のりさんのブログ

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聖書は神のことば

 近代神学の歴史の中で、自由主義神学と呼ばれるものが登場しました。それは、これまでの聖書の読み方、解釈を批判し、そこに自然科学や啓蒙主義的な視点で捉え直すという新たなキリスト教の始まりでした。

 たとえば創世記における天地創造の記事などを神話や寓話として、高い視点によって批判的に読むことにより、これまでキリスト教会の中心的教理であった神と人間の間に横たわる罪の問題、そして、そのためにキリストが身代わりの死を遂げられたという懲罰的代理の十字架の意義を軽視または否定するような、キリスト教を根底から覆すような事態となったのです。

 聖書を他の古文書と同等に批判的に読むことで、一般的には信じ難い記事を事実ではないとして、合理的に理解しようとすることは、もはや神の存在や神の御業を結果的に過小評価、または否定していることになり、神への信仰を脅かすものとなったのです。

 そこには進化論のような誤った仮説を前提にした進歩史観もあるため、前提が誤っているので、そこから導き出される答えも間違っていることに気づいていません。神のことばである聖書を前提にせずに、人間の理解や哲学を前提にして聖書を低く観るならば、結局はそのような価値観に立つ新たなキリスト教となってしまうのです。だから聖書を基準とした教理を軽視して、あくまで人間側の理解を基準とするため、そこから聖書解釈の多様化が始まります。

 そこには、キリストの十字架と復活の意味を変更するだけでなく、史実ともせずに極端な視点すら許容する多元的な宗教化への道にも進んでいるほどです。それは救済のグローバル化であり、他宗教との対話もあって一見平和的ではありますが、それは同時に真理を持たないキリスト教へと変化させているのです。

 このような自由主義神学とか新神学と呼ばれる流れは、極めて悪魔的と言わざるを得ません。なぜならば、創世記の罪の始まりを神話だとして神との和解という救いにとってなくてはならない教理を蔑ろにしているからです。

 これでは悪魔の思う壺です。悪魔や罪から目を逸らさせて、自分の力で救いを達成させようとするのですから、そこにあるはずの一方的な神の恵みたる救いを受け取ることができなくなるからです。

 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かだと言われています。それは、十字架に示された神の救いの知恵よりも、人間側の知恵を優先して、十字架の宣教の言葉を愚かだとすることからです。

 だからパウロは言うのです。神は宣教の言葉の愚かさによって救いをもたらしたと。だから、私たちはへりくだって神の備えられた恵みを恵みとして受け取りたいのです。

 聖書を純粋に神の言葉として信じて歩みたいのです。人間が偉そうに、それを批評して自分の狭い理解の中に閉じ込めようとしてはならないのです。

 ですから、今日も、みことばの前に、ただ平伏して、主よ。お語りください。しもべは聞いておりますと、主のみことばを待ち望みたいものです。

"十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。"
コリント人への手紙 第一 1章18~21節