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◎レポート聖霊論01‐2 聖霊とは誰か 水草修治師

Ⅰ 聖霊とは誰か

 

 聖霊についての考察は父と子の考察に比べて困難がある。それは、父なる神と御子に関して聖書が述べる量に比べれば、聖霊について聖書が述べるところは、はるかに少ないからである。なぜ少ないのか?聖書は霊感という聖霊の働きによって記された書であるが、聖霊はご自分を現わすのでなく、御父と御子とを顕わすことに徹するお方であるからである。

 

1. 聖霊の神性と人格性

 

(1)聖霊の神性に関する論争

 アレイオス(ラテン語読みでアリウス250-336)は、「聖霊は御子によって創造された最初の被造物である」とした。コンスタンティノポリスの総主教マケドニオスは、聖霊は御子に従属する被造物であるとしたが、第1コンスタンティノポリス公会議で彼の説は異端とされ Πνευματομάχοιプネウマトマコイと呼ばれた。

 これに対してアタナシオスは、聖霊は御父と同質であると主張した。カッパドキアの教父たちはアタナシオスにしたがい、聖霊のホモウーシオス(同質)を主張。西方のポエティアのヒラリウスは「聖霊は神の深みまでもきわめる」のであるから、神的本質と異質のはずがないとした。

 「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(1コリント2:10)

 コンスタンティノポリス公会議は、二ケア信条の承認を宣言し、定式を受け入れた。

Καί  είς  τό  Πνεύμα  τό ¨Αγιον,  τό Κύριον,  τό  ζωοποιόν, τό εκ τού  Πατρός  εκ πορευόμενον, τό  σύν Πατρί  καί  Υιώ συμπροσκυνούμενον  καί  συνδοξαζόμενον, τό  λαλήσαν  διά τών  Προφητών.   (東方なのでkai ek tou huiouを欠く)

Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem, qui ex Patre (Filioque) procedit. Qui cum Patre et Filio simul adoratur et conglorificatur: qui locutus est per prophetas.

「また、われらは主にして生命を与える聖霊、御父より発出し、御父と御子とともに礼拝されるべきお方、預言者たちを通して語りたもうお方を信ず。」

 

(2)聖霊の神性の証拠聖句

聖霊は父なる神、子なる神と並べて、つまり同等のものとして語られているところがある。大宣教命令において、主イエスはおっしゃった。

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「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイ28:19)

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②祝祷において、父、子と同等に聖霊が呼ばれる。

使徒パウロはコリント教会に対する手紙の末尾に、三位一体の神に祝福を祈っている。パウロ書簡においては、御父は神、御子は主と呼ばれる。

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「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(2コリント13:13)

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 では、使徒パウロの書簡において、御父と御子の名だけをあげて、御霊の名があげられないままに祈ることが多いのはなぜだろうか。

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「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(ローマ1:7、1コリント1:3、2コリント1:2、ガラテヤ1:3、エペソ1:2、ピリピ1:2)

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 それは、祝福を祈るというその行為そのものが聖霊によって導かれてなされていることであるからである。聖霊はいわば縁の下の力持ちとして自らを表すよりも御子の栄光を現わすことをご自身の務めとしていらっしゃるのである。それは主イエスがおっしゃったとおり。

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「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)

「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)

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パウロ書簡では、しばしば、神(父)・主(子)・御霊が1セットで語られる。つまり、御霊は父と子と同等に扱われている。

「12:4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

 12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

 12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」(1コリント12:4-6)

「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」(エペソ2:18)

「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:22)

「4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。

 4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

 4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(エペソ4:4-6)

 

使徒5:3、4 聖霊を欺くことは神を欺くことである

聖霊の神性については、アナニヤに向けられたペテロのことばが証拠聖句とされることも多い。ここでは「聖霊を欺くこと」と「神を欺くこと」が同値に扱われている。

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5:3そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。 5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」使徒5:2,3

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⑤マタイ11:28とルカ11:20を照合すると、神の御霊=神の指

