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(新潮文庫89刷改版)  「海と毒薬」 遠藤周作著について

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1.要約
 第一章 海と毒薬
 
 ①登場人物
 【序章】
  ●私:序章で、ある町に、妻とともに西松原住宅地へ引っ越してきた釘問屋の職員。
勝呂医師に興味を持ち、勝呂医師がどういう人物かを読者に案内する役回り
の人物。肺病を患っており、その治療のために勝呂医院へ行くことになる。
戦時中は鳥取の部隊にいた。
  ●妻:「私」の妻。夫である「私」に勝呂医院を紹介する。妊娠中。
  ●勝呂医師:この小説の主人公。戦時中、F医大研究生時代に米兵捕虜の人体実験に参加した経験を持ち、2年の懲役刑を受けている。
  ●GSの主人:右腕のつけ根に迫撃砲弾の爆裂でできた火傷の傷跡がある。風呂屋では戦時中の中支での武勇伝を、知り合ったばかりの「私」に話す。
  ●洋服屋の主人:GSの主人の話によると、戦時中は憲兵だった。南京でかなり「あ
ばれて」いた。
 
 ②場所 西松原住宅地:新宿から電車で一時間もかかる。現在の西多摩郡瑞穂町箱根崎西松原付近と思われる。
  
 ③あらすじ
  肺気胸を患った「私」が妻とともに引越してきた町。家の近くに病院は一軒しかなかったため、その病院を訪ねる。この病院は個人病院であるが、ここの院長が主人公の勝呂である。助手も看護婦もなく一人で診察から薬の調合もしている。
  「私」は、これまで以前住んでいた町の老医者に、肺に空気を入れてもらっていたが、ときどき失敗した。しかし、勝呂は違った。胸に針を刺す際のスピード、手際の良さ、正確さはその老医者とは大違いで、素人の「私」でもその腕の良さがわかり、勝呂が極めて優秀な医者であることがわかった。
  しかし、針を刺す瞬間に「私」のからだに触れる手が妙に冷たく、その冷たさは体質というだけでは言い表せないような、嫌な冷たさであった。
  このような勝呂に対する「私」の洞察や商店街の洋服屋のショーウィンドーの中にあるマネキン人形の描写が、これから語られる勝呂を取り巻く事件を暗示させる。
  「私」は、妻の代わりに行った義妹の結婚式で出会った、勝呂と同じF医大出身の男から勝呂の意外な過去を知ることになる。それが戦時中に行われた生体解剖実験に関わっていたということである。「私」はその情報を持って、いつものように勝呂医院へ気胸の施術を受ける。「私」はあえて「F市まで旅行した」と打ち明ける。しかし、その言葉は勝呂にとって、自分の過去に触れられたことに等しかった。勝呂は突然「私」の前で呟く。
 「仕方がないからねえ。・・・」1
  この台詞を皮切りに、場面は戦時中、勝呂がF医大研究生の時代に遡る。
 
Ⅰ~Ⅴ. F医大内部の人間模様
 ①登場人物
  【本章】
  ●勝呂:F医大研究生。「おばはん」を自分にとって、純粋に最初の患者として真剣に向き合っていたが、恥ずかしくて同僚の戸田には言えなかった。いつも大学の屋上から海を眺めることで気持ちを落ち着かせていた。平凡が一番幸せだと考えていた。
  ●戸田:後述
  ●橋本教授:第一外科部長。勝呂や戸田が「おやじ」と呼び師事する人物。大杉医学部長の急死により、権藤教授と医学部長の椅子を巡って勢力争いを始めていた。田部夫人の手術を執刀し死なせてしまう。
  ●権藤教授:第二外科部長で橋本教授と、学内で勢力争いをしている。
  ●小堀軍医:F市西部軍に属し、第二外科の講師をしている。権藤教授と繋がっている。
  ●柴田助教授:医大病院の患者を治療するというより、手術の実験台にしている。「おばはん」が助からない患者であることで、手術に耐えられない状態であるにも関わらず、自分の医術のために利用しようとする。
  ●浅井助手:橋本教授の助手。上田看護婦と男女の関係にある。
  ●おばはん:勝呂の始めての患者。門司の空襲でF市に来たが、両肺が結核に侵されており、手の施しようもなく橋本教授は匙を投げていた。助からないのを良いことに柴田助教授によって手術の実験台にされることになったが、田部夫人手術後に病室で死を迎える。
  ●大場看護婦長:教授の指示に忠実に従う。生体実験にも参与し、米兵の遺体を上田看護婦とともに、秘密裏に運んだ。
  ●田部夫人:大杉医学部長の親類。橋本教授の手術で死ぬ。
  ●阿部ミツ:おばはんの病室仲間。ときどき、おばはんに「仏さま」の本を読んで聞かせ講釈していた。
  ●上田看護婦:後述
 
