のりさんのブログ

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「ハガルよ。どうしたのか

聖書箇所 創世記21章14節~21節
 
序論
 今日のみことばも神がともにあることがどれほど幸いなことかを伝えています。アブラハム一家から出されることになったハガルとイシュマエル。そこに関わってくださる神様。今日の説教題は17節の神様の言葉からそのまま取りました。それは、その言葉こそ、私たちに対する呼びかけでもあるからです。このように名前を読んで私たちの人生に関わろうとされる神様。人生でもっとも大きな局面を迎えたハガル親子に神様はどのように関わってくださったのか。「ハガルよ。」と声をかけた神様の御心は何なのか。ともにみことばに聴いてまいりましょう。
 
1.人生の谷間で主に出会う
 今日のお話の主人公はハガルです。エジプト人だったことは先週も見ました。9節に書いてあります。アブラハムとサラがエジプトに滞在していたときに、このハガルを連れて来たのかも知れません。アブラハムが妻サラのことを妹だと言った、あの最初の事件のときです。そのあと女主人サラの意思で、アブラハムによってイシュマエルを生みました。その時のハガルの年齢を仮定で20代前半とすると、このときは、おそらく30代後半から40歳くらいだという事ができます。サラから見れば、まだまだ若く、体力もある頃でしょう。でも、もう約20年もアブラハム一家に仕えてきて、奴隷とはいえ裕福な暮らしにすっかり慣れていたはずです。息子イシュマエルも17歳になって、いよいよアブラハムの家の後継ぎとしても安泰と思っていたら、90歳のサラにイサクが生まれた。ここからハガルの人生設計が大きく崩れていきます。
 大金持ちの跡取りの母として一時的に上り詰めましたが、一気に転落です。それで先週は、アブラハムの視点とイシュマエルの視点で見てきましたが、今日はアブラハムからハガルの視点に切り替わって始まります。14節。
「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。」
 先週触れましたが、アブラハムは昔の失敗の刈り取りをこのときにしていました。可愛がって育てたイシュマエルを手放すのです。また、ハガルに対してだって、きっと深い愛情が芽生えていたからこそ、パンと水を用意して、「彼女を送り出した」と書いてあります。送り出したのはイシュマエルとともにハガルのことです。このあたりが一夫一婦制が崩れてしまったときに起こる不幸な愛情があることを伝えていると思います。愛することは麗しく大切な感情であり行動です。でも、ルールをはみ出してしまったときに、それはかえって厄介なものとなっていきます。アブラハムもハガルもその難しい感情をここで切り捨てなければなりませんでした。それだけに、このパンと水の重さ以上に、アブラハムの愛情も彼女は背負い、またアブラハムもその感情を手放す思いで、彼女の肩に載せたのだと思います。
 このように、特別に複雑で重たい荷を背負って、ハガルとイシュマエルはアブラハム一家をあとにします。ハガルにとって、この一歩は大変大きな一歩でした。それは、この一歩は二つの大きな意味を持っていたからです。
 一つは、彼女は、これからは自由だということです。これまでは奴隷でしたが、もうこれからは奴隷ではありません。女主人の言いなりになって振り回されなくて良いのです。自分の意思で結婚もできるかも知れません。そういう意味では希望の持てる一歩かも知れません。しかし、もう一つの意味を考えるときに、先が見えなくなっていきます。それは、実に、その自由であるがゆえに、同時に今後生きていく場所も手段も自分で決めなければならないということです。つまりこのままだとアブラハムからもらった水も食料もなくなったら終わりだということです。
 しかも一歩、外に出ると、そこは広大な砂漠です。当面の食料も水も二人で運べる量は限られますから、すぐになくなりました。以前は、サラにいじめられて家出をしたことがありましたが、その時はアブラハムのもとに帰ることはできました。しかし、今度は追い出されていますし、そのサラの決定を神様も認めたので、もう帰れません。行く当てもなく、荒野をさまよい歩いたのです。
 もともとエジプト人のハガルにとっては、まだ砂漠の経験や知識があったかも知れませんが、「おぼっちゃま」のイシュマエルにとっては、いくら17歳とは言え、この旅はかなりきつかったのでしょう。当然ハガルもギリギリでしたが、イシュマエルの方が先に倒れてしまいました。15~16節。
「皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が『私は子どもの死ぬのを見たくない。』と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。」
 ハガルは最後の水がなくなったとき、イシュマエルを砂漠の中でちょうど見つけた灌木、低い木の下に投げ出し、もう自分もほぼ同じような状態で死を待つようにして泣くしかありませんでした。でも母親としては、息子が死ぬのは見たくないです。何か息子を助ける手段でもあるならば何でもするでしょう。でも、砂漠の中では何もできないです。親として死んでいく子どもを目の前に、助ける手立てを失ったとき、それは自分が死ぬよりも辛いことですね。まさにハガルは人生最大の危機を迎えたのでした。人生の最大の谷間を経験しました。
 このようなことは皆さんも色々と経験されていると思います。人生最大のピンチ。依田姉は戦争という恐ろしいときを、このイシュマエルと同じ年ごろで経験されました。もしかしたら、このボロボロになったイシュマエルのような経験をされたかも知れません。また、戦争でなくても、家庭や、仕事で地獄のような経験をされた方もいらっしゃると思います。こういうときって、もう先が見えず、死を待つようにして泣くことで精いっぱいかも知れません。泣く涙すら出て来なくなるかも知れません。いったい神がいるならば何とかしてくれと思うかもしれない状況です。どうして、こんなことになったのか。苦しい思いで心が支配され、前向きになれません。できれば早く死にたい。そう思ってもおかしくないです。
 
