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◎レポート「イスラーム文化」 その根底にあるもの 井筒俊彦著

―「イスラーム文化」その根底にあるもの―
概要:われわれ日本人が、イスラーム文化をどのような目で見、どのような態度でその呼びかけに応じていくのか。その上で、イスラームと言う宗教の性格、イスラーム文化の根源的な形を把握し、改めてイスラーム文化の枠組みとの新しい出会いの場を考えていく。

 

I. 宗教(イスラームの宗教的規定)
1. 地理的広がり
① サラセン帝国時代は、中央アジア、東南アジアから中近東を経て、スペイン、北アフリカまでの広大な地域に広がっていた。
② 多くの誤解は、イスラームというと砂漠を思うことである。全体的に砂漠風土の中で生まれ育った宗教という漠然とした意味でならば砂漠的宗教かも知れない。しかし、厳密にいうと、イスラームはその起源においてすら、アラビア砂漠の砂漠的人間の宗教ではなかった。(2-③へ)
2. 預言者ムハンマド(=マホメット
預言者であり、イスラームの始祖。
② 元々は商人であり、当時のアラビアでは第一級の国際都市マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)でその才知をいろいろな局面で縦横に発揮した。
③ 彼は都市部の商人であり、砂漠的人間の価値体系に真正面から対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームを築き上げた。
a. コーランにその闘争の記録がある。(コーラン9章に記述がある)
b. 彼は砂漠的人間がイスラームになったとしても信頼するなと警告している。
3. コーラン
「宗教を遊びごとか冗談くらいに心得て、この世にうつつをぬかしている人々などを構わず放っておくがよい。己れの稼ぎがもとで人間一人が破滅することもあるということをみんなに知らせてやるがよい。…結局そんな人々は己れの稼ぎで抜き差しならぬ破滅の道に深入りしてしまうだけのこと。己れの背信行為の罰として、(地獄に投げ込まれ)ぐらぐら煮えたぎる熱湯を飲まされて、苦しい懲戒を蒙るだけのこと。」(6章69節)
コーランムハンマドの商人としての価値観、性格をよく表している。上記コーランの、人間がこの地上で行う善悪の行為を、「稼ぎ」と考えることなどがその一例。
コーランでは、宗教も神を相手方とする取引関係、商売。
イスラームの建前としては、コーランは唯一無二の最高聖典
④ しかし、ハディースというコーランに並ぶ聖伝承がある。
コーランの読み方は自由。これがイスラーム文化の多様性、多層性の源。
コーランは聖書(多層的)とは違い、神の言葉を直接的に記録した聖典として完全に単層的。
4. ウラマー(ulama)
イスラーム共同体をアラビア語ウンマ(ummah)という。
②  ウンマの秩序維持に責任ある指導者「ウラマー」がいる。彼らは、コーランに精通している。
コーランとの関係において、源が一つであるという動かし難い絶対性を持ったものだから、そこから出て来るものも一つかと思うと、ウラマーの解釈の仕方によって何が出て来るかわからない。
④ 権威あるウラマーが自身のコーラン解釈に照らして、あるコーラン解釈が許容範囲を逸脱していると認めれば、正規の法的手続きを踏んで、異端宣告する義務がある。
⑤ 異端宣告を受けた者はイスラームから完全に締め出される。⇒神の敵となり、死刑、財産没収の対象。
5. 他宗教との関係
① イスラームでは、「宗教」という言葉の意味するところは、私たちとは違う。生活の全領域が宗教。だからイスラム教という呼称は相応しくない。
②  イスラームにとっての世界三大宗教には「仏教」は入らない。イスラームにとっての三大宗教とは、ユダヤ教キリスト教イスラームである。
イスラームの立場は、イブラヒーム(アブラハム)の宗旨をムハンマドが回復させるというもの。ムーサ(モーセ)もイーサ(イエス)も、ムハンマドと同等の預言者
6. 神(アッラー:Allah)
① Allahという名は、もともと神を意味する「ilah」という語に定冠詞「al」をかぶせた「al-ilah」が発音上つまって「Allah」となっているだけで、英語の「the god」と同等の意味。
キリスト教ユダヤ教と同じ人格神。
③ Allahは絶対的支配者であり、人間との関係においては、主人と奴隷の関係。父と子という概念はない。
④ 信者は、ムスリム(絶対帰依者)としてのイスラム教徒。
キリスト教との溝
a. 三位一体は偶像礼拝
b. 神が子を生した事自体が迷妄。
c. イスラームにおける三位一体とは、「神・イエス・マリヤ」

 

II. 法と倫理
 ※正統派、イスラームの主流、イスラーム共同体の大多数を占めるスンニー派は、宗教即法律という極端な立場をとる。約20年を経て、ムハンマドは神の啓示を記録する。その20年の歴史は、前期10年(メッカ期)と後期10年(メディナ期)に分けられる。今日のイスラーム法は、後期の文化パターンの展開である。
1. 前期(メッカ期)
◎メッカ期の特徴は、全体を包む雰囲気が異常なまでに終末論的であって、天地終末の 生々しいヴィジョンの醸し出す重苦しい雰囲気の中で、宗教が人間、個人個人の信仰の深 刻な実存的問題として浮かび上がってくるということである。
① 宗教が生の人間的体験であり、制度化されていない。
② 生きた人格的神と人間との人格的関係⇒「契約」
③ 神が人格的であるということは倫理的な神であるということ。