マタイ12:28「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」

ルカ11:20「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」

 

聖霊と神とが同質ホモウーシオスであること。イザヤ6:9-14と使徒28:25-27

アレクサンドリアのキュリロスはイザヤ書の釈義から、聖霊と神との間のウシアの同一性の証明を見た 。

イザヤ6:9-14

「63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、

  ご自身の使いが彼らを救った。

  その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、

  昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

 63:10 しかし、彼らは逆らい、

  主の聖なる御霊を痛ませたので、

  主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。

 63:11 そのとき、主の民は、

  いにしえのモーセの日を思い出した。

  「羊の群れの牧者たちとともに、

  彼らを海から上らせた方は、

  どこにおられるのか。

  その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、

  どこにおられるのか。

 63:12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、

  彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、

 63:13 荒野の中を行く馬のように、

  つまずくことなく彼らに深みの底を

  歩ませた方は、どこにおられるのか。

 63:14 家畜が谷に下るように、

  【主】の御霊が彼らをいこわせた。」

 

使徒28:25-27 聖霊が預言者イザヤを通して語った。

「28:25こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。

 28:26 『この民のところに行って、告げよ。

  あなたがたは確かに聞きはするが、

  決して悟らない。

  確かに見てはいるが、決してわからない。

 28:27 この民の心は鈍くなり、

  その耳は遠く、

  その目はつぶっているからである。

  それは、彼らがその目で見、

  その耳で聞き、

  その心で悟って、立ち返り、

  わたしにいやされることのないためである。』」

 

2.聖霊の人格性

 

(1)聖霊が、油、水、火、風に譬えられる意味

 聖霊は、三位一体の神における第三位格である。聖霊は御父や御子と同じく、栄光を同じくする神格であるという認識が格別重要である。なぜならば、聖霊についてそれを単なる力、エネルギーのような非人格的なモノとして誤解するエホバの証人などがいるから。

 確かに、聖霊についての聖書的表現において、油(ルカ4:18)、水(ヨハネ7:38,39)、炎(使徒2:3)、風(ヨハネ3:8、使徒2:2)などがある。なんのためであろうか?それは、聖霊が多様なご性質・お働きをもっているからである。けれども、これらの多様な性質をもっていることが、すなわち、聖霊が人格ではないことを意味するわけではない。例えば、私たちは激しい性格の人を火のような性格の人物とか、枠にはまらない自由な人を風のような人という具合に表現する。火が人格であることはできないし、風が人格であることはできないが、人格が火のようであるとか、あるいは、風のようであるということはできる。同様に、聖霊が油、水、火、風などにたとえられるのは、そういう豊かで多様なご性質とお働きがあるからと解すべきである。

 主イエス聖霊と「風」を関連付けて語られた。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)

 風が思いのままに吹くように、聖霊もまた人間の思いはかりをこえて、ご自由に主権的にお働きになるという意味である。聖霊の天衣無縫なご人格であるということ。また、ペンテコステの日、主の弟子たちの群れに聖霊が下ったときの描写にこうある。こちらは聖霊の自由さとともに、力強さが表現されている。

「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:2-4)

 ここにはまた、聖霊が「炎」として表現されている。他にも聖霊は火と表現されているところがある。火は聖霊が熱く焼き尽くす力をもっていらっしゃるお方、情熱的なお方ということを意味するといえよう。

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「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」」(マタイ3:11,12)

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 また、聖霊は「油」に譬えられる。油は水のようでありながら、継続的に火をともす不思議なエネルギーをうちに秘めている。聖霊はエネルギーを与えるお方である。預言者たち、王たち、使徒たちは聖霊に満たされて、勇敢にその務めを果たすことができた。

 また、聖霊は「水」に譬えられる。いのちの水である。

 

