のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

「福音に立つ」 聖書箇所 ガラテヤ2章11~14節

1.序)
 「しくじり先生」という番組をご存知でしょうか。私は最近、あまりテレビを観ないのですが、その番組は好きでときどき観ています。タレントの方々が過去に経験した様々な失敗談を、まさに授業をする先生のように語るという番組です。そこで語られる失敗の数々が、実に面白いです。それは笑い話しとして面白いというよりも、一つ一つの失敗に、私自身と重なっている部分を観ることができるからです。
 何かにしくじったタレントさんたちは、その「しくじり」を通して必ず何かを学び、変えられていく姿を赤裸々に語ります。その姿に私も共感を覚えて涙なしには観られないときもあります。この「しくじる」という言葉の由来は、「為したことが崩れてしまう」という言葉が変化したものだそうです。せっかくかたちにしたものが崩れていく。それが「しくじる」ということなんですね。
 さて、聖書の「しくじり先生」と言えば誰でしょうか。おそらく、だれもが納得する「しくじり先生」が、今日取り上げたお話しに登場するペテロだと私は思います。ペテロほど、多くのしくじったエピソードが紹介されている人は、聖書全体を見渡しても他にはいないなぁと私は思います。今日は、ガラテヤ人への手紙にあるペテロの「しくじり」からともにみことばに聴いていきたいと思います。
 
2.アンテオケで
 もう一度、ガラテヤ人への手紙2章11節をお読みいたします。
「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。」
 ここで言われているケパは皆さんもご存知の通り使徒ペテロのことです。使徒
ペテロはキリストの弟子という立場においてはパウロの先輩です。パウロがイエス様を信じたときも、パウロはまずペテロのところに来て15日間いっしょに過ごしました。それはパウロも、ペテロをイエス様の弟子仲間の先輩として認め、重んじていたからです。そこで、おそらくペテロから直接、イエス様ご自身のことやその語られた言葉を聞いたり、学んだりしたと思われます。
 そのペテロがアンテオケ教会に来た時の出来事です。アンテオケ教会は、使徒の働き11章によると、ステパノの殉教から起こった迫害によって散らされたクリスチャンたちが、散らされながらもイエス様のことを宣べ伝えた結果生まれた教会であるということがわかります。その教会としての特徴はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいっしょに集まっていたということです。バルナバパウロがその設立に関わっていました。ところが、このアンテオケ教会で事件が起こりました。パウロがペテロに抗議したというのです。それはペテロに非難すべきことがあったからだとパウロは言っています。
 それがどういう状況だったかが12~13節に記されています。
「 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。」
 ペテロがアンテオケ教会に来た時、ペテロは異邦人と同じテーブルについて一
緒に食事をしていました。ところが、ヤコブ(つまり主の兄弟ヤコブ)が牧会しているエルサレム教会から、ある人たちが来ると、その割礼派の人たちのことを恐れて、ペテロは異邦人たちから徐々に離れていったというのです。
 ここに割礼派という人たちが登場しますが、これはユダヤの律法に厳格なクリ
スチャンのことです。使徒の働き15章1節の言葉を借りれば「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた人々だと言うことができます。もともとユダヤ教徒であったので、基本的にユダヤ人として割礼を受けているし、モーセの律法も守って生活することを常識としていました。それは、基本的にはペテロもパウロも同じです。でも、割礼派の人たちは、異邦人がいくらイエス様を信じたと言っても、割礼を受けていなければ同じ食卓を囲むことができないとしていたのです。そういう彼らをペテロが恐れたとパウロは言っています。
 私が救われた教会でのことをお話ししたいと思います。もう30年以上も前の
ことです。その教会で特別伝道集会をすることになり新潟から同じグループの教会の先生をお招きすることになりました。私は非常に楽しみにしておりましたが、その先生はそのグループの中でも長老格で色々と厳しい方だという前情報がありました。たとえば、礼拝では男性は必ずスーツでなければならないとか、女性の髪形や服装、化粧に関しても、聖書の記述通りにしていなければ注意されるなどです。それで、特別伝道集会当日になり、私が教会に入ると、若干室内の変化を感じたのです。それは、カセットテープの棚から当時ゴスペルソングと言われていた、若者向けの賛美テープが全てなくなっていたのです。それはどうしてでしょうか。それは、その新潟の先生の目に触れないように、誰かが隠していたのです。それは、その教派の特徴かも知れないし、そういう時代だったのかも知れないですが、聖歌や讃美歌などの伝統的な曲以外は教会で歌う賛美歌として受け入れられていなかったからです。特に、ギターで賛美なんてNGです。そして、厳しいという噂の先生が来るのですから注意されることを恐れたか、そんなことで余計な神経を使うことを恐れたかであると思います。いずれにしても、今ではどうでも良い問題です。
 話を戻しますが、恐らく、ペテロもその割礼派の人たちとのゴタゴタを恐れて、
ユダヤ人としての慣習を優先させて、異邦人からはなれたのではないでしょうか。しかし、そのペテロの行動でアンテオケ教会は結果的に分裂したかたちとなりました。それは、割礼派と一緒の席にいるペテロたちユダヤ人クリスチャングループ。もう一つは、パウロと一緒の席にいる異邦人クリスチャンのグループです。
 パウロが、このペテロの行動を「偽った行動(つまり偽善者)」と断言したこ
とには、きわめて厳しいものがあります。「偽善」とは、もともと役者が仮面をかぶってお芝居するという意味です。だから、ペテロは、神様を観客席に置いてお芝居をしたという、本心を偽った行動をとってしまったということです。単に人間に対してではなく、神様に対してのごまかしであることが大きな問題です。
 この偽善をパウロは言い変えて14節でこう言います。
「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て…。」
 

