のりさんのブログ

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「聖書に聴く」


 私は36年前、主イエスが私の罪のために十字架で死んで葬られ三日目によみがえってくださった(Ⅰコリント15:1~5)と信じてバプテスマを受けてから、聖書を読む生活が始まりました。でも、それは単に読書として読むのではありません。聖書を神のことばとして、神に伺いつつ、祈り心をもって読むのです。それを「聖書に聴く」と言います。イエスご自身が「聖書は言う」と表現している箇所があり(ヨハネ7:38、42など)、他にも使徒たちが「聖書が…言っている」と、聖書を擬人化して語っている場合がありますが、私たちは違和感なく、それは、聖書にそのように書いてあるというだけでなく、「神が」そう仰っていると受け取っているのではないでしょうか。もちろん「聖書という古文書が」とか、「聖書記者が」という意味にも考えません。それと同じように「聖書に聴く」ことも、「神に聴く」、「神のことばに聴く」と同義として何の違和感もなく受け入れていると思います。

 そこで、あらためて、私たちが「聖書に聴く」ということがどういうことかを考えてみたいと思うのです。

 

1.  聖書は教会の権威

 聖書に聴くことは、一歩間違うと、その目的によっては、人を殺すこともできるくらい危険な部分も含んでいることをまず覚えたいと思います。それは、これまで多くの人々が、利己的に聖書を読み、聖書を自分たちの悪事を正当化する道具にしていた歴史があるからです。その背景には、初代教会におけるローマ帝国からの迫害後、キリスト教が公認宗教とされ、国教となって保護され始めてから、ローマの異教的伝統や、国家と結びついてしまった政治的事情、また世俗化が入り込み、聖書が教会の意思決定の中心から遠ざけられ、道具として利用されてきた現実があります。

 そこにルターの宗教改革が起こったわけですが、ルターはローマ教皇の権威と対立する中、自らは「聖書の権威において」発言することを明確にし、教皇公会議も聖書の権威に従属すると主張しました。教会の権威を聖書に求めるこの姿勢は、やがて「聖書のみ」「聖書主義」というプロテスタント教会の原則になっていきます。

 しかし、それはルターに始まったことではありません。その先駆者とも言うべきイングランドのジョン・ウィクリフや、それに続くチェコヤン・フスは早くから教会の権威を教皇ではなく聖書に置いて自国語に翻訳し、贖宥状を批判し教会の改革を唱え、いずれも、その運動は異端としてローマ教会から断罪され、ジョン・ウィクリフは死後に墓を掘り起こされて火刑となり、ヤン・フスに至っては、ローマ教会から騙し打ちにあって火刑となりましたが、その約100年後、ルターはその霊的恩恵を受けつつ、ローマ1章17節の「義人は信仰によって生きる」という聖書のことばによって信仰の目が開かれていくからです。

 さらにその聖書にとことん忠実であろうとし実践したのが、アナバプテストの人々でした。だから、当時、まだ幼児洗礼や政教一体等が常識であった他のプロテスタント教会からも急進派として多くの迫害を受けたのです。しかし、当時アナバプテストの人々が聖書によって主張していた事柄は、現在、多くのプロテスタント教会にとって常識となっていることばかりです。それは、それらの人々も、聖書のことばに忠実であろうとして、へりくだって聖書に聴いたからです。

 今後も私たちキリスト教会が更にへりくだってみことばに聴き続けるならば、ローマ帝国時代から続く国家と戦争の問題においても、非暴力を貫いた初代教会のように神の御心に近づけると信じます。それは、聖書が教会を正しく成長させ、御国を継がせることのできる神のみことばであるからです。

「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」(使徒の働き20章32節)

 このように教会の堕落は、聖書を軽んじるところから起こることは教会の歴史が証明しているのです。

「みことばを蔑む者は身を滅ぼし、命令を尊ぶ者は報われる。」箴言 13章13節

 

 

2.  聖書は愛する方からの手紙

「イエスは彼に言われた。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。」(マタイの福音書22章37、38節)

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙第一4章19節)

 それで私たちはもう一度、純粋に、素朴にみことばに聴くことを大切にしたいと思うのです。それは聖書は私たちを愛してくださっている神からのラブレターだからです。だから、みことばを語っておられるお方への愛が求められていると思います。

