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近世封建制初期日本のキリシタン群像

 

 近世封建制初期のキリシタンは、地域的には九州・山口と京都周辺に限られていたが、その社会層は封建領主、武士、医師及び僧侶などの知識人、農民・漁民と都市に流入した貧民など、広い層から構成されていた。このような社会的構成は、イエズス会によるキリスト教宣教により生じたものである。イエズス会の宣教師たちは一方では封建領主や知識層などと接触を計り、上からの布教を進めた。他方、地域住民や都市の貧民などに対しては、教育事業や社会福祉的な活動に取り組んだ。このような活動の結果、幅広い社会層から信者を獲得したのである。

 この項では、それぞれの社会層から信仰を生きた人々の生涯に着目する。

 

(1)封建領主

 ・高山右近

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 封建領主でキリスト信仰に生きた人物に高山右近(1552頃~1615)がいる。

 高山右近は、1552年頃に高山飛騨守の長男として摂津高山に生まれた。父の勧めで高山右近が洗礼を受けたのは1564年で、10歳くらいの時であった。その頃は武士に必要な武術を初め、幅広い教育を受けていたが、それらが質の高い教育であったことは、後に高山右近が文化人として活躍したことからわかる。しかし、その頃はキリスト教に強い関心は持っていなかった。

 キリスト教への姿勢が変わったのは高槻城主になった1573年頃である。1574年に第2布教長カブラルが高槻を訪ねている。その頃から高山右近は熱心にキリスト教を学び、家臣や領民に布教するようになっていった。織田信長の死後は豊臣秀吉に仕えたが、豊臣秀吉に仕える武将の中から高山右近の影響で洗礼を受ける者たちが起こった。それが小西行長(生年不詳~1600)、黒田孝高(1546~1604)、蒲生氏郷(1556~1595)などである。

 高山右近の身に急変が起こったのは、豊臣秀吉が九州を支配下に置き、博多で九州の知行割を行ったときである。キリスト教の棄教に応じなかった高山右近豊臣秀吉は改易処分にして追放した。1587年6月19日夜のことであった。一夜のうちに高山右近キリスト教信仰のために、領地も家臣も一切を失った。家臣たちも同様であった。

 高山右近はしばらく小西行長の領地であった小豆島にかくまわれ、小西行長が肥後に移るとそこへ行った。その後、高山右近が仕えたのは、金沢の前田利家(1538~1599)である。金沢では、家臣としても文化人としても活躍した。また、この地で初めてキリスト教も試みた。

 関ヶ原の戦い(1600年)を境に政権は、豊臣から徳川へ移った。徳川家康は1612年に幕臣から始めたキリスト教禁教政策を、1614年には全国へ広げ、その年に京都と大坂で激しい迫害を加えた。金沢にいた高山右近にも、追放令を出した。金沢を追放された高山右近と家族は、しばらくは近江の坂本に置かれ、そこから長崎へ追われ、長崎から更にフィリピンのマニラへ追放された。マニラで大歓迎を受けた高山右近は、間もなくしてその地で天命を全うしたのである。その葬儀はマニラを挙げて行われ、十日間にわたる盛大なものであった。

 高山右近にとってキリスト教は、よく分からない少年の日に父の勧めで洗礼を受けたに過ぎないものであったが、やがて大人になり、暗殺されかかって受けた大怪我の癒しを通して信仰が目覚めたと言われている。相手から受けた刀傷が、高山右近の首半分にまで達し、助からないと思われた中で奇蹟的に回復し、キリスト信仰へと益々傾倒したという。そのように自覚的な信仰者になってからは、積極的な信仰生活を送った。そして、一度は豊臣秀吉によって、二度目は徳川家康によって政治的思惑から一切を奪われ追放された。しかし、それは同時にキリスト信仰に生きることを意味したのであった。

 

(2)知識人

・曲直瀬道三の生涯

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 当時第一の名医と呼ばれた曲直瀬道三(1507~1594)は、有力な知識人キリシタンの一人であった。1507年に京都に生まれた曲直瀬道三は幼くして僧侶になり、1519年に京都の相国寺に入った。22歳の時には下野の足利学校に入って、儒教の教典である経書などを学んだ。

 曲直瀬道三の生涯に転機をもたらしたのは、田代三喜(1465~1544)との出会いである。明で学び、帰国して医療活動に従事していた田代三喜と会うと、曲直瀬道三は彼の下で医学を学びはじめた。1531年24歳の時である。10年余り医学を学んだ曲直瀬道三が京都に帰ったのは1545年であり、1546年に39歳で還俗した。それから、ひたすら医療活動に従事している。

