のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

「感謝に溢れる歩み」


聖書箇所 コロサイ人への手紙2章7節

 

1. キリストのうちに根ざし、建てられる。
 ここには4つの命令が書かれていることがわかります。まず「キリストのうちに根ざす」、次は「建てられる」、次は「教えられたとおり信仰を堅くする」、最後は「あふれるばかりに感謝する」ということです。
 ところがこの4つの命令は、原文を読むと、分詞で構成されていて、一つの命令を4つの具体的な事柄を通して命じている構造になっていることがわかります。それは、一つ前の6節のみことばとセットであるということです。
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」
 ですから、私たちはイエス様を信じ受け入れたクリスチャンですから、キリストにあって歩む者にされています。しかし、キリストにあって歩むとは一体何でしょう。なかなか、それがどういう意味かよくわからないで、何となく歩んでいる気になっていることはないでしょうか。だから、私なんかは今一つピントがずれていたり、本当にクリスチャンとしてこんな生き方で良いのかと思ってしまうのです。だから、使徒パウロは、そのことを確認させるためにこの言葉をコロサイ教会の信徒たちに書きました。
 ですから、6節の「キリストにあって歩む」とは何かと問いながら7節を読むことが大切です。
 まず第一に「キリストのうちに」とありますが、これは6節の「キリストにあって」と元の言葉は同じです。だから6節も「キリストのうちに歩みなさい」と訳すことができるし、7節も「キリストにあって根ざしなさい」と訳すこともできるわけです。ここで言いたいことは、土台がキリストであるということです。根ざすというのは、その土台に根を張ることだからです。
 一昨年、停電が伴う地震があったのを覚えているでしょうか。その地震の前に大変大きな風が吹いて、公園の木があちこちで倒れました。いつもは簡単に倒れない木も倒れたようです。では木が倒れないために大切なことは何でしょうか。それは、確かな場所に植えられることです。地面に根を張ることは大切なことです。しかし、ここで大事なことは、どこに根を下ろし、どこに根を張るかです。やはりその土台となる場所がゆるゆるだと、いくらしっかり根を張ろうとしても、地面ごと弱ければまたすぐに倒れます。
 それと同じように、私たちも私たちの信仰の根っこをどこに張るかが大事です。みなさんは今どこに根を張っているでしょうか。いやいや、キリストに決まっていると言われるかもしれません。しかし、最初はそうだったはずなのに、いつしか気がついたら、別なものに根付いてしまっていることがあるのです。
 パウロは4節で「まことしやかな議論」と言ったり、8節で「あの空しいだましごとの哲学」と言っています。これは、キリストに根を下ろし根を張っていたつもりが、実は人間の知恵や哲学によって信仰が骨抜きにされていた事実を言っているのです。聖書の教え、聖書の思想、そこにある神の御心よりも、人間中心の価値観を優先した解釈が信仰の根幹を揺るがします。
 しかし、キリストにしっかりと根付いているなら、3節にあるようなキリストのうちにある知恵と知識の宝物を受け継ぐことができます。しかも9節にあるように「キリストのうちに」宿っている神の満ち満ちたご性質をも、私たちはいただくことになるのです。
 そのご性質をいただいて、今度は第二のことに繋がっていきます。それが、「建てられる」ということです。「キリストのうちに」という7節の言葉が、枕詞としてここにもかかっています。つまり「キリストのうちに建てられる」ということです。
 ここの建てるということばは、さきほどの「根ざす」とは逆方向に積みあがっていくことを意味しています。キリストという土台に根を張ったなら、今度は上に伸びていくのです。ここでパウロは今度は植物ではなく建物になぞらえて「建てる」と言っています。
 昨年、私が今遣わされている教会は新しい礼拝堂が与えられました。それで私は、そのための話し合いに何度か関わっていく中で、耐震構造の問題は大きいなと思いました。地震に耐えられる基準があって、それに合うように建てる必要があるということです。
 同じように私たちの信仰も、耐震構造が問われます。信仰の耐震構造とは何でしょうか。それは、ぐらついても倒れない信仰です。パウロはこう言います。
「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく」
私たちクリスチャンを取り巻く環境は昔から様々な教えの風が吹き荒れています。その教えの風という霊的な災害に、どのように私たちは立ち向かうべきでしょうか。

