のりさんのブログ

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説教題 「キリストの味方と、逆らう者」

聖書箇所 マタイの福音書12章24節~30節
 
 

 私が子どもの頃、エクソシストという映画が流行って、それ以降、様々な心霊現象を題材にした映画がどんどん出てくるようになりました。そこにノストラダムスの大予言なども流行って、オカルトブームと呼ばれていました。
 でも、このような心霊現象に対する興味は、歴史的に見てもどの時代にもあったようです。日本でも四谷怪談や牡丹灯籠、耳なし芳一の話は大変有名です。昔からみんな、このような幽霊話は好きなのです。でも、そのような曖昧な、悪い霊の話には興味を持っても、正しい霊的な存在である神様の話にはなかなか耳を貸そうとしないのが現状です。
 前回、22節で悪霊につかれた人をイエス様が癒してくださったところまで見てまいりました。その業を行うお方こそ真のキリストである。だから、それを見ていた群衆も、「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言って、神様の救いに近づいていたのでした。
 その悪霊を追い出すことは、まさにエクソシストです。エクソシストとは、単にオカルト映画のタイトルではなく、実際にカトリック教会にある悪霊祓いをする祈祷師のことです。
 今日の箇所は、このイエス様による悪霊祓いの出来事から起こった事件にスポットが当てられます。それは、悪霊が追い出されて、癒されたのはどのような力によって行われたのかという問いです。
 この場面から、悪霊、悪魔の存在や働きについて知り、それがどのように私たちに関わっているのかいっしょに考えていきたいと思います。
 
 
1.パリサイ人たちによる侮辱
 24節を読みます。
「これを聞いたパリサイ人は言った。『この人は、ただ悪霊どものかしらでベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。』」
 
 「これを聞いた」というのは、23節の群衆の言葉の事です。群衆がイエス様のことを「ダビデの子なのか」つまり救い主なのかと導かられていることにケチをつけたということです。それは、聖書の預言がイエス様によって成就したという理解を否定することでもありました。せっかく群衆が神様の救いに近づいているのに、それを妨害したのです。そのケチはイエス様のどんなところにつけられたのか、それが、どのような力で悪霊を追い出したのかということです。
 
 パリサイ人はこう言います。この人はダビデの子なのではない。それは悪霊の親分であるベルゼブルの力で悪霊を追い出しているだけなのだから。
 ベルゼブルというのは、同じマタイの福音書10:25でも触れましたが、悪魔の名前です。ベルというのは「バアル」という偶像の神の名前が短くなったかたちで、もともとの意味は「主」とか「主人」という意味です。それに「ゼブル」がくっついた言葉です。この「ゼブル」は家という意味ですので、直訳すると「家の主人」という意味になります。でも聖書の欄外注には、「あるいはベエゼブル、ベルゼブブ」とも書かれていて、これはそういう意味もあるということです。
 このベルゼブルとベルゼブブは一文字違いで意味がかなり変わってきます。ベルは同じですが、ゼブブとは「汚物」のことです。つまり「汚物の主」という、大変侮辱を込めた意味に変化します。ここでパリサイ人たちがどのような意味で「ベルゼブル」と言ったのかは明確にわかりませんが、イエス様の力を蔑んで「汚物の主」の力で、悪霊を追い出したのだと言ったとすると、神様に対して大変な侮辱であり心外な発言と言わねばなりません。
 イエス様も、25節を見ると「彼らの思いを知って」とあります。彼等の24節のことばには、その言葉以上の酷い意味が込められていたと言えるのではないでしょうか。イエス様は彼らの言った言葉をお聴きになっただけでなく、その言葉の裏にあった思いを知っておられたということです。彼等は、心の深い所で神様の御業を蔑み冒瀆したのです。それで結果的に、群衆がイエス様を信じて救われようとするのを妨害したと言えます。
 
