことができる。その剣には、争いや分裂等という意味が込められているが、それは、イエスご自身が持っているものではなく、この世が持っている性質であると考えることができる。事実、イエスに対して群衆は26章において「剣と棒」を持って捕らえようとした。そういう意味で「剣がもたらされた」と言うことができる。
 それに対してイエスの弟子もこの世の武器である「剣」を抜き防衛しようとしたが、イエスは「剣を取る者はみな剣によって滅びる」と言われた。弟子たちは世の力と同じ方法で戦おうとしたが、それはイエスの心ではなかったのである。
 そこで、10章との繋がりを考慮すると、26章の「剣」が字義通りの剣というだけでなく、分裂や争いなど の内容をも含み、それら一切が罪から起こる結果として象徴的な意味での「剣」でもあるという可能性を示唆していると捉えることができるのではないだろうか。そのように、10章と26章には「剣」、「滅び」という言葉において、関連性があると考えられる。それが著者マタイの視点で配置され、マタイの福音書として、イエスがメシアであり神の国の王として十字架に向うという、一貫した姿勢が描かれている。その十字架こそ神の国建設におけるイエスの王として果たすべき務めだったからである。
 また同時に、10章にある十二使徒におけるイエスに対する従順というテーマが26章に至るまで続いており、10章でイエスが言われた「剣」に象徴される受難に対して、弟子たちが26章でどうなったのかが明らかにされている。結果的に弟子たちは全て逃げてしまい、求められていた使命を果たせなかったため、イエスがお一人で、その「剣」が指し示すところの受難を負われた事実に、イエスのメシアとして来臨の目的である十字架の意味が見えてくる。
 以上のように、マタイの視点は26:52においても、イエスの贖罪を意識した意味を含んでいる可能性があると考えることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

結 論

 本論文において、キリスト者が武器を取ることについて考察し、提示した問題 についての答えを探ってきたが、結論として以下のようにまとめる。

(1)イエスが弟子に剣を取ることをやめさせた理由
 マタイ26:52における釈義から以下の三つのことを挙げることができる。
①武力は、イエスがメシアとして建設する王国には相容れない方法である。
②武力がなくても神の計画は遂行される。
③武力に訴えるものはむしろ滅びる。
(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用すること  
 本論文の研究範囲において、その正当性が認められないことは、前述の理由から明らかである。
(3)本テキストとマタイ10:34との関連性
 本研究を通して得た以下のことを理由として、その関連性を完全に否定することはできないと考える。
①本テキストの「滅びる」というイエスのことばが、直接イエスの十字架の贖罪性に言及しているかどうかについては、釈義においてそれを断言できるほどの証拠を得ることができなかったが、弟子たちが負い切れなかった「十字架」という「剣」(苦難)と、また剣を取る者たちが受けるべきἀπόλλυμι 「滅び」をイエスが負われたことを示している二重の可能性があること。
②10:34の「剣」を本テキストにおける「剣」に重ねることで、本テキストの意味が単に倫理的な事柄だけを言っているのではなく、マタイのテーマであるメシアなるイエスによる神の国建設にとって不可欠な十字架、復活、教会、終末に焦点が合わせられていくと考えられること。

適 用

以上の結論を踏まえ、そこから導き出されたキリスト論的視点、またキリスト教倫理的視点に立って考察し、本論文の適用とする。
 イエスは、ご自身をこの世に投じ「争い、分裂、暴力」としての剣を取る私の身代わりに滅びる者、失われる者となってくださった。キリスト者は、その十字架の犠牲に表された神の愛をまず受け取る必要がある。また、キリスト者は、その愛に押し出されて、御霊の与えるみことばの剣 に日々聞き、日々教えられ、日々砕かれつつ備える者とされていかなければならない。キリスト者にとっての剣とは神のことばであると適用できるのではないだろうか。  
「剣」に示されるこの世の力に頼るのか、それとも神のことばに頼るのかが問われているのではないか。キリスト者はイエスがそうされたように、暴力としての剣ではなく御霊の与える剣である神のことばに立つ平和を選択することが求められていると推察する 。
 ゆえにイエスは、ご自分で報復せずに神に全てのさばきを任せるという姿勢を表した。それは「正しくさばかれる方」である神に任せたからであると弟子ペテロがその手紙の中でも証言している 。
ここから、もし私たちが不当な攻撃を受け死に至ったとしても、すべてのさばきの主権は神にあるということを認めることがまず大切であると考える。
 キリストが求めておられていることは、後に来る完成した神の国を先取りした姿勢であり視点ではないか。現在は、神の国は到来したが広がりつつもいまだ完成したとは言い難い。だから、一時的に、世の権力を認めつつ 、この地に御国が来るように、御心が天で行われるように地でも行われるように祈りながら 、やがて訪れる完成した神の国を見据えた信仰が求められる と考えることができる。
今後の課題
 取り残した研究として、「国家と教会」の関係性等、戦争について、また本研究において触れたマタイにおける ἀπολοῦνται の配置とイエスの十字架刑についての考察 も続けて深めていきたい課題である。今後も更に、この世にキリスト者として置かれている責任を果たせるように学んでいきたい。
資料