●神の、人間に対する義務が生じる。
a. 人間はもとより被造物に慈悲をかける。
b. 善だけをすること。
c. 言葉を翻さないこと。
④ 「神の義」という属性
人間の不義不正を激烈な怒りを持って罰すると言う神の恐ろしい倫理性。メッカ期の宗教性の根本的性格。宗教的世界観、人間観を暗い雰囲気で包みこむ。
⑤ 「怖れ」を信仰の同義語として使う。

⑥ 来世への重要性
a.終末はいつ襲ってくるかわからない。

b.ここから来る「怖れ」こそ、現世でのすべての行動の動機、道徳的真摯さの原動力でなければならない。
※メッカ期の宗教の根底。神の倫理に対する人間側の倫理は、神の倫理から来る「怖れ」がもたらす緊迫感である。

2. 後期(メディナ期)
①AD622年ムハンマドはメッカからメディナに移る。(イスラーム暦第1年)
サラセン帝国への道⇒新しい神の姿。

②慈悲と慈愛、恵みの主としての神
メッカ期後期から既に、来世的事態が明るくなるだけではなく、現世そのものが限りない神の慈愛のしるしに満ちた場所として、コーランに描かれる。
③「神(み)兆(しるし)」
人間に対する、神の恵み、恩寵として考えられた被造物、すなわちこの世に見出される限りの一切の存在者。
   ⇒コーランの宗教的思想構造において、極めて重要な働きをする鍵の言葉の一つ。

④メッカ期の「怖れ」に対して、メディナ期の信仰との同義語は「感謝」である。
イスラームという宗教が、否定から肯定へ、消極性から積極性への転換。
⑤メッカ期では神と人との個人的な縦関係の契約。メディナ期では複雑に横に広がり、
預言者ムハンマドとの契約を結び神との契約が成立するというもの。この場合、ムハンマドは神の代理人となり、人間側の絶対的指導者となる。

●ここで「宗教」とは、もはやメッカ期のように、信仰の主体としての個々の人が、神にすべてを任せきって絶対服従を誓うと言う実存的決断に基づいた信仰事態を指すのではなく、むしろ、共同体に組織された信仰的・宗教的、かつ教義的な社会機構としての宗教であり、ユダヤ教キリスト教と並ぶれっきとした一つの歴史的宗教を意味する。
⑥「イスラーム」とはこの共同体的宗教の正式な名称である。
こうして、イスラームは個人の実存宗教であったが、いまや社会宗教となり、驚くべき速さで社会的、政治的に制度化され、ひとつの社会構造となった時点でのイスラーム共同体の宗教が自己表現したかたち、それがイスラーム法である。
ただし、ムハンマド生存中にはそこまでは進んでいなかった。
ムハンマド没後のイスラーム
a.ハデーィスによって、コーランで足りないと思われる箇所を補う。
b.「イジュティハード」:個人が自由に「コーラン」と「ハディース」を解釈して、法的判断をくだすこと。しかし、このイジュティハードが禁止されてしまう。
⇒「イジュティハードの門の閉鎖」(イスラーム法学の術語)
              
イスラームの法体系が固定化し、柔軟性を欠き、冷酷なまでに整然たる体系だけが残ってしまった。
※活発な論理思考の生命の根を切られてしまい、近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つとなった。


III. 内面へ道
ウラマーたちが、イスラームを社会制度的形態に発展させつつあったちょうどそのころ、それと並んで、そのまったく逆の方向に向かって、内面的視座とでもいうべきものを重視していこうという立場が、イスラーム文化形成の底流として強力に働きはじめた。
①ここで内面というのは、感覚、知覚、理性では全然とらえることができない事物の隠れた次元、存在の深層、深み。
②「内面への道」をとる人たちを、ウラマーに対してウラファーという。
③ウラファーとは、宗教をその霊性的、あるいは精神的内面性において体認しようとする人たちを意味する。
   ⇒ウラマーとの激しい対立を生む。

1.外面主義者ウラマー顕教イスラームの顔=中心基礎概念は「シャリーア」(イスラーム法)
①サラセン帝国の基礎として確立することに成功した人たち。
②政治分野での体制派。保守勢力の代表。
③その時、その時の政治権力と結びついて、政治的権力構造の一部に組込むことに成功。
④事実上の支配者。
スンニ派に見られる、現世がそっくりそのまま神の国であるという捉え方。
ムハンマドを「市場を歩きまわり、ものを喰らう」ただの人と考える。

2.内面の道を行く人たちウラファー:密教イスラームの秘密の顔=中心基礎概念は「ハキーカ」(内面的実在性)
◎外に現れた形の背後あるいは奥底にあって、それを裏から支える内的リアリティーを「ハキーカ」と名付ける。
①外面主義者ウラマーに対抗。
②その時、その時の政治的主権体制への反抗を余儀なくされる。