 実は、これが悪魔の目的です。神様のなさろうとすることを妨害する。特に人間が神様に救われることを妨害します。それは、悪魔は既に負けが決まっているからです。よく神様の敵は悪魔だと言われることがありますが、神様にとって悪魔は敵ではありません。確かに敵対する存在ですが、全知全能の神様にとっては滅ぼすべき存在というだけです。もう悪魔は敗北しているのです。でも、悪魔は往生際が悪いので、最期まで神様を妨害し、一人でも多くの人間を自分の道ずれにしようとしているのです。
 これはへぼ将棋と同じだとある牧師が言っていました。へぼ将棋とは私がやる将棋のことです。王手と指すまでやり続けることです。でも藤井聡太四段ともなるとそこまでやりません。途中でやめます。なぜか、それはプロの棋士は王手迄やらなくても勝敗がわかるからです。でも私は最期まで王手と言われるまでささないとわかりません。それをへぼ将棋と言うのです。
 
 悪魔もそれと同じで、もう負けているのに動きまわっているのです。でも、あまく見てはなりません。私たち人間が自分の力でかなう相手ではないからです。滅びの道ずれにされないように気を付けなければなりません。悪魔は敵対する力ですが、必ずしもオカルトだけではありません。むしろ、もっと身近なところにいて、知らないうちに神様の救いから遠ざかるように働きます。このパリサイ人のような人を用いて、もっともそうなことを言って、神様に信頼しても空しいとか、意味がないと思わせます。それは色々な方法で来るので厄介なのです。
それはクリスチャンにも働きます。教会に来なくても一人で礼拝していれば大丈夫という人によく出会います。それは私も若い時に思っていたことでした。でも、それは間違いだったことにあとで気付かされました。それは言うなれば、自分は信仰がしっかりしているという高慢でした。また、集まって礼拝し教会を形成するという神様の御心を蔑んでいることだったからです。
 
 悪魔は私達に悪魔と同じ高慢の罪を犯させて、神様のみことばの前にへりくだることよりも、自分の思いを優先させるのです。でも、その誤りは明白です。それは、悪魔の論理は初めから破綻しているからです。悪魔に従っているものは必ず、その言動に矛盾が生まれるのです。その矛盾をイエス様も指摘しています。
 
 
2.神の国は来ている
 25節、26節。
「イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。『どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。』」
 イエス様はパリサイ人の論理の矛盾を突いています。悪霊が悪霊を追い出すということには大きな矛盾があると。それは内輪もめで、悪霊同士が仲たがいすれば、そのような集団は立ち行かない。悪霊は神に敵対するから悪霊なのに、悪霊を追い出す悪霊がいたとしたらそれは神様の味方になってしまい、もはや悪霊としては崩壊してしまうだろうということです。
 それでイエス様は、27節では「あなたがたの子ら」つまりパリサイ人の仲間で悪霊祓いをしている人のことを持ち出して、あなたがたの仲間の悪霊祓いの働きは、どのように説明するのかと言われたのです。
 
 ここで、イエス様はベルゼブルではなくサタンという悪魔の名前を使っていますが、どちらも悪魔の名前です。悪魔はひとりですが悪霊は大勢います。ちなみにサタンとは「逆らう者」という意味です。それがベルゼブルなどとも呼ばれる悪霊たちのかしらのことです。サタンは悪霊たちを従えて、神に敵対する霊的な存在として、四六時中休むことなく人間を誘惑するのです。
 
 しかしイエス様が行っている悪霊の追い出しは悪霊の力ではなく、18節のイザヤの預言で言われていた通り、神様の霊、すなわち御霊によって行っているのです。そうであるということは、神の国が来ていることの証しであるということです。28節。
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」
キリストが来られた。それは同時に神の国が到来した。神の支配がはじまったことを意味しています。
 それは、神の国の祝福と力が私たちの生活、人生、世界、その全領域までも及び、悪霊たちを束ねるサタンすらその手中にあるということです。もはや悪霊の働きはキリストを通して働かれる御霊によって、その親分であるサタンをいつでも縛ることができる状態に入ったことを意味しています。サタンを縛ればそれだけで悪霊の働きは終わるということです。
 将棋も、いくら駒を多く残していても王将を一個取られたら勝負はおしまいであるように、悪霊の親玉サタンを縛る権威をお持ちのお方が来られた以上、もうここでこの勝負はついたということです。ここで主なる神の前に、神が遣わしたメシアであるイエスの前に、悪魔の敗北が決定的になったのです。
 