 京都での医療活動は、高い評価を受け、将軍足利義輝細川勝元毛利元就からも信頼を受けた。曲直瀬道三が京都に開いた医学舎啓迪院は、多くの医療従事者を育てた。

 その頃、京都はイエズス会の布教の拠点の一つであったので、曲直瀬道三もキリスト教に触れる機会があったことは十分考えられる。そこに、宣教師フィゲレイド(1528~1597)が豊後府内で患い、曲直瀬道三の治療を受けるために京都に来、それがキリスト教と出会うきっかけとなった。曲直瀬道三は治療の傍ら、フィゲレイドから福音を聞き、その後1584年に77歳の曲直瀬道三は洗礼を受けた。その後、すでに隠居していたが門弟を率いてキリシタンの医療従事者として尽くしたと言われている。

 

(3)民衆

 封建領主や武士・知識人と違って、民衆でキリシタンになった人たちの名前や生涯は、ほとんど記録には残っていない。しかし、近世封建初期にキリシタンになった人たちの多くは民衆だった。

 民衆がキリスト教と出会った場の一つは、宣教師の医療活動であった。相次ぐ戦乱で財産などを失った農民は、京都や山口などの都市に集まったが、彼らを顧みる人はいなかった。傷つき病める彼らに治療を施したのは、キリシタン宣教師であった。その噂を聞くと、治療を受けるために多くの人が集まり、そこで彼らはキリスト信仰と出会ったのである。

 当時のカトリック教会にはミゼルコルディアやコンフラリアと呼ばれる組織があった。これらの組織は病人を訪問して世話をし、食べる物のない人たちに炊き出しを行った。その活動を支えるためにキリシタンたちは献金や献品を行い、直接、活動に参加するキリシタンもあった。そこでも、民衆はキリスト教と出会ったのである。民衆のキリスト教との出会いと受容には、封建領主や知識人とは違う側面があった。

 

(4)初期のキリシタン群像に見る特色

 この時期のキリシタンに認められる特色の一つは、社会構成のバランスである。キリスト教集団の中には、社会では区別された人たちの共同の場があった。キリシタンは、教会の中では社会の身分秩序をある程度は越えて、教会の秩序に従って交流した。

 キリスト教への改宗は、人格に宗教的変革をもたらした。この人格上の変革について、キリシタンの生き方から考えることができる。当時のイエズス会は、日本の封建体制を尊重したが、キリスト教に基づく生き方と封建体制には、なじまない一面があったことも事実である。

 またキリスト教キリシタンたちを新鮮な生き方へと導いた。それはキリスト教の持つ新しさだけではなく、ヨーロッパの未知で魅力ある文化との出会いからも来ていた。キリスト教はまた、キリシタンキリスト教への所属意識と共同体意識を与えた。キリスト教の可能性の一つは、ヨーロッパ世界との幅広い交流の媒介となることだった。

 このようにキリスト教には、日本の近世封建社会に新しい社会的価値や文化を育てる可能性があった。その可能性は色々な所に芽生えた。ところが、それらは十分育つことなく、確立期に権力によって踏みにじられたが、その原因はキリスト教の特色が確立期の権力者から警戒されたことにある。そのために徹底した反キリスト教政策が採られたことは既に見たとおりである。

 

👉話し合ってみよう。

 近世封建初期に、キリスト教信仰を受け入れた人が他にいないか。その生き方、特質について考えてみよう。

 

 

6.近世封建制確立期のキリシタン群像

(1)キリスト教の地域的広がり

 近世封建制初期に、キリスト教の分布は九州・山口と京都周辺に限られていた。この地域的限定を越えて、キリスト教が日本各地に広がったのは、近世封建制確立期当初であった。

 キリスト教が広がった理由の一つに、キリシタン大名キリスト教に好意的であった大名の国替えがある。キリシタン大名蒲生氏郷は、伊勢から会津に移り、キリスト教に好意的であった福島正則(1561~1624)は、尾張から広島に移った。彼らが移って行った地には、多くのキリシタンも移り住んだ。

 キリシタン追放も理由の一つである。豊臣秀吉に追放された高山右近が落ち着いたのは金沢だった。高山右近の追放は、北陸にキリスト教が伝えられるきっかけになった。東北や北海道に追放されたキリシタンも、追放された地域に宣教した。

 

 

(2)禁教と迫害

 ①バテレン追放令

 本能寺の変(1582)ののち、豊臣秀吉織田信長の政策を継承し、キリシタンの宣教活動についても認める姿勢をとった。しかし、1587(天正15)年に秀吉は突如、伴天連追放令を発した。定では、日本は神国でありキリシタン国から邪法が授けられることは好ましくないこと、宣教師たちの20日以内の国外追放を命じた内容を含み、覚では、領主による強制改宗を禁じた(領地に住む個人の信仰については自由)内容等を含むものであった。秀吉が追放令を発した背景として、キリシタン大名が教会に所領を寄進し、大名や武将らの入信と教会の団結力とが天下統一の妨げとなること、宣教師たちが国を奪い植民地化することについて疑念を抱いたこと等が挙げられる。