③体制派から迫害を受ける。
⇒政府に対する反体制派、反逆者。コーランに対する背信者、異端者として殺戮される。
シーア派:始祖はイマーム、アリーとその二人の息子ハサンとホセイン➡「カルバラーの悲劇」
                       
預言者ムハンマドが世を去って以来、イスラームの歴史そのものが正義に反し、根本的に名違った世の中に生きているという感覚がある。
⑤自らをイスラーム共同体における異邦人であると意識している。
⑥ハキーカのないシャーリアは生命のないぬけがらにすぎないというのが、内面的道を行く人々の信念。

◎「内面への道」の二つの文化:シーア派イスラームイスラーム神秘主義
A. シーア派もさらに多くの分派があり複雑なため、十二イマーム派について検証。
ウラマーとは違い、コーランを読むときにアラビアの語義や文法が指示し許容する範囲で、その意味を解釈するにとどまらず、そのもう一段奥に「内的意味」を探ろうとする。

シーア派は、コーランを暗号書のように、神の言葉の内面を読み取ろうとする。この解釈学的操作を、シーア派独特の術語で「タアウィール」という。
シーア派は根本的にイラン的。
イマームと呼ばれる神的人間の存在を認め、それをすべての根底とする。イマームの人数は12人等限定的。
イマームシーア派の最高権威者の呼称。
イマームは、その人の生まれや血筋や、神の選びによって、あるいは先天的に定められていると考える。

B.イスラーム神秘主義スーフィー

シーア派よりももっと内面的本質、ハキーカに直通した人という意味だけで考えると、イマームはもっと一般化されて、一種の普遍的現象になり、それをワリーと呼ぶ。
②ワリーは、あくまで修行によってワリーになる。
スーフィズムの「内面への道」の第一段階は、神を見出し、神と会うこと。
スーフィズムでは、他のイスラーム共同体的が説く超越的、絶対的超越者、近づきがたい高見に合って、上から、外から人間を支配する超越神ではなく、むしろ、一切処に遍在し、あらゆるものの内面にあり、人間の魂の奥底に潜んでいる内在の神である。
コーランにも、神の内在性を説く章句を見出すことができる。
⑥禁欲と清貧を目指す、世捨て人である。
⑦現世批判と終末思想。メッカ期的啓示の精神。
⑧シャーリア的な外面的宗教行動に価値を置かない。メッカ巡礼も内面化することで意味を為さなくなる。
⑨自己の内面にある神を意識することで、我が我であることに苦悩を覚え、悪を見出す。
⑩修行の中で自己否定と自我意識の払拭に全力を尽くす中で、異常な実存体験をすることで「我こそは神」という境地に至る。➡ウラマーらにとっては神への冒涜。
⑪神になった人には、もう宗教は用がないと言いきってしまう。
⑫歴史的にも迫害を受けつつ危険分子として今日まで存続している。

 

感想:

イスラーム文化。それは、第一に、シャーリア。宗教法に全面的に依拠するスンニ派の共同体的イスラーム。第二に、イマームによって解釈され、イマームによって体現された形でのハキーカに基づくシーア派イスラーム。第三に、ハキーカそのものから発出する光の照射のうちに成立するスーフィズム。どれが真のイスラームなのか。イスラームとは、どのグル―プも一歩も譲らない歴史に立った、闘争の文化だと言える。ここで、私が日本人の一人として言えることは、イスラームとは、あえて、このようなものだという理解である。そして、始祖であるムハンマドが心配し、言及していた「砂漠人がイスラームになったとしても信用するな」ということが、今は忘れ去られていると思う。
私が、キリスト者として客観的に考えさせられたのは、この三つの大きな流れでの神の捉え方の中に、大きく三種類の神を表現しているということである。それは第一に、完全に外的神に依拠するスンニ派。第二に、メディア期における慈愛と恩寵の主としての神を外的な存在として捉えつつ、内面的な信仰に立ち、神的人物をも認めるシーア派。第三に、あくまで内在する神に注目し、神秘的体験の中で神と一体化しようとするスーフィズム。その三つの流れに、それぞれを認め合えば三位一体の神を思わせるような姿を垣間見る。だからこそ、ユダヤ教キリスト教イスラム教の共通の歴史に立つアブラハムの神という、包括的な視点で捉えるなら、イサクの子孫であるユダヤ人ばかりか、イシュマエルを祖とするアラブ中心の彼らイスラームの方々の目が開かれて、イーサ(イエス)こそメシア(キリスト)であり、神(アッラー:Allah)であることを認め、信じ救われるように祈らざるをえない。同時に、現在、イスラム国と名乗る集団が世界を脅かしているが、彼らの思想の中心にあるのが信仰なのか、それとも、宗教を利用して、社会を自分たちの思い通りにしようとしている暴力集団なのか。彼らが砂漠の民であるなら、イスラームの始祖ムハンマドの言葉に従って、自らを吟味し、世の信頼を得るために、暴力ではなく、かえって謙虚に世界の声に耳を傾け、平和的に対話すべきであると、私は考える。