 ②場所 九州F医大
 
 ③あらすじ
  若き頃の勝呂は、助かる見込みのない患者に真摯に向き合う医者の卵であった。しかし、病室の患者を実験台のように扱う柴田助教授がおり、また勝呂が師事する橋本教授と、第二外科部長の権藤教授の権力抗争もあり、勝呂は同僚の戸田とともに翻弄される。
  そんな中、出世を賭けた橋本教授執刀の手術が失敗し、患者を死なせてしまう。学内の求心力低下を恐れた橋本教授は、軍の支持を得て名誉を回復するために、アメリカ兵捕虜の生体実験を行う。
 
第二章 裁かれる人々
  Ⅰ. 看護婦
   上田看護婦は、不幸な結婚生活、離婚という経験をしたことから、社会に対して疎外感を感じている。そのため、他人に対しては無感動・無関心なところがある一方、幸福感に溢れて生きている人間や、正義や正論を主張する人間に対しては憎悪の念を抱いている。
捕虜の生体実験を手伝うように依頼を受け、橋本教授のドイツ人妻ヒルダがかつて言った言葉を思い出し微笑する。その言葉は「神さまがこわくないか」という、昔、看護婦室で叫んでいた言葉だった。彼女は、そのように自分を非難した人物を見返すという意味で実験に参加する。上田看護婦は、実験後、病院で人体実験という非人道的な行為が行われたことを知っている、ごく限られた人間の一人であることに優越感を感じる。
 
  Ⅱ. 医学生
   戸田は、子どもの頃から頭も要領も良く生きている。そのため、悪いことをしても見つからなければ良いと考えていて、世間的な罰を受けることは恐れても、悪いことをした際の良心の呵責という心境は一切持ち合わせていない。戸田は、良心の呵責を感じない自分の心について、心の奥底で不思議に感じている。戸田は、殺人行為に加担することで良心の呵責を感じるかという疑問を解決するために実験に参加する。しかし、実験が終わったあとも良心の呵責を感じることはなかった。
 
  Ⅲ. 午後三時
   2月25日午後三時開始予定の生体実験手術に参加することを、勝呂は何も特段考えることもなく成り行きで承諾する。勝呂と戸田は、エーテルで捕虜に麻酔をかける役目となった。それはもちろん、捕虜に生体実験であることを悟られないように、負傷部分の治療という名目で眠らせる役である。その段取りの中で勝呂は急に人殺しに加担するという不安と恐怖に襲われる。その間にも実験を見物に来ている軍人たち関係者は、高笑いしながら戸の外で雑談していた。
   いよいよ捕虜に麻酔をかける時間になり、勝呂は捕虜に麻酔マスクをかけるように指示された。しかし、彼にはできなかった。手術台から離れ、後ろからただ眺めているしかなかった。
 