2.主によって目が開かれて歩む人生
 この人生最悪の事態のハガルに転機が訪れます。17節。
「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。『ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。』」
 神様が声をかけてくださったのです。しかも神は誰の声を聞いたと言われているでしょうか。それは少年イシュマエルの声だったのです。聖書を見る限り、泣き声を上げているのはハガルだけですが、神様が聞かれたのは、声なき声を上げていたイシュマエルだったのです。これは、ハガルの声を無視していたということではありません。当然、ハガルの叫びを聞いていたでしょう。でも、神様はあえて少年の声を聞いたと言うのです。
 それはどうしてか。それはイシュマエルという名前を通して、神様はハガルの信仰を呼び覚ますためだったからです。つまりイシュマエルという名前の意味は何だったか、覚えているでしょうか。それは「神は聞いてくださる」「神は聞かれる」という意味です。それは、その名前の通り、わたしは彼の声を聞く神である。あなたはわたしが命じたとおりに信仰をもってイシュマエルと名づけた。その名に現わされているとおりに、わたしはイシュマエルの声に、そしてあなたの声を聞く神である。そのように御使いを通して伝えたのです。
 イシュマエルと言う名前はかつてハガルが家出したときに、神様から、お腹の子の名前をイシュマエルとつけなさいと言われ、ハガルは、そのみことばを守ってつけた名前でした。
 ですから、イシュマエルという名前をつけたことには意味があったことを、ハガルはここで思い起こすのです。実際、17節の会話文の中にはイシュマエルという言葉が入っています。17節全体であれば2回繰り返されて聞こえるように記されています。
 このように、神様はハガルに彼女が経験してきた信仰の歩みの中で、ハガル自身の心に響く出来事を用いて、神のことばを思い起こさせて彼女の信仰を目覚めさせようとされたのです。
 そして、さらに18節。
「 『行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。』神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。」
 神様は、「少年の声を聞いた」はずなのに、やはりここでもハガルにことばをくださって、ハガルを通してイシュマエルを力づけようとされます。しかも、何か特別なエネルギーを与えるのではなく、まずハガルに井戸を見つけさせて、その水で助けるのです。
 ある意味、普通のことを通して、普通のものでハガルを動かし、イシュマエルを救った。ここに、神様の私たち人間に対する深い配慮と絶妙なお取り扱いを見ることができます。
 さすが神様。人間をよくご存じです。神様だから当たり前ですが、神様はあえて、私たち人間の神のかたちの部分を呼び覚ますように導いておられるのです。神様は、当然ハガルだけにもイシュマエルだけにも、それぞれに奇蹟的に天からパンや雨を降らせることはできたでしょう。でも、そうではなく日常的なスタイルの中で、まず母親としてのハガルを生かすために、息子のために働くように導いています。
 母親にとってお腹を痛めて産んだ子が目の前で死ぬのは本当に死ぬより辛いことです。だから、神様は先ほどまでお手上げ状態で泣くしかなかった母親ハガルが息子を生かすための使命として、そこで、驚きは、水を飲ませる前に、抱き起すことで力づけられるんだよと教えてくださっているのです。実は、何もできないのではない。息子を抱きしめてあげるだけでもイシュマエルは力づけられました。その上で、ハガルの目を開いて、井戸を見つけることができました。それでアブラハムから持たされた皮袋にいっぱい水を入れてイシュマエルに飲ませて癒すことができたのです。
このスキンシップは、親子に限らず、様々な場面で必要としている人がたくさんいます。今コロナ禍の中ですが、この中にあっても、文字通りのスキンシップでないにしても、一歩近づき、一つ抱き起すように助けられることが必ずあるのです。福音を伝えることは、そのような行動の中にも繋がっています。手紙を書いたり、電話をしたり、お金を寄付したり、様々なかたちはありますが、何もできないと泣いていたハガルに神様が、まず少年を起こし、彼を力づけなさいと言われたように、ああ、それならばできるということがあるんだということをここから学びます。
最終的にイシュマエルは助かり、しかも独りぼっちではなく母親が自分を愛してくれているという実感さえも体験して、彼は新しく立たされていきます。何よりもイシュマエルという「神は聞いてくださる」ということだけでなく、ともにいてくださる神様「インマヌエル」をもイシュマエルは体験して、母の出身地から嫁をもらって新しい人生を歩み出したのでした。20節、21節。
「神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。」
 
