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夏目漱石 著「こころ」要約と感想

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(要約)

 地方の良家の子弟である「私」は、高等学校時代のある夏に、友人の誘いで訪れた鎌倉の海水浴場で一人の男性「先生」と出会う。先生はいつもひっそりと一人で行動していて、若者や家族連れで賑わう海岸ではむしろ目立った。「私」は先生のそのミステリアスな雰囲気に惹かれ、勝手に「先生」と呼んで、ほぼ強引に先生の家に出入りするようになる。先生には下宿先のお嬢さんを巡って親友のKを裏切り、自殺に追いやってしまった暗い過去があった。以来、先生は後ろめたい罪の意識にさいなまれ、生きる気力をなくし、社会で活動する意欲も失い、人とつきあう元気もなく、生けるしかばねのようになった。先生は、そのような人物であるので、最初の頃、「私」が無邪気に接近してくると当惑していた。しかし、その純朴な探究心に打たれて、ついにはそれまで誰にも明かさなかった過去を告白することになる。そして、それと同時に自殺する。


(感想)
1. Kの罪
先生の罪について考えるとき、まずKについて考えたい。それは、Kの存在によって先生の人格、その罪も明らかにされるからである。Kは、普段から「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と口にするように「道」の高みに到達することこそが彼の信条だった。彼の言う「精神的向上心」には禁欲的な意味も含まれている。現代ではこのような人はほとんどいないが、Kにとって、あらゆる欲望は「道」をきわめる上での「妨げ」だった。「恋」もその例外ではない。Kは勘当されることも恐れずに養家を欺いてまで、自分の「道」を進もうとした男。言うなれば自分から進んで勘当されたようなもの。その根底には「道」のためにはすべてを犠牲にしなければならないといった信条があったからだと言える。道こそが彼のそれまでの人生のすべてだったのである。
 そのような性質をもった人間が他者による裏切りによって、簡単に自殺するだろうか。また、自分から進んで養家を裏切っておいて、勘当された寂しさから自殺というのは考えにくい。
 Kの遺書の最後に「もっと早く死ぬべきだったのになぜここまで生きてしまったのだろう」と書かれているが、その「死ぬべきだった時」というのは「恋をしてしまった時点」ではないだろうか。
 Kは「先生」から「君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」と詰問されたとき、「覚悟ならないこともない」と独り言のようにつぶやく。
 なぜこのときのKが先生には夢の中の独り言のように映ったのか。それは、その覚悟が「お嬢さん」に思いを告げる覚悟などではなかったからではないだろうか。つまり、「自殺する覚悟」だったからこそ先生の目にはKが独り言を言っているように映ったのである。
 Kの「覚悟」とは「自分は道を踏み外してしまったが、自分で自分を裁くくらいの覚悟はある」という「覚悟」なのである。Kは「自分で自分を裏切った罪」を自殺によって裁いた。「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と言うくらい禁欲的に生きてきた、Kにとって「恋」そのものが「道」を踏み外すことと同義だった。失恋が自殺の理由であれば遺書に「もっと早く死ぬべきだった」という言葉は残さないだろう。自分を裁く覚悟があり、「道」を踏み外した時点で死ぬべきだったのに死ななかったからこそKは「もっと早く死ぬべきだった」という言葉を遺書に残したのである。
 つまり自殺の理由の本質は、お嬢さんを先生に取られてしまったことではないのである。それほど意思の強い男、そして、その意思を毎日補強するかのごとく生きている人間ですら、たった1人の女に簡単に狂わされてしまう。そこに人間の意思だけでは変えようのない本性とその罪深さが集約されているといえる。
 
2. 先生の罪
 しかし、そのような潔癖なKの性格を利用し、Kの信条によってKを追い込み、Kに死を選ばせたところに、先生の罪深さがある。お嬢さんへのKの態度から、先生のこころの奥底にあるカインの血が目を覚ました。カインはアベルを「野に行こうではないか」と言って連れ出し殺害したが、先生は、K自身の言葉をKにそのまま返すことで、Kを自殺の野に誘ったのである。先生は、Kの性格をよく知っていた。だからこそ、何を言ったら彼がどのような選択をするか分かっていたのである。まさにKの自殺は、先生の未必の故意によるものだった。だから、先生はお嬢さんと結婚してからも、抜け殻のようにしか生きられなかった。先生が自分自身のこころの奥底の罪の重さに耐えられずに死ぬことを望んだのは、恐らくKの自殺後すぐであったろうと思う。ところが、先生はそれを先延ばしにした。そこで、先生が「私」にしたためた遺書に書かれた「殉死」という言葉が目に留まる。明治天皇崩御し、乃木希典大将が殉死したとき、先生は親友に死なれて以降、生けるしかばねのように長らえてきた自分がやっと死ぬべき理由を見つけたように感じる。そして「私」に、自分は明治という時代の精神に殉死すると告げる。先生のいう殉死とは何だろうか。殉死と言う言葉に「新しい意義」を盛り得たとはどういうことだろうか。おそらく、目の前にある社会にどうしても添い得ないものが自分の中にあって、それゆえに死ぬのだとしか言いようのない心情に重ねて、そういう上っ面の自分の美学で自分自身の罪を覆ったのである。
 普段は聖人、善人のような人でも、いざ自分の利害に関係してくるとその本質が浮き彫りになる。叔父が先生を裏切り、先生が親友であるKを裏切り、意思の強いKが自分の信条をあっさり覆されてしまったように。
 つまり、危機に相対したとき、利害に深く関わってくる「いざというとき」に、人間の本性が、本質が、すなわち「こころ」が浮き彫りになる。だから「先生」は「私」対して、「あなたは腹の底から『真面目』ですか?」と念を押したのである。
 まさに「真面目」な時にこそ、「真面目」にならざるを得ない時にこそ、人はその「こころ」を、「本性」をあらわにするからである。先生は私に「あなたは真面目ですか」と問いかける。個人の孤立が際立つ時代、相手を信じて自分を投げ出すことは非常に難しい。「真面目ですか」と言う問いかけは、「あなたを信じて良いのか」という先生の魂の叫びだった。
 先生は「人間の本性の罪深さ」を自分自身からも、そしてKからも知った。そうした「罪(本性)を抱えた」自分自身を信じることができないからこそ、他人も信じることができなかったのである。「先生」が「私」に「恋は罪悪ですよ」と言った理由がまさにここにある。Kを裏切った先生にとってはもちろん、Kにとっても恋は裁くに値する罪悪だったからこそ、「恋は罪悪」だと言ったのである。
 その罪は私にもある。そして、失敗、過ち、恥ずかしい過去を神の御心、神の計画、神が益とされるという言葉で覆ってしまおうとする「こころ」が私にもある。主イエスの十字架の贖いのゆえに、全てをありのまま神に打ち明け、真に悔い改めをもって歩むものでありたい。