  第三章 夜の明けるまで
  Ⅰ~Ⅱ
   「①血液に生理食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調査する。②血管内に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査する。③肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査する。」
   軍立会いの下、八ミリ撮影機が回る中、予定通り実験は進んでいく。そこには戸田が期待していた恐怖や心の痛みなどではなく、いつもの手術よりも緊迫感のない空気であった。それは、患者の命を救うための手術ではなく、死んでも惜しくない、別に生き延びさす理由のない捕虜を実験のために手術をしているからである。
   その様子を軍医や軍関係者が口をあけて見ている。勝呂は目を瞑りながら本当の患者を救うためにしている、いつもの手術であると思い込もうとしたが、周囲の音が慌しくなり捕虜の肋骨が切断される様子の中で、無力とも屈辱感ともつかぬものがこみ上げて来た。できることなら目の前に立っている将校たちを突き飛ばし、執刀している橋本教授の肋骨刀を奪いたかった。しかし、手術に参加すると言いながら投げ出し、後ろにいるだけの勝呂を睨んでいる将校の眼からの強い軽蔑と叱責を感じて何もできなかった。
   捕虜は予定どおり死亡した。遺体は看護婦長と上田看護婦によって、秘密裏に担架車でどこかへ運ばれた。
   勝呂は、悩みつつ自らの罪と罰について戸田と、屋上で話す。お互い解決の見えない話に終止符を打ち、戸田は降りていく。一人屋上に残った勝呂は、闇の中に白く光っている海を見つめた。何かをそこから探そうとしたのだ。しかし、彼にはできなかった。
 
2. 設問
 ①著者は人間とはどのような性質の存在だと考えているか。
 ●人間は生まれながらにして罪の性質を持っていることを前提にしている。登場人物のどこにも正しい人を見出せない。また、普段は惨いと思うことでも、それが日常化すると慣れてしまう性質がある。「本当にみんなが死んでいく世の中だった(p.46)」は、そういう日常がそこにあったことを伝えている。彼らが医者の集団であるにも関わらず、多くの人が死んでいく中で、その関心事は命を救うことではなく、勢力争い等、各々が持っている利己的な思いを満たすことだった。
 
 ②著者は罪とはどのようなものだと考えているか。
 ●登場人物の心の動きの描写から、人間の罪は変わらないということがわかる。生体実験を通して三者三様のかたちで自分自身の心の姿を見ることになったが、期待には及ばず、勝呂も戸田も上田もそれぞれの罪という重荷の解決を見ることはなかった。
 
 ③罪の解決を求めているか。
 ●ところどころに「神」への追求を意識させる会話があり、罪の解決というよりも、絶対的な「神」不在の中に生きる私たち日本人の行き詰り感への気づきを与えようとしているのではないかと思う。
 
 ④タイトルの「毒薬」ということばは何を象徴しているか。
 ○私は、罪、または罪の性質ではないかと思う。勝呂は、周囲の様々な出来事に翻弄され、その一部として関わっていく。それは、周囲の毒が自分を蝕み、自分がどんどんその毒に侵されていくということである。だから勝呂は、屋上で海を眺めることで、その毒を薄めようとしたのではないだろうか。
 ⑤この小説に流れているのは「罪」についてか、「罪悪感」についてか。
 ○両方流れていると思う。「罪悪感」については、登場人物がそれぞれに異なった態度を示している。同じ出来事に関わっていても、どのような心境であったかは人間によって違っている。それが並列的に描かれている。しかし、それぞれのそういう人間の生々しい現実の根底にあるのが罪である。
 ⑥二つの概念の違いについて。
 ○罪は人間が背負っている基本的に動かないもの。罪悪感は、罪の性質が引き起こす状態や結果に対して、どう自覚するかということ。人間それぞれ、その生い立ち、経験、環境などでも変化するので、犯した罪に対する反応がまちまちになってしまうことが多い。冒頭に登場するガソリンスタンドの主人も洋服屋も、戦争経験者であり、それぞれ人を殺した経験を持っていた。しかし、戦後は一市民として平静に暮らしている。彼らはある意味、その罪を武勇伝としているが、勝呂は生体実験に関わった犯罪人として刑罰を受け、社会復帰後も、その影を背負って生きている。
 ⑦日本人が一般に罪と理解しているものは?
 ○世間の罰を受けることになる行為のこと。世間の目に触れなければ気にすることはないという理解。日本人にとって、絶対的な神が不在であるため、何に対する罪なのかがはっきりしていない。そのため罪悪感も異なる。
 