 

2. 教えられたとおり
それが第三の「教えられたとおり信仰を堅くする」ことです。
 私たちは、もともと教えられたとおりの信仰をしっかりと守り、その信仰を堅くしていくことが必要だということです。しかし、最近はこれまで教えられてきたことを否定したり、古いと蔑む人たちも起きてきています。しかし聖書の真理に古いも新しいもありません。1+1の答えが2であるという答えが変わらないように、聖書の真理も変わらないのです。
 みなさんは、どのような信仰を学んで、これまで歩んで来られたでしょうか。たとえば、聖書についての教えですが、私の信仰の原点は、聖書は誤りなき神のことばであり、信仰だけでなく全生活の規範であると教えられてきました。聖書がそのままで神のことばである以上、仮に矛盾に見える箇所については、聖書に欠陥があるのではなく理解できない私の側に問題があるという理解です。
みなさんはどうでしょうか。聖書の教えをどのように信じるか。それは、初代教会から使徒たちが教え、記してきたことを堅く信じる。それがこのみことばから教えられることです。その確信は新約聖書としてまとめられ、神のことばである完成した聖書によって示されています。ここでいう「教えられたとおり信仰を堅くする」とは、神のことばである「キリストにあって」教えられた信仰です。つまり神のことばである聖書のうちに教えられたとおりの信仰でなければなりません。
 しかし、もし聖書の教えだと言いながら、人間の価値観を優先して解釈するなら、間違いが生まれてきます。たとえばイエス様の復活は一般的には信じがたいから、本当はそんなことはなかったが、弟子たちの心に記憶として生きているという解釈が生まれるのです。
 教会の中で「それぞれの解釈でもいいよ。そのような多様性を認めよう」となると、それはキリストのうちに根ざしているのではなく、また建てられているのでもなく、聖書の教えでもありません。つまりそれはキリストのうちに建てられた教会ではなく、キリストの外に仲良し集団を作っているだけです。でもそれは大変恐ろしいことです。ここでパウロは「教えられた信仰を堅くし」と命じているのは、私たち一人ひとりが、また教会としても、その信仰を守るかどうかの瀬戸際に立たされていることだからです。ペテロはその手紙の中でこう言っています。
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」Ⅰペテロ5:9a
 悪魔は私たちクリスチャンを、また教会を破壊するために躍起です。そのためにはかつてのローマ帝国や、また戦時中の大日本帝国のように教会を外から迫害させてきました。しかし、それと同時に悪魔は教会の内側から破壊することにも力を注いでいます。それが聖書の教えを歪めて真理から遠ざけて、教会を腑抜けにさせることです。だからペテロは「堅く立って、この悪魔に対抗しなさい」と命じているのです。
 悪魔の常套手段は、1+1は2という答えは、1.9でもよしとしようということです。それがいつの間にか、3でも4でもいいことにしようとさせる。パウロも8節で「もろもろの霊によるもの」だと言っています。
 そこで、その誤った教えや解釈から教会を守るために必要とされたのが信仰告白なのです。それが公に体系作られて残っているのが『使徒信条』です。だから、使徒信条は唱えるというよりは、告白するものです。お経のようなお題目でもありません。私たちが神を、御子イエスを、聖霊を、そして教会をどのように信じているのかを言い表す神への告白なのです。
 しかし、それだけでも不十分な時代に入っていることは言うまでもありません。イエス・キリストを信じていると言ってもどのように信じているのか。十字架につけられたと告白するけど、その十字架は何とためかなど、福音の根幹に関わることにも様々な人間的な理解が入り込んできているのです。
 ですから、「キリストのうちに教えられたとおり信仰を堅く」することは、私たちにとって非常に大切であることがわかります。だから現在、多くのキリスト教会がありますが、それぞれ信仰告白をつくり、それによって悪魔の攻撃に対抗し戦っているのです。