 著名な神学者のお話や論文もありがたいことではありますが、聖書を解剖するように切り刻みすぎて、かえって分かりにくくしている場合が多々あります。それは特に組織神学に多いことですが、研究が行き過ぎて、聖書がそもそも言っていないことまで作り出すという事が起きて来ています。それは高級車ベンツを分解しすぎて、元に戻そうとしていたらカローラになってしまった。でも「これで良し」とするようなものです。カローラならまだ良い方かも知れません。一番恐ろしいのは、見た目ベンツで中身なしという「張りぼて」です。カローラなら自動車という括りではまだマシかも知れませんが、「張りぼて」ではホテルの結婚式用チャペルと同じです。それは、外見は立派でもいのちのない教会となってしまうということです。

 神学が不要と言っているのではありません。その動機が神を愛するためでなければ虚しいと言うことです。

 ですから聖書こそ、聖書が本来言っていることをそのまま味わいたいものです。わからないことはわからないで良いと思います。無理に人間的な知恵でこじ開けようとするから間違えるのです。人間的な知恵とは自分の理解に聖書を引き下ろしてしまうことです。ですから聖書を実験用モルモットや道具のように扱うのではなく、もっと愛する方からの手紙、愛する方のことばとして慕う心でへりくだって聴きたいのです。それは、ひとり子をお与えになったほど私たちを愛してくださったお方である神を私たちは愛し、そのみことばをも愛する者とされているからです(ヨハネ3:16、Ⅰヨハネ4:9、10、詩篇119:140)。

 

3.聖書は人を生かす

「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(マタイの福音書4章4節)

 主イエスは、宣教の旅に出られる前に、荒野において悪魔の誘惑にあわれました。40日40夜の断食後、悪魔は空腹の極みにあるイエスに言葉をかけます。それが石をパンに変えなさいという神の子としてのイエスに対する誘惑でした。しかし、そこでイエスは神の力を封印し、人間の代表である第二のアダムとして、その誘惑に立ち向かいます。それは第一のアダムは、悪魔の誘惑に負けて、この世に罪の呪いをもたらしてしまったからです。最初のアダムは、エデンの園という最高の楽園で誘惑に負けましたが、第二のアダムであるイエスは、荒野という最悪の環境で悪魔の誘惑に勝利する必要があったからです。

 そこで、イエスは「『人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」と聖書の言葉を用いて答えられたのです。このみことばの意味は、人間にとって生きるのに必要なものはパンも大事だけれども神の言葉も大事だということではありません。人は、神の言葉なしには生きられないのだということを言っているのです。人は食べ物だけで生きていると思うな。神のことばがなければ、本当の意味で生きているとは言えないのだ。そのことをイエスは、あえて聖書に「…と書いてある」と答えて、このあとのすべての悪魔の誘惑にも「…と書いてある」と聖書の言葉を引用して勝利されます。

 人が真に生きるために必要な食べ物、それが神のことば「聖書」であるからです。

 ここに、主の弟子である私たちに対する主イエスの模範があります。それは、この世における様々な場面で起こる諸問題に対して、聖書にこう書いてあると、その聖書のみことばに立って戦うということです。そのために重要なことは何か。それが、まさに人間として食事をするように、いつも規則正しく神のことばである聖書に聴いていくことではないでしょうか。預言者エレミヤはまさに神のみことばを食べましたと言っています。

「私はあなたのみことばが見つかったとき、 私はあなたのみことばが見つかったとき、  それを食べました。  そうして、あなたのみことばは、私にとって  楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(エレミヤ書15章16節) 

 私たちを真に生かす、その神のことばを、いつも規則正しく、バランスよく食事をすようにいただくことが大切なのです。そのことを「聖書に聴く」というのです。

 

 

4.聖書は信仰を実現する

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」
(ローマ人への手紙 10章17節)

 聖書は「信仰は聞くことから始まると」言います。そして、それは何に聞くのか。それが、「キリストについてのことば」に聞くという事です。では「キリストについてのことば」とは何か。それが「聖書」であるということができます。それは主イエスご自身がそのように聖書を用いられたからです。