(2)聖霊は人格である

 聖霊がご人格であることは、次のような聖書の証言が示している。聖霊は一人格として明示されている(ヨハネ14:16,17,26,16:7-15など)。 御霊はto pneumaという中性名詞であるが、ヨハネ16:13では、「その方(ekeinos)、すなわち真理の御霊(to pneuma tes aletheias)が来ると」とあり、pneumaという中性名詞をさすのにekeinosという男性の指示代名詞が用いられている。またヨハネ14:16-17では「真理の御霊」を指すのに助け主parakletosという男性名詞が用いられるという文法的には破格の表現をもって、聖霊が人格的存在であることを示している。

人格ということばで意味されるのは、知性、感情、意志を備えた統一された意識のある方ということでる。聖霊は知性のあるお方である(ヨハネ14:26,15:26,ローマ8:16)。聖霊は感情のあるお方である(エペソ4:30)。意志のあるお方である(使徒16:7,1コリント12:11)。

 

 聖霊が人格であるということは、神が三位一体であることと深い関係がある。人格は他の人格との交流のうちにあるものだからである。神は絶対であるから唯一である。同時に、神は愛だから三位である。中世にサン・ビクトール修道院のリチャードは御子が御父から永遠に生れたことについて次のように言っている。

 「最高善、全く完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全なかたちで存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。なぜなら、愛以上に優れたものはないからである。しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(caritas)を持っているとは言えない。したがって、『愛情が愛(caritas) になるためには、他者へ向かっていなければならない』。それで位格(persona)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。」

  さらに聖霊の発出について次のように言う。

 「もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって[ふたりの]愛に第三者が参与することを許さないならば、その人の愛はまだ完全ではない。反対に、参与することを許すのは偉大な完全性のしるしである。もしもそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることは一層優れたことである、最もすぐれたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことは一層偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そ  う。最善のかたに最もよいことを帰そう。

 故に、前の考察で明かにしたあの相互に愛し合う者[すなわち、父と子]の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。このことは、以上と同じ論拠から明かである。事実、完全な善良さが要求することを望まなければ、神の充満する善良さはどこへ行ってしまうであろうか。また、たとえそれを望んでも実現することができなければ、充満する神の全能はどこへ行ってしまうであろうか 。」

 まとめてみる。神様は最高のお方であるから、神の愛は最高の愛である。最高の愛は、利己的なものではなくて、他者に向かう愛である。だから、神が愛であるということは、神はご自身のうちに他者をもっていることを意味する。父は子を愛している。子は父を愛している。ところで、神の愛は完全な愛である。完全な愛は二者の愛の交流のうちに第三者の参与を望み歓迎するものである。ここに三位一体の第三番目の聖霊がいる意味がある。

ただし、リチャードの三位一体に関する省察は、彼が論理をもって三位一体を証明しようとしているわけではない。もし、そんなことが出来たなら、論理が神の上に位置づけられることになるだろう。三位一体は啓示されたリアリティある。リチャードはそのリアリティを思いめぐらしているのである。

 

人格は他の人格との交流において生きている。「三位一体の神の自己認識の内部構造」と題して牧田吉和は次のように述べている。

「三位一体の神は、孤独な神ではなく、父と子と聖霊の愛の交わりにおける存在である。そのような交わりにおいて神の自己認識は成立している。神の自己認識の中核には、父と子の関係が存在する。父は永遠に子を生み、子をもち、子を知り、子との交わりの中にあることをよしとされた。子は永遠に父から生まれ、独り子として父をもち、父を知り、父との交わりの中にある。その両者の交わりと認識の絆は聖霊である。聖霊は"愛の絆“ともよばれる。父と子より発する聖霊は、父と子との絆そのものであり、しかも"愛の絆”である。このようにして、三位一体の神の自己認識は、聖霊による父と子との相互の認識であり、しかも父と子との聖霊における愛の完全な認識であるといえる。」

 

 聖霊が人格であられるならば、我々として注意すべきことはなんだろうか。人格をモノを扱うような扱いをすることほど侮辱的なことはあるまい。ましてや人格であられる神の御霊に対して、そういうことをするならば、なんと失礼なことであり、御霊をどれほど悲しませることであろう。私たちは、聖霊をご人格として愛し、尊敬したいものである。