 
3.キリストの味方か、逆らう者か
 ここでイエス様は、一つの立ち方、生き方を述べられます。30節。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」
 
 それはイエス様の「味方でない者」すなわちそれは「逆らう者」つまりサタンの側にいると。同じようにイエス様といっしょに、救われるべき魂のために労しない者も「散らす者」すなわちサタンの側にいるということです。神の側にいるということは集める者、集まる者です。教会に集めること、集まることは神の側にいる証しです。ですから、新型コロナで集まることに制限が必要だというのは、ある意味、「散らす者」の力が働いていると言えます。だからこそ、今、私達は神様の知恵によって、このようなときにもどうしたら集めることができるか祈り求めていく必要があります。
 
 同時に、ここでイエス様がおっしゃっているのは、イエス様の味方か、逆らう者かという問いでもあります。ここまでパリサイ人の24節の言葉から、悪魔の存在、その働きについて論じてきたが、あなたはどっちなのかということです。
 ここにはっきり言えるのは、中間の立場、どっちでもないという選択肢はないと言うことです。主イエスの味方でないならば、残り全員がサタンの側にいる。つまり、サタンと一緒に滅びる方に向かっているのだ。これは、とても厳粛なことです。それはサタンが目指している滅びへの道連れにまんまと乗ってしまっているということになります。サタンの側にいるという自覚があるかどうかでなく、キリストの味方であると、キリストを信じて洗礼を受けて、キリスト者として神に喜ばれる生き方を望んでいないならば、必然的にサタン側になるということです。
 
 サタンの常套手段は、信じていない人たちを益々頑なにすること。また信じている人をも脱落させようとすることです。そこに共通するのは神様への不信感であり、神以外のもので満足することです。
心のすき間を、神様ではなく、他の方法もあると思わせて、神様の救いを相対化させるのです。イエス様でなくても良いとか。神様ならばどんな神でも良いとか。または自由とか民主的にとか平和という言葉の中に、人間中心的な教えを盛り込んで、聖書の真理から遠ざけようともします。優先順位がいつも自分となり、自分の価値観、自分の好み、自分の方法、みんなそれぞれで良い。自由なのだから。いつも自分がバイブルですので、いくらでも基準の変更はOKです。「自分を信じる」ことが大事となり、もうそこには神様の基準やみことばの真理よりも、神様抜きの人生の謳歌が語られるのです。それがアダムとエバの子孫である証拠なのですが、そのアダムとエバの出来事すら神話だと言って本気にはしません。
 
しかし、もし私たちが主イエスを信じ、告白し、神様の望まれるように生きたいと願うならば、だれも私たちに敵対できません。それは神の味方であり、神があなたの味方だからです。悪魔すら、神の味方になった者を地獄の道連れにすることはできません。なぜならば、神の味方が罪に定められることはないからです。パウロは言いました。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」またこうも言っています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私達に敵対できるでしょう。」
 サタンは、主イエスを信じて主の味方として歩もうとしているあなたのことを、責め、その弱さをほじくり出して、おまえはダメだ。神の国に入るなんてふさわしくないとがっかりさせるようなことを思わせて、信仰生活から喜びを奪おうとしているかも知れない。また、逆に、自分は正しいということをことさらに思わせて、へりくだることを忘れさせてパリサイ人のようにならせようとしているかも知れません。
 
結び
 そこで、大切なことは、自分はいったい本当にイエス様の味方なのか、逆らう者、散らす者なのか吟味することです。その吟味の方法は、神があなたにどれだけの恵みを与えておられるのか、その恵みへの感謝が薄れているならば、もう一度、イエス様が、神に逆らうあなたの代わりに神に逆らう者となって十字架についてくださったことを覚えることです。その恵みに感謝して、あらためて主の味方にされた恵みを味わいましょう。私達が神の味方になれたのは、主イエスが神様の敵として十字架で処刑されたからです。
 今週も、逆らい散らす者ではなく、キリストの味方として、救われるべき魂を集める者、主のもとに連れてくるもの、そして私たち自身が集まる者として、立たされてまいりましょう。