 3.しくじりがもたらす影響
  パウロは、ほかのユダヤ人クリスチャンもペテロと同じ行動をとったのを見てペテロに抗議しました。
恐らくパウロは、だれかが先に抗議することを期待して待っていたのでしょう。しかし、他のユダヤ人クリスチャンたちも、みんながペテロ先生に右倣えしてしまったのです。特に13節の「バルナバまでも」というパウロのガッカリ感は半端ではありません。パウロの恩人であり、同労者として信頼していたバルナバまでもが、偽った行動に巻き込まれてしまったのです。
 ペテロのとった行動は、教会内に大変な影響を与えてしまいました。それは
当然です。ペテロは初代教会にとって大変重要な人物です。大先生です。その
人の言動は多くの人の心さえも動かす力があるものです。ここを見ると、教会
の中での牧師の言動も同じように影響力があるなあと思わされますね。
ここでパウロはペテロに対してこう言いました。14節後半です。
「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦
人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強
いるのですか。」
 私はパウロという人は、本当は謙遜であり、相手のことをいつも配慮してい
る信仰者であると思います。ある箇所では、「手紙だと重みがあるが、実際に
会ってみるとなっていない」と言われていますが、そう言われるくらい、パウ
ロは穏やかな印象の人だと、私は思います。またエペソ人への手紙4:29で、
パウロは、このように言っています。
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人
の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」
 パウロは、この言葉通りに、いつも相手の徳を建て上げるために役立つ言葉
を選んで語ることのできる人です。パウロの他の手紙を見ても、そのことは明
らかです。しかし、ここではどうしても、強く、はっきり言わなければならな
かったのです。その理由は同じ2章の5節~6節に書いてあります。
「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。」
それは福音の真理が保たれるためだということです。パウロは、そのためには
相手がペテロのような大先輩だとしても問題ではないという姿勢を貫いていたからです。しかも、影響力のあるペテロが偽った行動をしてしまったことには、あえて公然と抗議することが必要であるとパウロは判断したのです。
 それは、ペテロのしくじりは、まさに文字通り、せっかくイエス様が「為した
ことが崩れされる」危険があったからです。
 ペテロの安易な行動は、ただゴタゴタを生むことにとどまらず、異邦人クリス
チャンを虐げ、律法主義クリスチャンたちに誤解を与え、教会を分裂させ、何よりも主イエス様の完全な救いに泥を塗ることになったのです。
 ペテロが若い頃、他の弟子たちと夜中に舟に乗って湖を渡っていたときに、そ
の湖の上を歩いて来られるイエス様に出会いました。そこでペテロは驚きつつも、主よ、あなたでしたら、歩いてここまで来いと命じてくださいと言って、舟を出て湖の上を歩いてイエス様の方へ向かいました。しかしペテロは途中でどうなったでしょうか。ペテロは、そこで、イエス様ではなく、風を見て怖くなり沈みかけたのです。今日の箇所でもペテロはイエス様を見ていませんでした。イエス様ではなく人を見て恐れました。ペテロもやはり同じようなしくじり繰り返してしてしまう。でも、これが私たちの姿でもあるのです。
 
4.福音の真理のために
 ですから大切なことは、私たち一人一人が、福音の真理についてぶれずに、まっすぐ歩むことだと言うことがわかります。それがパウロのすべてのクリスチャンに対する願いでした。
 パウロの焦点はぶれていませんでした。その目は何を見てたでしょうか。それは、イエス様の十字架です。次の3章1節でパウロはこう言っています。
「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」
 パウロの目が捉え続けたものは、十字架につけられた主イエス・キリストでした。それは全てのクリスチャンにはっきり示された福音の真理です。そして、これはガラテヤ人だけでなく、福音の真理から外れてしまいやすい、すべてのクリスチャンに対するパウロの叫びです。
私たちの目はどこに注がれているでしょうか。本当に福音の真理にまっすぐ歩んでいるでしょうか。福音を純粋に信じて歩んでいるでしょうか。私たちが救われたのは、イエス様を信じたからです。もちろんその通りです。私たちは行いによらず信仰によって救われました。しかし、ただではありません。神の御子の犠牲の上に成り立っているという価値がそこにあるのです。パウロはこの手紙の冒頭から、1:4にあるように「キリストは…私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」と福音のど真ん中である、自分のためにいのちを捨ててくださったイエス様を捉え続けています。それが使徒パウロの視点であり、使徒パウロが願う、私たちが保つべき福音の真理なのです。
 
 私たち人間は自分の力では自分を罪の奴隷状態から救い出すことができませ
ん。だからキリストが私たちの罪も弱さも自ら背負われて十字架上で死んでくださり、三日目によみがえられることによって、私たちを罪の呪いから解放してくださったのです。その素晴らしい知らせが福音なのです。この素晴らしい喜びの知らせは、すべての人のためのものです。私たちはこの素晴らしい知らせに、何ものをも付け加えてはならないし、付け加えることはできません。それは、ただ主の恵みによって私たちに与えられるものだからです。
 新しい一週間が始まりました。今週も私たちのためにいのちを捨ててくださ
ったイエス様から目を離さずに、この福音の恵みに感謝しつつ、まっすぐに歩ませていただきましょう。
 
祈り