「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」(ルカの福音書 24章27節)

 ここで言われている聖書とは、直接的には旧約聖書を指しますが、新約聖書をも含む聖書全体であると解釈して良いでしょう。新約聖書は、旧約聖書の成就であり、まさにキリストご自身のお姿と教えそのものであるからです。つまり現代を生きる私たちの信仰もキリストについて記されている「聖書」全体のことばを通して実現するということです。このことを新共同訳では「キリストの言葉を聞くことによって始まる」とし、聖書協会共同訳では「キリストの言葉によって起こる」と訳出しています。それは聖書全体が「キリストの言葉」であり、それは、主イエスが天に帰られて父なる神の右の座におられる現在もなお神は、聖書を私たちに与えて、キリストの言葉を聞かせ、そこから神への信仰を生まれさせ、育み、完成へと向かわせるからです。その一連の流れの中に聖霊ご自身が働かれていることは言うまでもありません。そのような信仰の成長について、今回引用した新改訳2017では、「実現するのです」と、また他の翻訳でも「始まる」、「起こる」と信仰の漸進性が表現されています。

 信仰は生き物です。それは私たちという生き物と一つであるという意味です。ですから、そこには誕生があり成長があります。私たちは、そのからし種ほどの信仰(マタイ17:20)が成長し、完成を迎える実現のために、繰り返し、日々キリストのことば、つまり神のことばとして、聖書に聴き続けるのです。それは、そもそも神のことばが肉体をもって来られたからであり(ヨハネ1:14)、その神のことばであるお方ご自身が、今も聖書を通して世にご自身の栄光を現わし、その救いの計画と終末における神の国の実現を明らかにし、その御国としてのキリストのからだを建て上げるべく私たち一人ひとりを招いているからです(エペソ4:12)。

  

5.聖書は救いを受けさせ整える

「また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」(テモテへの手紙 第二3章15~17節)

 パウロの弟子テモテは幼い頃から聖書に親しんでいた人でした。親しむというのは、祖母ロイスと母ユニケらによって読み聞かされて育てられたということでしょう(Ⅱテモテ1:5)。ここでテモテは幼い頃から聖書を聴かされていたという事実が見えてきます。それは、テモテ自身が、聖書を聴かされて育ったことでどんなことが起こったかということの証人になっているということです。ここでの「聖書」も一義的には旧約聖書のことですが、新約聖書が完成した今、前述したように新約聖書も含めた聖書と解釈して良いでしょう。

 テモテはまず「知恵が与え」られました。この知恵を聖書に聴くならば「神を恐れる」ことと繋がってきます。「知恵の初めそれは主を恐れること」(詩篇111:10)だからです。またこの知恵が、神の知恵であるキリストの救いへとテモテを導いたと理解できます。まさにこの世が「自分の知恵によって」は理解できない「十字架のことば」、「宣教のことばの愚かさ」である「十字架につけられたキリスト」(Ⅰコリント1:18~26)をテモテは理解したということです。

 すなわちキリストがユダヤ人たちに妬まれ、ポンテオ・ピラトによって判決を受け十字架にかけられて死ぬという、一見、弱く敗北に見える、その一連の出来事こそ、滅びに向かっている私たち罪人の身代わりに死ぬ神の子羊の姿であり、ユダに裏切るように誘惑までしてキリストを抹殺しようとした悪魔の策略さえも手玉に取るようにご自身の救いの御業と悪魔に対する勝利となった。テモテは、その神の知恵を理解したのです。

 それはテモテだけではなく、キリストの福音を信じている者はみな、この不思議な神の知恵を聖書を通して理解し、それが自分のためであったと信じたということです。このような神のアクロバットのような深い救いの計画と摂理を私たちは、これを信じたあとも、実は、また日々新たにその感動を味わい続けます。信仰の成長は、いつも、この十字架のことばに触れ続ける中に与えられるからです。イエス様が十字架にかかり死んでよみがえられたという出来事が、不思議と信仰の歩みの中で、それが本当に私のためであったという確信として、繰り返し新鮮に迫って来るのです。