 

3. 感謝にあふれる歩み
最後に4つ目のことを見ていきましょう。
 4つ目のことばは、「あふれるばかり感謝する」ということです。この言葉は直訳的には「感謝にあふれ続けなさい」という意味です。ですから、キリストにあって歩むとは湧き水のように、いつも「感謝が溢れること」だということができます。
 心が満たされるという言い方もしますが、私たちの心と言うものは入れ物になっているようです。その心と言う器が感謝で溢れるって、どういうことでしょうか。
詩篇では「感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ」とあります。感謝が先立ちます。それは感謝から賛美が生まれるからでしょう。
 感謝が溢れると、そこに喜びが湧き賛美が起るのです。ですから、私たちの心に入れるものがいつも感謝であるなら、その一つひとつの小さな感謝がたくさんになって溢れるときがくるということです。
しかし、逆に感謝ではなく不満だったらどうなるでしょう。
 一昨年、平岸でガスの爆発事故がありました。あの事故は120本のスプレー缶のガスを放出させて、それにガス給湯器の点火が要因で起ったということです。不満も同じように、たまったら溢れるのではなく爆発します。爆発した不満は、周囲の人を巻き込んで大変な状況になります。
 ですから、私たちの心に入れるものはいつも不満ではなく、感謝でありたいです。小さな感謝で良いのです。その小さな感謝がいつか、この一年の終わり、いや一日というゴール、一週間というゴールでも良いです。その小さなゴールのときに溢れて、それが喜び、賛美になります。感謝が溢れると周囲の人にも影響を与えます。それは幸せという影響です。その感謝の喜びが、やはり今日、聴いているこの三つのことにかかっているということがわかります。

結論
 しかし、その主にあって歩むことが本当に感謝になっていくか。これが今日の結論になるでしょう。それは頑張って、自分を打ちたたいてキリストのうちにそれを完全にできたとして、結果的にそれが感謝になるか。きっと頑張れば頑張るほど、きっと「自分をほめてあげたい」と言いたくなるのではないでしょうか。
 しかし、この三つのことは中態、または受動態です。
 既に「建てられ」と二つ目の言葉だけ受身で訳されていますが、これは全て「根ざされ、建てられ、堅くされ」ることであるということです。それは誰によってされるでしょう。それは「キリストにうちに」つまり「キリストにあって」または「キリストによって」されることなのです。
このコロサイの2章は、キリストのうちにあるクリスチャンの素晴らしさを表している箇所です。だから、私たちは自分の力で頑張って信仰を建て上げるのではなく、このキリストのうちに根ざすことで、キリストから吸い上げられた栄養によって自発的な信仰が与えられ、その与えられた意思と決断によって建て上げられ、堅くされる。そこに、ただただ神がこんな私を憐れんで、支えて導いて、主のものとしてくださった。ここに心からの感謝が湧いてきます。これがキリストにあって歩み続けることなのです。
神学校の学び、訓練も私たちの意志と努力が大切です。しかし、その意志と努力すら神様から与えられている恵みに気がつくとき、そこに感謝が生まれるのです。その感謝はあなたから溢れて、あなたの一番近くにいる人に流れます。溢れた感謝は自分だけの神様への感謝だけに留まらずに、他の人にも伝染します。そうすると、その人のうちにもキリストにある喜びが溢れてきて、また他の人への感謝になって溢れます。
それがこの札幌から、また日本に広がり、世界に広がるならそこに目に見える神の国が興るわけです。

 その延長上に主の再臨があり真の完成された神の国が来ることを信じたいと思います。