のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

葬儀

今日18日(月)は16時〜20時まで息子のための一般会葬、19日(火)は10時から近親者のみで告別式。

 

コロナ禍にあって、どのように息子がお世話になった方々に来ていただくかというところで考えられた新しい葬儀のかたちかも知れない。

 

コロナが広まってから、葬儀は家族葬が多くなり、実は全国的に見て廃業に追い込まれている葬儀社も多々あると聞く。

大きな葬儀場を持ち、大勢の社員を抱えているところは、維持費や人件費が半端ではないので、家族葬であれば、かなりの数をこなさないと経営が追い込まれるだろうと推察する。

 

話は横道に逸れたが、先程、「息子のための葬儀」と言ったが、実はその表現は、半分あっているが、半分間違っている。というのも、確かに死んだ人間のためと思って集まるように設定されるが、死んだ本人は、もうそこにはおらず、あるのは遺体であり、遺族だからである。

 

遺族もそうだが、死が悲しい理由の多くは、もう会えないという寂しさや、生前にもっとこうしてあげれば良かったという後悔があるからだと思う。それは、私もそうだからだ。そのようなことは、故人と親しくしてくださった多くの方々も同じだと思う。

 

だから、葬儀くらいは行って最後のお別れをし、弔いたい。または家族を失った遺族のため、少しでも慰めになればという労りの思いで集まるのではないだろうか。そういう意味では、葬儀は今生きている人の思い、心残りを何らかのかたちで果たしたいという願望を満たすことのためではないかと思う。

 

いずれにしても、死んだ人を葬ることは、決して間違ってはいない。ただし、それをあくまで死者のためではなく、その故人をつくり、いのちを与え、生まれさせ、一定の人生を支えられた神の栄光のために行わないと、故人への弔いが故人を拝んだり、呼びかけたりして神格化させ偶像化してしまう。

 

葬儀で大切なのは、故人への思いで満たされ続けることではなく、死というものをあらためて考え、なぜ死ぬのか。なぜ死を私たちは恐れるのか。なぜ長生きをしたがるのか。そのいのちの大切さ、また人生の意味について、その人の死を通して生きている人が、自分の生き方を顧みるときではないかと思う。

 

聖書にこうある。

"祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。
知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。"
伝道者の書 7章2~4節

悲しみを覚える時、人は考えさせられる。嬉しいときには気持ちが浮かれて、なかなか思えないことも、悲しみの中では深く考えさせられる。そのとき、実は神に出会うチャンスなのだ。そこで、神の存在を知り、神に生かされている事実に気づく時、生きている時から神と出会うこと、また神のために生きることがどれほど死を迎えるまでに大切なことかを覚えるのだ。

 

この度、息子の死を通して、そのことを身近に覚えたし、また学ばされた。結局のところ、全てが聞かされているとおりなのである。

 

"あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。"
伝道者の書 12章1節

"土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。"
伝道者の書 12章7節


"結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。"
伝道者の書 12章13~14節