資料1.マタイ26:52のギリシャ語テキストと和英各翻訳

① UBS5版
τότε λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς ἀπόστρεψον τὴν μάχαιράν σου εἰς τὸν τόπον αὐτῆς· πάντες γὰρ οἱ λαβόντες μάχαιραν ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.

② ネストレ28版
τότε λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς ἀπόστρεψον τὴν μάχαιράν σου εἰς τὸν τόπον αὐτῆς· πάντες γὰρ οἱ λαβόντες μάχαιραν ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται·

③ 新改訳
そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」

④ 新共同訳
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

⑤ 口語訳
そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
⑥ フランシスコ会
その時、イエスは彼に仰せになった、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びる。」

⑦ 詳訳聖書
その時、イエスは彼に言われた、「あなたの剣を元に収めなさい。剣を抜く者はみな剣で死ぬからである。」

⑧ NIV
“Put your sword back in its place,” Jesus said to him, “for all who draw the sword will die by the sword.

⑨ KJV
Then said Jesus unto him, Put up again thy sword into his place: for all they that take the sword shall perish with the sword.

⑩ ESV
Then Jesus said to him, “Put your sword back into its place. For all who take the sword will perish by the sword.

 

 

 


資料2. マタイ26:52のパース
τότε   λέγει    αὐτῷ    ὁ  Ἰησοῦς
αὐτός

ἀπόστρεψον  τὴν μάχαιράν   σου   


εἰς   τὸν τόπον   αὐτῆς·

 

πάντες  γὰρ    οἱ   λαβόντες   μάχαιραν


ἐν   μαχαίρῃ   ἀπολοῦνται.

 

 

 

 

資料3.図解分析

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


資料4.語彙研究

資料4.  ①「剣」:μάχαιραの新約聖書に見る用例  26節に29箇所

時系列的順序
  聖書箇所 誰が 誰に 用例 備考
1 Matt. 10:34 イエス 12弟子 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」 比喩的
剣(分裂・争い)をもたらすために来られたイエス
2 Luke 21:24 イエス 群衆 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。 再臨の預言
比喩的
剣の刃に(戦争によって)倒れ

3 Luke 22:36 イエス 弟子たち 「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。 剣を買いなさい①

4 Luke 22:38 弟子たち イエス 「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」 剣を買いなさい②

5 Matt. 26:47 著者 読者 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。 イエスの逮捕①                         (並行箇所)
剣や棒は権力側の権威の象徴か、丸腰の者に対する威圧的な暴力の強調か。
6 Mark 14:43 著者 読者 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
7 Luke 22:49 弟子たち イエスエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。 イエスの逮捕②
弟子の武装。防衛の備えは可能か。
8 Matt. 26:51 著者 読者 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。 イエスの逮捕③                               (並行箇所)
自己防衛、自衛権の行使か。
9 Mark 14:47 著者 読者 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。
10 John 18:10 著者 読者 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
11 Matt. 26:52 イエス 弟子のひとり(ペテロ) そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 イエスの逮捕④                             (並行箇所)
「剣を捨てよ」ではなく、「収めよ」とは如何に。
12 John 18:11 イエス ペテロ 「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