 ⑧罪の結果の罰をどのようなものだと考えているか。
 ○戸田の言葉を借りれば「世間の罰」を勝呂が言った「いつか受ける罰」と捉えている点は、多くの日本人が持っている常識ではないか。一般的には社会的制裁程度と考えられる。しかし、そう言った戸田も生体解剖後決してすっきりしていない。「なにが苦しいんや」と勝呂に語る戸田自身も苦いものがこみ上げていたのは、いくら思いにおいて良心の呵責を覚えずとも、罪を犯した人間として、ただでは済まない傷を負っていることを暗示しているのではないか。その昔、日本人も祟りを恐れるがゆえに身を慎み、神仏に手を合わせることが行われてきた。そういう時代は、ある意味、眼に見えない存在を意識するということでは、もっと霊的視点があったと思われる。
⑨聖書の罪の結果の罰とどう違うか。
○聖書では、罪は創造主であり天地の主である神に対する反逆行為であり、その神を恐れない生き方である。人は善悪の知識の木の実を食べて神になろうとした。それは神を必要としない、人間が自分のルールで善悪を判断するということ。その呪いとして、エデンの園から追放され、あらゆる苦悩と争いの中に置かれ、ついに死ぬものとなった(創世記3章)。聖書の罪の結果もたらされる罰とは神からの絶対的さばきであるが、この小説に描かれている人間社会では、あくまで人間中心の罰であって、自分たちの都合に合わせて変化させることができる。
 ⑩最後に主人公は何を探したかったのか。
 ○勝呂はあの実験を断ることができた。戸田との会話で唐突に「神というものはあるのかなあ」、「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」という話が出てくる。勝呂は、神がおられるなら彼が願っている平凡な「幸福」を得たいと思っていたのではないだろうか。しかし、いつも眺めている海を眺め続けても、そこにあるのは、海と同様の「押し流す」大きな力であり、その中で流れに身を任せるしかない自分だったのではないだろうか。結局、勝呂は「仕方がなかった」と自分に言い聞かせて、悶々とした歩みを始める。
   
【感想】小説で扱っている事件が私にとって興味を維持できるものであったため、他の
小説よりも集中して読むことができた。それは、この小説のモチーフとなっている「九州大学生体解剖事件」が事実であることが単なる小説の世界の話ではなく、私たちの現実であることを深く教えられたからである。また、この小説を通して、34年前に読んだ「悪魔の飽食」(森村誠一著)を思い出し、単なる一部の人たちの話ではなく、私自身のことであることを示される。
絶対的な神概念を持ち合わせていない私たち日本人にとって、この小説に登場する誰かに必ず自分がおり、また登場人物すべてに自分がいるとも言える。自分自身の毒にどのように向き合うのか。しかし、ここに登場する誰にも、何の解決も見出せない。それは、その解決は、まず神に向き合うことから始まるからである。それは、自分自身の毒の恐ろしさを明確にするものは、自分自身の経験や知識ではなく、あくまで聖なる神にあるからである。神のきよい光に照らされて初めて、私の毒が明らかにされる。そして、そこにきよめと赦しと救いをもたらすのも神であることも知らされる。
しかし、日本人的な罪の解決の仕方が私たちに根付いている現実にもあらためて向き合わせられる。それぞれの心の蓋を持ち合わせており、その封印を解かずにいることを美化したり、大義名分の幕で覆うことで、平静を装うことができるからである。そこから裸になることを多くの日本人は好まない。