 そのことは神の知恵として聖霊の働きを通して聖書のことばにより知らされることであり、この世の知恵によっては、それを知ることができないと聖書は言っています(Ⅰコリント1:21)。

 テモテは幼い頃から聖書を読んで聴かされて育てられ、それによって主を恐れることを学んでいた。それが神の知恵であるイエス・キリストに対する信仰にまで目覚めさせ、信仰による救いを受けさせることができました。また、それだけでなく使徒パウロに従い、その同労者となって「神の人」として「十分に整えられた者」となったと考えられます。それは、テモテが聖書に聴くことを幼い頃だけでなく、また信仰を持ってやめるのでもなく、大人になっても、また信仰を持ってからは尚のこと続けていたからであることは明白です。

 このように人は聖書に聴き続けるならば主を恐れる者とされ、キリストに対する信仰によって救いを受け、神の働きに間に合うものとして整えられるのです。

 

終りに

 私が所属している白石教会は、2020年1月の定期総会で「日本メノナイト白石キリスト教信仰告白」というものを採択しました。これは2019年に信仰告白検討委員会を立ち上げて、委員の方々と何度も祈りつつ話し合い、導き出されてきたものです。その信仰告白の最初の項目に「聖書」を置いています。

 そこにはこう書かれています。

「聖書は、すべて神の霊感によるもので、神の救いの計画を啓示する権威ある神のことばであり、信仰と生活の誤りなき規範です。」

 この聖書という項目を冒頭に置いているのは、聖書を神として拝んでいるという意味ではありません。神がご自身のこと、救いについて、私たちに啓示するすべてのことが聖書に記されていると信じているからです。

 このことは、前述したように宗教改革における教会の権威が聖書にあるという理解に立つものだからです。ですから、この聖書をどのように信じ、理解し、告白するかで、神、イエス・キリスト聖霊、教会、救い等、それぞれに聖書が言っている告白ができるのです。それは、聖書が権威ある神のことばであり、信仰と生活の誤りなき規範だからです。

 私たち人間は移ろいゆくものです。その生活、文化、常識はどんどん変化し、特に現代は、ポストモダンの時代と言われ、何が基準なのかというよりも、それぞれぞの基準で良い、個人の基準で良い、多様性が大事だということが言われています。

 本当にそれで良いのか。聖書はその言葉を現代に生きる私たちに投げかけていると思います。なぜならば、聖書は神が創造した「非常に良かった」(創世記1:31)世界から堕落の世界へとどのようになって行ったのかを明確に示しているからです。

 なぜ、今、こんなに自殺者が増えているのか。どうして子どもへの虐待が日常化しているのか、どうして戦争はなくならないのか。どうして、この地上は呪われているように、すべて悲しみに、悪に傾いていくのか。

 聖書によれば、最初の人アダムが、神のことばよりも人のことばを選び従ったことに、その要因があることがわかります。神はアダムにこう言われました。

「あなたが妻の声に従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。」(創世記3章17節)

 最初の人アダムは主のことばよりも妻(人間)のことばを優先した。それが夫婦の、男女の、社会の、被造世界の、全宇宙の歪みの始まりであるということです。

 しかし、神はこの呪われた世界を呪いで終わらせないために、また不幸が不幸だけで終わらないように、その罪の呪いを御子に負わせ、私たち人類の罪の贖いとされたのです。その御子は、十字架の道を歩まれ、ゴルゴタの丘の上で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえり、第二のアダムとして、今度は呪いではなく祝福を、死ではなくいのちを、悲しみではなく喜びを私たちにもたらしてくださいました。今も生きて、みことばによって私たちを導きます。

 だから、今、このキリストを信じる私たちは、人間のことばではなく、主のみことばによって益々励まされて、キリストの道を歩むのです。それは、その主のことばこそ、この世にあって大切な信仰を実現し、救いを受けさせ、キリストの似姿へと日々変えられるように生かしてくださるいのちのことばだからです。

「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(ピリピ人への手紙2章16節)

 これからも、愛するキリストのことばを、主が与えてくださった主にある兄弟姉妹たちとともに慕い求めつつ、聖書に聴いてまいりたいと思います。

「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ人への手紙3章16節)

                         川﨑憲久(白石キリスト教会)