13 Matt. 26:55 イエス 群衆 まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。 イエスの逮捕⑤                           (並行箇所)
Matt.26:47等にある「剣や棒」(暴力・圧力)に対するイエスの反論。
14 Mark 14:48 イエス 群衆 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。
15 Luke 22:52 イエス 押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たち 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。
16 Acts 12:2 著者 読者 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 使徒ヤコブ殉教
あえて「剣で」と表現する。
17 Acts 16:27 著者 読者 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。 ピリピの牢獄で
看守の剣は自害のためではなく官憲としての権威の象徴か。
18 Rom. 8:35 パウロ 読者 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 神の計画と勝利
キリストの愛からキリスト者を引き離す脅威としての剣とは。
19 Rom. 13:4 パウロ 読者 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。 為政者への態度
神が許されている為政者の権威としての剣。
20 Eph. 6:17 パウロ 読者 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 キリスト者の戦い
キリスト者に委ねられる積極的武装
21 Heb. 4:12 著者 読者 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 不従順にならないために
キリスト者が持つ武器としての剣の威力と効果。
22 Heb. 11:34 著者 読者 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。 信仰の勇士たち
Luke.21:24に対比できる比喩。
23 Heb. 11:37 著者 読者 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、 信仰者の苦難
患難の悲惨さを表す道具としての剣。
24 Rev. 6:4 ヨハネ 読者 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。 第二の封印
大きな権力を象徴する比喩的表現か。
25 Rev. 13:10 ヨハネ 読者 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。 第一の獣
Matt.26:52と類似表現。キリスト者の忍耐と信仰が必要な理由とは。
26 Rev. 13:14 ヨハネ 読者 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。 第二の獣
戦いによって受けた傷を「剣の傷」としている理由とは。


②「剣」:ῥομφαίαの新約聖書に見る用例  7箇所


  聖書箇所 誰が 誰に 用例 備考
1 Luke 2:35 シメオン マリア 「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」 比喩的
剣(イエスの受難)による母としての悲しみ。
2 Rev.1:16 ヨハネ 読者 「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」 ヨハネが幻の中で目撃した人の子のような方。
両刃の剣(みことばを指す抽象的な描写か)

3 Rev.2:12 ヨハネ 読者 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。 1:16と関連しており、イエスの口から語られるみことばこそ、キリスト者に必要な霊的な武器なのか。

4 Rev.2:16 両刃の剣を持つ方 ペルガモにある教会 「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」 最も優れた武器として、口の剣であるみことば。
5 Rev.6:8 ヨハネ 読者 「私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」 戦争を指し示す表現としての剣と思われる。
6 Rev.19:15 ヨハネ 読者 「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。」 イエスの口から出る両刃の剣こそ信仰の戦いに勝利を与える象徴的描写。
7 Rev.19:21 ヨハネ 読者 「残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」 同上

③「戻す」:ἀποστρέφωの新約聖書に見る用例 9箇所

  聖書箇所 誰が 誰に 用例 備考
1 Matt. 5:42 イエス 十二弟子 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。 断らないように
2 Matt.26:52 イエス 群衆 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 もとに納めなさい

3 Luke 23:14 ピラト 祭司長、指導者たち、民衆 あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。 惑わす=離反させる、背教するようにそそのかす。

4 Acts 3:26 ペテロ ソロモンの回廊にいる人々 神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。 立ち返らせて
5 Rom. 11:26 パウロ 読者 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。 取り払う
6 2Tim. 1:15 パウロ テモテ あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。 離れて行きました
7 2Tim. 4:4 パウロ テモテ 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 耳をそむけ
8 Titus 1:14 パウロ テトス ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。 真理から離れた
9 Heb. 12:25 著者 読者 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。 背を向ける

 

資料5. マタイ26:55並行箇所ギリシャ語原文下線部比較

日本語
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って」

マタイ26:55
ὡς ἐπὶ λῃστὴν ἐξήλθατε μετὰ μαχαιρῶν καὶ ξύλων συλλαβεῖν με;

マルコ14:48
ὡς ἐπὶ λῃστὴν ἐξήλθατε μετὰ μαχαιρῶν καὶ ξύλων συλλαβεῖν με;

ルカ22:52
ὡς ἐπὶ λῃστὴν ἐξήλθατε μετὰ μαχαιρῶν καὶ ξύλων;

 

 

 

 

 


資料6. 「剣」:μάχαιραの福音書別使用傾向
聖書箇所 誰が 誰に 用例 文脈的考察 場面
マタイの福音書
Matt. 10:34 イエス 12弟子 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」 イエスはここで剣をもたらす(投げ入れる)ために来たと言っているが、文脈から考察すると「平和」との対句として用いられているため、刃物としての剣を直接的に言っているのではない。並行箇所であるルカ12:51によれば剣ではなく「分裂」であると明らかにされている。つまり「平和」に対する意味で「分裂」という意味で「剣」を用いているのである。しかし、ルカがそのように説明しているのに、なぜマタイは「剣」と記録したのか。 十二使徒の 任命