 

3.filioque論争

 

 東西の教会を分裂に至らせた重要な聖霊論論争として、フィリオクエ論争がある。filioqueとは「子からも」という意味。filioはfilius(子)の奪格「子から」という意味。queは「~も」の意味。東方教会聖霊が父なる神のみから発出すると考え、西方は聖霊は父のみならず子からも発出していると考える。

 

(1)古代教父たちのことば

 アタナシオス 「聖霊は御父からek tou theou esti」「セラピオンへの手紙」3:2,1:22,25

ディデュモスは、ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」に基づき、御父からの聖霊の起源と、御子によるこの世への派遣を区別する。

エピファニオスは、ヨハネ15:26に基づき、聖霊が父から出ると言い(アンコラトゥス6,7)。聖霊は父と子から出るともいい(同8:9.67,70,71)。71では「子が父から出る」のに対して、「聖霊は父と子から出る」という。

バシレイオスは、聖霊は神からのもの(ek tou theou einai)という。聖霊は神から出た方である(hos ek tou theou proelthon)が、御子のように誕生によるgennetosのでなく、口からの息吹のようにhos pneuma stomatos autou出る。また、御子の仲介を認め「父から御子によってek tou patros dia tou hyiou」という。

ニュッサのグレゴリウスも御子の仲介を認める。

ナジアンゾスのグレゴリウスは 「子の父からの誕生gennetos」に対して、「聖霊の父からの発出ekporeusis」と用語を確立する。

以上のような議論が結実して、ニカヤ・コンスタンチノポリス信条(381年)の聖霊条項ができた。

「また、我らは、聖霊、主にして生命を与え、御父より出で(ex patre procedit)、御父と御子とともに礼拝せられ、あがめられ預言者らを通して語り給うお方を信ずる。」

 

 ところが、西方教会は581年トレド会議において、「と御子からfilioque」を加えて、「御父と御子とより出で(ex patre filioque procedit)」とした。

「また、我らは、聖霊、主にして生命を与え、御父と御子より出でex patre filioque procedit、御父と御子とともに礼拝せられあがめられ預言者らを通して語り給うお方を信ずる。」

 

この件で、西方教会東方教会とは論争となり東西分裂となった 。これが、いわゆる「フィリオクエfilioque論争」である。西方は、三位一体性を強調することから聖霊は父と子から出るという立場を取り、東方は神の単一性を強調して聖霊が父から出るという立場を取る傾向があった。だが、上に見たように古代教父たちのことばを見れば両様の表現があって教会を分裂させることではなかったのではないかと思われる。

一応、西方教会の見解をまとめると、父は「生まれざるお方」であり、御子は「父から永遠に生まれたお方」であり、聖霊は「父と子から永遠に発出したお方」である。

聖書にもどってみる。

 

(2)ヨハネ文書、パウロ文書

聖霊は御父から出て、御父から遣わされるお方であり、御子の名によって遣わされるお方である。

 ヨハネ14:26

  「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 ヨハネ15:26

  「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」

 

聖霊は「神の御霊」とも「キリストの御霊」「御子の御霊」とも呼ばれる。

 ローマ8:9 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

 ガラテヤ4:6「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

 

ヨハネ黙示録によれば、完成した御国の都において、「神」「小羊」から「いのちの水の川」が流れ出ている。エゼキエル47章の神殿から流れ出る水が生命を与えるという記事と照合すれば、この「いのちの水の川」は聖霊であると解される。

「22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示録22:1,2)

「7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)

 

 結論、東方教会聖霊が万物の根源である父から発出すると告白していることは正しいが、西方教会が、子からもfilioque発出するとしたことにも聖書的な根拠がある。

 

 

