聖霊論01
聖霊論
北海道聖書学院2017年度
水草修治
日本同盟基督教団苫小牧福音教会牧師
目次
01 序論 神の超越性と内在性・聖霊とは誰か
02 聖霊のわざ・・・完遂者
03 義認
04 近年の義認をめぐるNPPの議論
05 子としての聖化
06 2ミリオンのいのち・聖霊と教会
07 超自然的賜物の理解とその扱い
09 御霊に満たされなさい・復習
10 試験
序論 神の超越性と内在性・・・「遠く、かつ、近くなられた神」
(1)他宗教との比較において
汎神論pantheismや多神論polytheism、つまり自然宗教においては、神は自然に内在している。汎神論の場合は、自然全体がすなわち非人格の「神」の現れであり、多神論の場合は、人格的であれ非人格的であれ神々は自然の部分であるという違いはあるが、いずれにせよ内在的であることに変わりはない。自然が汚染されれば「神」も神々も汚染されることになる。また、多神教の神々は身近に感じられるであろうが、全知全能でなく正義でもない。汎神論の「神」は非人格であるから、祈りの対象ではない。「自然natura, physis」という概念自体、汎神論的概念であって、聖書的なものではない。聖書によれば、「おのずからしかる」ものは存在せず、神以外のあらゆるものは、神がそのようにあらしめているのである。
これに対して、旧約聖書を経典とするユダヤ教、正統的キリスト教、イスラム教は、被造物を超越する、つまり、被造物とは他者である唯一絶対の人格神を教えている。ユダヤ教の経典は『旧約聖書』。キリスト教は『旧約聖書』と『新約聖書』。イスラム教は『旧約聖書』と4福音書と『コーラン』である。旧約聖書においてご自身を啓示された神はたしかに超越神である。無限の神は偉大であり、有限な被造物から遠い。
K.バルト(1886-1968)は、『ローマ書』を書いた初期において、自由主義神学 は汎神論化(内在神論化)し、神学が人間学化していることを徹底的に批判して、神は「絶対他者」であると表現した。自由主義神学の祖とされるシュライエルマハー(1768-1834)は「宗教の本質は絶対依存の感情である」といって、「神」と一体化した感情体験が宗教の本質だとしているが、これは汎神論の救済観である。
だが、ユダヤ教、イスラム教とちがい、旧約聖書に加えて新約聖書を経典とするキリスト教のみは、父子聖霊の三位一体 を説いている。神が三位一体であられることは、神の被造物に対する内在性(近しさ)と関連して来る。
(2)父なる神において、われわれはおもに神の超越性(絶対他者性)を認識させられる。
「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(1テモテ6:15,16)
(3)御子において、われわれは神がわれわれと関わってくださるお方であることを知る。
まず、創造論的意味での関係。神はまず人間を創造するにあたって、ご自身のかたち、第二位格である御子(創世記1;26,27、コロサイ1:15)に似た者として造られた。御子は創造論的に、神と人との仲保者である。
次に、救済論的な関係。神の御子が受肉されたことは、御子が、父と我々の間に立つ救済論的にも仲保者となられたことを意味している。我々は御子を通して神を知り(ヨハネ1:18)、御子を通して御父の御許に行くことができる(ヨハネ14:6)。つまり、創造において、啓示において、救済において、御子は神とわれわれの仲保者である。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(2テモテ2:5)
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。』(ヨハネ:18)
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
ちなみに、初期に神を「絶対他者」と読んでいたK.バルトは、後期70歳の時、1956年9月25日の講演「神の人間性」を説いて軌道修正を図って、キリスト論的に神学を展開した。
(4)さらに、聖霊において、三一の神は私たちに内住される
「14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。 14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。 14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:17-20)
聖霊は教会という信仰共同体と信徒個々のからだを住まいとして内住してくださる。あたかも、汎神論かとみまがうほどである。
「もし、だれかが神の神殿を(ton naon単数対格)こわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿(単数)です。」(1コリント3:17)・・・・礼拝共同体としての教会が神殿である。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(1コリント6:19)・・・・信徒のからだが神殿である。
自然宗教(多神論・汎神論)における神は内在的である。ユダヤ教、イスラム教における神は超越的である。これらに対して、旧新約聖書に啓示されたまことの神は、超越的であり、かつ、内在的となられた。日常的表現でいえば、神は我々にとって遠いお方であられるが、同時に、たいへん近いお方となってくださった。これは、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」(創世記17:7、出エジプト6:7、2サムエル7:14、黙示録21:3)という神のご自分の民に対する契約の主題にかなっている。