Matt. 26:47 著者 読者 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。 マタイが次に「剣」を記録しているのはイエスの逮捕の場面に集中している。10:34の「剣」を念頭に追ってみると、イエスの存在によって「剣や棒」を持った群衆が押し寄せたことに目が留まる。 イエスの逮捕①                         (並行箇所)
Matt. 26:51 著者 読者 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。 現に弟子のひとりが、イエスを捕えるために剣や棒を持ってやって来た大祭司のしもべに打ちかかった。ヨハネ18:10によるとこの弟子はペテロであったことがわかるが、それよりもマタイは、イエスの弟子も剣を持ち、それを用いたことを記録している。 イエスの逮捕③                               (並行箇所)
Matt. 26:52 イエス 弟子のひとり(ペテロ) そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 イエスは弟子をたしなめ、剣を収めさせる。(ヨハネは、イエスが鞘に収めるように命じたことを記している。)そして、剣を取る者(複数形)がすべて剣によって死ななければならないことを告げる。この剣を取る者たちとは、文脈から見ても「剣や棒」を持って集まった群衆と弟子も含むと言える。 イエスの逮捕④                             (並行箇所)
Matt. 26:55 イエス 群衆 まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。 ここでイエスは「強盗にでも向かうように」と言って、丸腰の自分に向かって来るには目的を見誤っているのではないかとも受け取れる発言をしている。しかし、マタイの「剣」の用例によって見方を変えると、罪なきイエスがまさに強盗として、また剣をもたらした者として死ななければならないことを言っているとも受け取れる。同時に、彼らの「剣や棒」は本来強盗などの凶悪犯を取り締まるために用いられなければならないものであることを認めているとも読み取ることができる。人の罪はキリストが身代わりとなり、神の懲らしめと罰として血を流すことにより贖われ、人は神のかたちに再創造されるのである。共観福音書すべてに「まるで強盗にでも向かうように剣と棒を持って」と全く同じ言葉が記されている。 イエスの逮捕⑤                           (並行箇所)

 


マルコの福音書
Mark 14:43 著者 読者 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。 マルコは、イエスの逮捕の場面にのみ「剣」という言葉を使用している。イエスが語った言葉だけは共観福音書共通の表現を含んでいる。 イエスの逮捕①                         (並行箇所)
Mark 14:47 著者 読者 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。 マタイとほぼ同様の内容である。マルコの福音書を記したとされるマルコが、ペテロから福音書執筆のための資料、情報を得たとするならば、ペテロがここで名を伏せたことは興味深い。 イエスの逮捕③                               (並行箇所)
Mark 14:48 イエス 群衆 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。 この箇所はマタイの並行記事とすべて一致していることは注目できる。ルカにおいても「剣や棒を持って」までは一致している。 イエスの逮捕⑤                           (並行箇所)

ルカの福音書
Luke 21:24 イエス 群衆 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。 この個所における剣は、20節の「エルサレムが軍隊に囲まれる」という預言を受けての剣であり、この軍隊が持つ武器によって倒され、「捕虜となって」とあり、終末において迫りくる恐怖の一つと言えよう。ルカはこの箇所を「剣」μάχαιραの最初とした。 終末の預言

Luke 22:36 イエス 弟子たち 「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。 内容的には、21:24からの続きを思わせる場面である。この時点で着物を売って剣を買うことは切羽詰まった感を覚える。ここのイエスの発言も注意して聞く必要がある。剣を準備せよとはどういうことか。しかも弟子が示した二振りの剣に対して「それで十分」と、それがどういう意味か確定し得ない発言をしている。榊原康夫は4通りの解釈を、宮村武夫は3通りの解釈を指し示すが、どれがもっとも相応しい解釈なのかは断言できない。歴史的には、494年にゲラシウス1世が、東ローマ皇帝アナスタシウス1世に宛てた書簡で、政治的権能と宗教的権能を表すと説いたが、その後11世紀に、ペトルス・ダミアニがこのルカ22:38の二振りの剣を当てはめ「両剣論」として補強したことがあった。 剣を買いなさい①

Luke 22:38 弟子たち イエス 「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」 剣を買いなさい②