結び
 私たちの人生も山あり谷ありです。この一週間を振り返っても山あり谷ありです。でも、そういう中にあっても神様は、私たちに関心を持ち、いつも関わってくださっておられることを、今日の箇所から学びました。
 今日のところで、ハガルもイシュマエルも主の名を呼んだとか、神に祈ったというふうな姿は、実は見えません。ただ泣いていたか、叫んでいたのかは推察できますが、神様への信仰は見えないのです。でも、神様は、17節以降、ハガルに言葉をかけてくださり、具体的にイシュマエルを助ける方法を示してくださいました。そのように、神様の側から近づいてくださる。これが、聖書が教える真の神のお姿です。
 神様は先に恵みありきです。初めに祝福なのです。私たちが気づいても気づいていなくても、神様はいつも関わってくださり、私たちが神様の恵みに気が付くように待っておられます。どの人だって、教会に来る前から、お母さんのお腹にいるときから、ずっと神様は待っていました。みんな気が付かないだけです。みんなハガルのように、叫びはするけど、神様のことを知らないのか、忘れているのか、一人でぐるぐるして苦しんでいる。
 でも、あるときに特別に神様が目を開いてくださって、ハガルが井戸を見つけたように、教会を見出し、集い、永遠のいのちが溢れるお方イエス・キリストこそ、その井戸だとわかるのです。その永遠のいのちへ導いてくださる神様のきっかけのことば。それが「ハガルよ。どうしたのか」です。
 聖書にはこのような言葉で近づかれる神様の姿がたくさん描かれています。ある伝道者の先生は、「神様ってとぼけておられる」と言っていました。確かにそうです。ハガルのことをよくご存じなのに、「どうしたのか」と尋ねる神様。同じように、アダムとエバが罪を犯したときもそうでした。「どこにいるのか」。
 イエス様も全く同じです。目の見えない人に対して、「わたしに何をしてほしいのですか」と聞かれます。全部、実は知っているのに。どうして、このように、とぼけたような質問をされるのでしょうか。
 それは、ボロボロのハガルとイシュマエルの声が聴かれ、生かされたように、神様はあなたの声を聞きたいからです。どうして聞きたいのか。それは、あなたを愛しているからです。愛しているからこそ、交わりたいのです。主への祈りを求めておられるのです。何をしてほしいのか主の名を呼んで話してほしいのです。それはそこに魂の救いがもたらす本当の幸せがあるからです。
 イエス様は弟子たちを宣教のためにこの世に遣わすことを「狼のただ中に置くようなものだ」と言われました。まさに、今日の場面は、リアルに荒野の中に置かれたハガル親子を通して教えています。それは翻って、この世と言う罪の世界、罪の荒野、神様を無視した砂漠に生きる私たちのことです。そこで生き抜くことは不可能です。なぜならば、その状態が既に死んでいる状態だからです。でも、そういう私たちを神は愛してくださり、神様ご自身が近づいてくださいました。それが今から2000年前に文字通り実現して、このキリストを通して救いを得る道を与えてくださったのです。
私たちも目が開かれて、そのキリストをあなたの人生の井戸、つきないいのちの泉であると見出すならば、あなたもあなたの家族も救われます。依田姉は、そのキリストによって永遠のいのちを得て天の御国へ凱旋されました。
 今日、主はハガルを通して、そのことを明らかにしてくださいました。今週もどうか、あなたに語られている「どうしたのか」という主の声を聞いて、その問いかけに「主よ。」と祈っていこうではありませんか。なぜならば主は聞いてくださるお方。イシュマエルだからです。
 
祈り