(3) 環境問題・汎神論ブーム・霊性ブームの時代におけるfilioqueの重要性

①環境問題に関するキリスト教批判

リン・ホワイトが、「現在の生態学的危機の歴史的根源」(Lynn White, "The Historical Root of Our Ecological Crisis", 1967) において、現在の環境危機の根源は、「ユダヤキリスト教的な伝統」のうちにあると指摘した。「神は人間の利益と統治のためにという明白な目的のため に、人間以外のすべての存在をおつくりになられたのである。すなわち、いかなる自然の創造物も、 人間の目的に奉仕する以外の目的をもっていなかったのである。……このようにユダヤキリスト教 は人類史上でもっとも人間中心主義的な宗教なのである」。

そこで、ホワイトの影響を受けた現代の環境保護論者たちは、人間を自然の一部であるとする自然宗教は環境を破壊しないと考える。そして、地球をガイアという女神の名で呼び、自然と人間の霊的一体性に目覚めさせるニューエイジ霊性(汎神論)こそが、環境問題の解決となるという。

東方教会のフィリオクエ否定論に親近感を抱くJ.モルトマンは、地球規模の環境保全に神学的視野を拡大しようという意図から、創世記1章2節の神の霊が、あたかも汎神論における母なる大地の霊とつながりがあるかのような言い方をする。「この大地は、私たちの共通の環境であり、また、現実的な意味において、『私たちの母』です(シラの40:Ⅰ)。」(『いのちの泉』p46)また、「神の大地の聖なること」「『産み出す母』としての大地」を強調している  。その論述は慎重で誤りとは即断しがたいが、聖霊と汎神論的「世界霊」との区別性をあいまいにしていることに関しては批判されるべきである。聖書は、この世の霊と神からの霊の区別を明確にせよと命じているからである。こうした状況において、創世記1章の創造記事における「神の霊」というだけではいかにも曖昧になってしまう。

聖霊が「(父なる)神の霊」と呼ばれるだけであれば、汎神論との区別が曖昧であるが、新約聖書は「神の霊」は同時に、「御子の御霊」「キリストの御霊」であることを明らかにしているので、あのナザレのイエスとして受肉したお方の霊として特定され、自然宗教における汎神論の「大地の霊」ガイアとの区別がされる。

聖霊は、歴史の中にナザレのイエスという特定の人として来られたこと、第二位格である御子の御霊として特定されることが重要である。聖霊は、父からのみならず、「子からも(filioque)」発出したと告白する西方教会のニカイア・コンスタンチノポリス信条が重要になっている。

 

②環境破壊の真の原因はマモニズム

 ちなみに環境問題に対するリン・ホワイトの説には歴史的根拠がない。自然宗教を背景としたメソポタミア文明も灌漑農法のために大地に塩害を引き起こし砂漠化してしまったし、自然宗教を背景とする古代中国文明万里の長城のレンガを焼くために森林破壊をしてゴビ砂漠をつくってしまったといわれる。

ヨーロッパ大陸ゲルマン人たちに宣教をしたキリスト教宣教師が、ゲルマン人が神として拝み人身犠牲をささげている神木を切り倒した事例をもって、キリスト教は環境破壊をするとしばしば取り上げられるが、偶像化された木を一本切り倒しても環境破壊にはならない。実際に、ヨーロッパ大陸が12世紀に森林を失ったのは、「農業革命」のせいだった。15-17世紀大航海時代にスペインの森林が失われ赤茶けた大地となったのは、無敵艦隊を建造するためだった。現代世界の環境破壊と砂漠化は、特に多国籍企業を背景とした、国土にも国民にもなんら責任を取ろうとしない経済活動のためであることは周知の事実である。マモニズムという偶像崇拝こそ、地球環境破壊の真の元凶なのである。だから、モルトマンのようにリン・ホワイトに同調して、神の霊を大地の霊、ガイアと同一視するようにして、キリスト教を汎神論化しても、環境保護には何の役にも立たないばかりか、人間を自然宗教の迷信に逆行させるだけのことであり、環境破壊を押しとどめるためには何の役にも立たない。

現代の環境破壊を押しとどめるためには、その元凶であるマモニズムに酔っぱらった大淫婦バビロンを思わせる多国籍企業の経済活動にこそメスを入れなければならない。