Luke 22:49 弟子たち イエスエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。 上記同様、この会話を記録しているのはルカだけである。このあと剣を抜いて切りかかったのはペテロであるが、他の弟子たちも剣を持っていたのか、「剣で打ちましょうか」と言ったのイエスの周りにいた者たち。つまり弟子たちであった。 イエスの逮捕②

Luke 22:52 イエス 押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たち 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか マタイ、マルコとほぼ同じだが、ルカだけが「わたしを捕まえに来たのですか」にあたる文が「やって来たのですか」になっている。(資料5参照) イエスの逮捕⑤                           (並行箇所)

ヨハネ福音書
John 18:10 著者 読者 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。 この内容については全福音書が記録している。しかし、ヨハネだけが剣をもって大祭司のしもべの耳を切り落とした人物の名前を記している。また耳を切られたしもべの名も記している。 イエスの逮捕③                               (並行箇所)


エス ペテロ 「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」 マタイは剣をもとに戻すように言ったことを記録しているが、ヨハネはそれが鞘であったことを明確に記している。また御子として十字架に架かることを自分の意志として表明している点が、他の福音書との大きな違いである。 イエスの逮捕④                             (並行箇所)

資料.7 マタイの福音書アウトライン~文書構成の分析(簡略版)  
              
1.イエスの誕生(1:1~2:23)~ダビデ王家から
エジプトへ~幼子を(2:13~18)
殺そうとしています→ἀπόλλυμι(滅ぼそうとしている)  

2.公生涯のはじまり(3:1~4:11)
バプテスマのヨハネの宣教(3:1~12)
エスの受洗(3:13~17)
サタンの試み(4:1~11)

3.宣教第一年(4:12~11:30)~ガリラヤ宣教
  山上の教え~神の国の説教(5:1~29)御国への招き
姦淫:情欲を抱いて女を見る(29,30)からだの一部を失っても
  ガリラヤ湖で嵐を鎮める(8:23~27) おぼれそうです~(25)
  新しいぶどう酒(9:14~17)~皮袋もだめに~(17)
  収穫は多いが働き手が少ない(9:35~38)
  十二弟子の派遣と弟子への教え(10:5~42)、滅びた羊のところへ(6)
  たましいを殺せない人を恐れるな~ゲヘナで滅ぼすことのできる方を
 ★わたしは剣をもたらすために来た~自分の十字架を負って
(10:34~39)マタイ福音書最初の「剣」、「十字架」~それを失い(39)
  弟子に水一杯でも~報いに漏れることはありません(42)

4. 宣教第二年(12:1~15:20)
  手のなえた人の癒しと安息日論争(12:9~12)~イエスを滅ぼそうか
  ヨハネの処刑《回想》(14:3~12)
  
5.宣教第三年(15:21~20:34)
  死と復活の預言(1)~下がれサタン(16:21~23)
  自分を捨て自分の十字架を負い(16:24)
  変貌の山~モーセとエリヤ現る(17:1~8)
  ガリラヤで~死と復活の預言(2)(17:22~23)
  エルサレムへの途上~死と復活の預言(3)(20:17~19)
 
6.最後の一週間(21:1~28:20)~神の国の王来臨
  エルサレム入城~ロバの子に乗って(21:1~11)
  十字架の預言(26:1~2)
  ユダの裏切り(26:14~16)
  過越しの食事の準備(26:17~19)
  裏切りの予告とユダの退席(26:20~25)
  最後の晩餐のパンと杯(26:26~29)
  オリーブ山へ出かける(26:30)
  ペテロの否認を予告(26:31~35)
  ゲツセマネでの祈り(26:36~46)
★イエスの逮捕と弟子たちの逃走(26:47~56)
 ~剣や棒を~剣を取るものはみな剣で滅びる
  弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった(56) 
  大祭司カヤパの家でのサンヘドリンの裁判(26:57~68)
  ペテロの一回目の否認(26:69~70)
  ペテロの再度の否認と慟哭(26:71~75)
  総督ピラトへの送致(27:1~2)
  ユダの自殺(27:3~10)
  ピラトの前における裁判(27:11~14)
  祭司長・長老たちはイエスを死刑にするよう説きつけた(27:15~23)
  鞭打ちの刑~(27:24~26)
  十字架への引渡し~兵士の嘲弄
  クレネ人シモンに十字架を負わせる(27:32)
  ゴルゴタでの十字架刑~罪状書き~着物を分ける~玉座は十字架
  人々の嘲弄~父よ。彼らをお赦しください(27:39~43)
  十字架につけられた二人の強盗(27:44)
  エリ、エリ、レマ、サバクタニ
  酸いぶどう酒を含ませて(27:48~49)
  息を引き取られるイエス(27:50)
  神殿の幕が裂ける~地震と聖徒のよみがえり(27:51~53)
  百人隊長の信仰告白~この方はまことに神の子であった(27:54)
  十字架を眺める女たち(27:55~56)
  アリマタヤのヨセフの墓への埋葬(27:57~61)
  番兵の指示(27:62~66)
  マリヤが墓を訪れ、御使いが現れる(28:1~15)
  イエスがマリヤに現れる(28:9~10)
  祭司長たちが番兵に偽りを指示(28:11~15)
  ガリラヤで~大宣教命令(28:16~20)~あらゆる国の人々を弟子に 

資料.8  ἀπόλλυμι 語彙研究  
マタイ:17箇所で使用されている 。  

Matt. 2:13 Ἀναχωρησάντων δὲ αὐτῶν ἰδοὺ ἄγγελος κυρίου φαίνεται κατ᾿ ὄναρ τῷ Ἰωσὴφ λέγων· ἐγερθεὶς παράλαβε τὸ παιδίον καὶ τὴν μητέρα αὐτοῦ καὶ φεῦγε εἰς Αἴγυπτον καὶ ἴσθι ἐκεῖ ἕως ἂν εἴπω σοι· μέλλει γὰρ Ἡρῴδης ζητεῖν τὸ παιδίον τοῦ ἀπολέσαι αὐτό.
彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
Matt. 5:29 Εἰ δὲ ὁ ὀφθαλμός σου ὁ δεξιὸς σκανδαλίζει σε, ἔξελε αὐτὸν καὶ βάλε ἀπὸ σοῦ· συμφέρει γάρ σοι ἵνα ἀπόληται ἓν τῶν μελῶν σου καὶ μὴ ὅλον τὸ σῶμά σου βληθῇ εἰς γέενναν.
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。
Matt. 5:30 καὶ εἰ ἡ δεξιά σου χεὶρ σκανδαλίζει σε, ἔκκοψον αὐτὴν καὶ βάλε ἀπὸ σοῦ· συμφέρει γάρ σοι ἵνα ἀπόληται ἓν τῶν μελῶν σου καὶ μὴ ὅλον τὸ σῶμά σου εἰς γέενναν ἀπέλθῃ.
からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
Matt. 8:25 καὶ προσελθόντες ἤγειραν αὐτὸν λέγοντες· κύριε, σῶσον, ἀπολλύμεθα.
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
Matt. 9:17 οὐδὲ βάλλουσιν οἶνον νέον εἰς ἀσκοὺς παλαιούς· εἰ δὲ μή γε, ῥήγνυνται οἱ ἀσκοὶ καὶ ὁ οἶνος ἐκχεῖται καὶ οἱ ἀσκοὶ ἀπόλλυνται· ἀλλὰ βάλλουσιν οἶνον νέον εἰς ἀσκοὺς καινούς, καὶ ἀμφότεροι συντηροῦνται.
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
Matt. 10:6 πορεύεσθε δὲ μᾶλλον πρὸς τὰ πρόβατα τὰ ἀπολωλότα οἴκου Ἰσραήλ.
イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
Matt. 10:28 Καὶ μὴ φοβεῖσθε ἀπὸ τῶν ἀποκτεννόντων τὸ σῶμα, τὴν δὲ ψυχὴν μὴ δυναμένων ἀποκτεῖναι· φοβεῖσθε δὲ μᾶλλον τὸν δυνάμενον καὶ ψυχὴν καὶ σῶμα ἀπολέσαι ἐν γεέννῃ.
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
Matt. 10:39 ὁ εὑρὼν τὴν ψυχὴν αὐτοῦ ἀπολέσει αὐτήν, καὶ ὁ ἀπολέσας τὴν ψυχὴν αὐτοῦ ἕνεκεν ἐμοῦ εὑρήσει αὐτήν.
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
Matt. 10:42 καὶ ὃς ἂν ποτίσῃ ἕνα τῶν μικρῶν τούτων ποτήριον ψυχροῦ μόνον εἰς ὄνομα μαθητοῦ, ἀμὴν λέγω ὑμῖν, οὐ μὴ ἀπολέσῃ τὸν μισθὸν αὐτοῦ.
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
Matt. 12:14 ἐξελθόντες δὲ οἱ Φαρισαῖοι συμβούλιον ἔλαβον κατ᾿ αὐτοῦ ὅπως αὐτὸν ἀπολέσωσιν.
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
Matt. 15:24 ὁ δὲ ἀποκριθεὶς εἶπεν· οὐκ ἀπεστάλην εἰ μὴ εἰς τὰ πρόβατα τὰ ἀπολωλότα οἴκου Ἰσραήλ.
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
Matt. 16:25 ὃς γὰρ ἐὰν θέλῃ τὴν ψυχὴν αὐτοῦ σῶσαι ἀπολέσει αὐτήν· ὃς δ᾿ ἂν ἀπολέσῃ τὴν ψυχὴν αὐτοῦ ἕνεκεν ἐμοῦ εὑρήσει αὐτήν.
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
Matt. 18:14 οὕτως οὐκ ἔστιν θέλημα ἔμπροσθεν τοῦ πατρὸς ὑμῶν τοῦ ἐν οὐρανοῖς ἵνα ἀπόληται ἓν τῶν μικρῶν τούτων.
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
Matt. 21:41 λέγουσιν αὐτῷ· κακοὺς κακῶς ἀπολέσει αὐτοὺς καὶ τὸν ἀμπελῶνα ἐκδώσεται ἄλλοις γεωργοῖς, οἵτινες ἀποδώσουσιν αὐτῷ τοὺς καρποὺς ἐν τοῖς καιροῖς αὐτῶν.
彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
Matt. 22:7 ὁ δὲ βασιλεὺς ὠργίσθη καὶ πέμψας τὰ στρατεύματα αὐτοῦ ἀπώλεσεν τοὺς φονεῖς ἐκείνους καὶ τὴν πόλιν αὐτῶν ἐνέπρησεν.
王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
Matt. 26:52 τότε λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· ἀπόστρεψον τὴν μάχαιράν σου εἰς τὸν τόπον αὐτῆς· πάντες γὰρ οἱ λαβόντες μάχαιραν ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
Matt. 27:20 Οἱ δὲ ἀρχιερεῖς καὶ οἱ πρεσβύτεροι ἔπεισαν τοὺς ὄχλους ἵνα αἰτήσωνται τὸν Βαραββᾶν, τὸν δὲ Ἰησοῦν ἀπολέσωσιν.
しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。


参考文献

聖書
・『聖書 新改訳』(第3版) 日本聖書刊行会, 2006.
・『聖書 新共同訳』 日本聖書協会,1987.
・『聖書 口語訳』 日本聖書協会, 1954.
・『原文校訂による口語訳 聖書』 フランシスコ会聖書研究所訳注, 2013.
・『詳訳聖書 新約』 詳訳聖書刊行会, 1962.
・岩隈直訳註『希和対訳脚註つき新約聖書②マタイ福音書(下)』 山本書店, 1989.
・左近義慈,平野保監修『日本語対訳ギリシャ語聖書1.マタイによる福音書』 教文館, 1991.
・Noveum Testament Graece, (Gesamthetellung Biblia-Druck Stuttgart,28ed.,2012)
・The Greek New Testament, (Fifth reviced edition; Deutsche Bibelgellschaft United Bible Societies,2015)
・The Holy Bible, (New International Version; New York International Bible Society, 2011)
・The Holy Bible,(Authorized King James Version,ILLUSTRATED,1611)
・English Standard Version Bible,(Crossway Bibles, a ministry of the Good News Publishers of Wheaton, Illinois, 2001)
・Bible Works9(Bible Works, 2012)
・Accordance Bible Software Ver. 11
辞典
・岩隈直『新約ギリシャ語辞典』(増補2版;山本書店,1985)
・『ギリシア新約聖書釈義事典Ⅰ』荒井献・H.Iマルクス監修(教文館,2015)
・『ギリシア新約聖書釈義事典Ⅱ』荒井献・H.Iマルクス監修(教文館,2015)
・『ギリシア新約聖書釈義事典Ⅲ』荒井献・H.Iマルクス監修(教文館,2015)
・『新聖書辞典』泉田昭・宇田進・服部嘉明・舟喜信・山口昇編(いのちのことば社,1985)
・『新聖書語句辞典』松本任弘監修(いのちのことば社, 1996)
・『広辞苑 第五版』新村出編集(岩波書店, 1998)
・『新キリスト教辞典』宇田進・鈴木昌・蔦田公義・鍋谷堯爾・橋本龍三・山口昇編(いのちのことば社, 1991)
・Bauer,W.,et al.,A Greek-English Lexicon of the New Testament and other Easty Christian Literature, 2ed ed(Chicago,IL:chicago University Press, 1979)

文法書
・メイチェン,J.グレシャム新約聖書ギリシャ語原典入門』(新生宣教団,1976)
・津村春英『新約聖書ギリシャ語入門』(いのちのことば社,2011)
・Wallace,Daniel B “Greek Grammar Beyond the Basics”Zondervan, 1996

注解書
・増田誉雄「マタイの福音書」『新聖書注解 新約1』(いのちのことば社,1980)
・山口昇「マタイの福音書」『新聖書講解1』(いのちのことば社,1983)
・マックナブ,アンドリュー, 村岡崇光訳『聖書注解』(聖書同盟,1987)
・フランス,R.T,山口昇訳「マタイの福音書」『ティンデル聖書注解』(いのちのことば社,2011)
・『新実用聖書注解』宇田進,富井悠夫,宮村武夫監修(いのちのことば社, 2008)
・榊原康夫「マタイによる福音書Ⅲ」(みくに書店, 1965)
・榊原康夫「マタイによる福音書Ⅶ」(みくに書店, 1967)
・榊原康夫「聖書講解 ルカの福音書」(いのちのことば社, 1972)
・佐竹明「NTD新約聖書註解」(NTD新約聖書註解刊行会, 1978)
・尾山令仁「マタイによる福音書 下」(羊群社, 1979)
・中澤啓介「マタイの福音書註解下」(いのちのことば社,2003)
・レオン・モリス,岡本昭世訳「ルカの福音書」『ティンデル聖書注解』(いのちのことば社,2014)

神学書
・テニィ,C.メリル『新約聖書概観』(聖書図書刊行会,1984
・ハリソン,F.エヴェレット『新約聖書緒論』(聖書図書刊行会,1977)

その他
・フィー,G.D、永田竹司訳『新約聖書の釈義』(教文館, 1998)
・バルト,カール、天野有訳『国家の暴力について』(新教出版社, 2003)
・鈴木光『バカな平和主義者』と独りよがりな正義の味方』(いのちのことば社, 2016)
・ロイドジョンズ,D.M、渡部謙一訳『神はなぜ戦争をお許しになるのか』(いのちのことば社,2015)
・ケースマン,マルゴット/ヴェッカー,コンスタンティン、木戸衛一訳『なぜ平和主義にこだわるのか』(いのちのことば社,2016)
・石川明人著『キリスト教と戦争』(中公新書,2016)
加藤尚武『戦争倫理学』(筑摩書房,2003)
・渡辺信夫『信仰にもとづく抵抗権』(いのちのことば社,2016)
・朝岡勝『バルメン宣言を読む』(いのちのことば社,2016)
・宮村武夫『ルカの福音書③味読・身読の手引き』(クリスチャントゥデイ,2014)
・恵谷治『スーパーグラフィックス世界テロ戦争』(小学館,2002)
・テーブス,J.A『キリストによる無抵抗主義』(いのちのことば社,1957)
・泉田昭『キリスト教倫理』(いのちのことば社,2009)
・吉田浩二『旧新約聖書通論テキストブック第12版』(厚別福音キリスト教会,2015)
・遠藤勝信『この人を見よ ヨハネによる受難物語』(いのちのことば社,2010)
水草修治『教会と国家』(苫小牧福音教会,2009)
カルヴァン,J、渡辺信夫訳『キリスト教綱要第4篇改訳版』(新教出版社,2011)
・矢口以文『教会と国家・戦争について 北星論集第25号』(北星学園大学,1987)
・熊谷定男『一目で見る四福音書』(聖恵授産所出版部,1995)
・苑田亜矢 『一二世紀後半イングランドにおける両剣論 熊本法学第127号』(熊本大学,2013)
・ハーレイ,H,ヘンリー『聖書ハンドブック』(聖書図書刊行会,1984)
・宮田光雄『平和の思想史的研究』(創文社,1983)

 

文責:川﨑憲久