 ただ追放令に、イエズス会士の仲介が必須である南蛮貿易そのものに対する制約がなかったため、教会堂が破壊されるなどしたものの、その政策は徹底されなかった。多くの宣教師たちは20日以内の日本退去は不可能であるとして時期を遅らせ、定期的交代を偽装してキリシタン領主の各領地に潜伏、表立った活動は控えつつ宣教を継続した。秀吉も宣教師たちをそれ以上追及することをしなかった。追放令が記すところは宣教師の追放であり、厳密な意味での禁教そのものではないが、それはキリシタンに対する初の国家的規制となったのであった。

 

 ②サン・フェリペ号事件

 1593(文禄2)年、マニラ総督の使節としてフランシスコ会士ペドロ・バウティスタが日本へ派遣されたのを機に、その後、フランシスコ会士らによる宣教活動が始まった。それは1585年以来、日本宣教が教皇グレゴリウス13世によってイエズス会に限定され、先述したように同会が表立った宣教活動を自粛していた最中のことであり、イエズス会士らは事態を憂慮しはじめた。

 そのような時に、サン・フェリペ号事件が起こる。1596(慶長元)年、暴風雨のため土佐の浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が漂着し、積荷を没収されたことに船員が抗議したが、その発言内容を伝え聞いた秀吉は、スペインが日本征服を企てていると疑い、激怒し、1597年2月(慶長元年12月)に、フランシスコ会宣教師6人、日本人イエズス会士3人を含む26人が長崎の西坂で磔にされた。いわゆる「二十六聖人殉教事件」である。このような「為政者の迫害による多数のキリシタン殉教は初めてのことであった。

 なお、1600(慶長5)年にイエズス会以外の諸修道会に対してもポルトガル経由での日本渡航教皇クレメンス8世(在位1592~1605)によって認められ、1602(慶長7)年、ドミニコ会士やアウグスチノ会士も宣教のために来日した(1608年になって日本宣教に関する一切の制限は撤廃される)。またフランシスコ会士の活動も進展し、東北地方の宣教の結果の一つとして、奥州仙台の伊達政宗によって、1613(慶長18)年、支倉六右衛門長経(通称:常長)と同会士ルイス・ソテーロが、メキシコ貿易の開始と同会による司教区設置を図って、スペインに派遣された出来事を挙げることができる。

 

徳川幕府キリシタン政策

 関ヶ原の戦い(1600年)を境に政権は秀吉から徳川家康(在位1603~05)に移行した。家康はキリシタンの信仰については当初黙認する態度をとっていたが、家康の側近本多正純の家臣でキリシタンでもあった岡本大八と、キリシタン大名有馬晴信との間に生じた贈収賄事件である岡本大八事件(1612)を契機にキリシタン弾圧を開始する。禁教令は1612(慶長17)年に直轄領、旗本および有馬領に向けて発せられ、1614年2月(慶長18年12月)には全国に及ぶものとして伴天連追放之文(金地院崇伝が起草)が全国に発せられた。秀吉の時と違って、徹底した禁教政策を家康が採ることができた背景として、カトリック国のポルトガル・スペインに代わって、プロテスタント国のオランダ・イギリスとの間で、宣教活動を切り離したかたちでの貿易活動ができる見込みが立ったことが挙げられる。

このときオランダはスペインからの独立戦争の真っただ中にあり、宣教と切り離した外交により日本から高性能の火縄銃や甲冑等の武器、軍用具、また兵士(武者)も傭兵として輸出しており、天下統一を果たした家康による侍たちの新しい働き場所の確保としても、その役割を果たしていたと言える。他方、カトリック教会を背景としたスペイン・ポルトガルは、貿易と宣教をセットにしていたことが仇となって、時の権力者となった家康から退けられたのである。そこでスペインは家康に敵対する勢力として残った豊臣秀頼方に加勢したため、このオランダを背景に持つ徳川方とスペインを背景に持つ豊臣方の戦いの構図は大坂冬の陣、夏の陣まで続いた。

 

👉話し合ってみよう

 このとき、家康がオランダではなくスペインとの貿易を優先していたら、このあとの日本はどうなっていたのだろうか。徳川幕府によってこの後265年も続く平和な時代(パックス徳川)が訪れたが、日本人として、キリスト者として考えてみよう。

 

④迫害下のキリシタン

 キリシタンの殉教事件として代表的なものに、1619(元和5)年京都の大殉教(52人)、1622(元和8)年長崎西坂の元和の大殉教(55人)、1623(元和9)年江戸の大殉教がある。

 1600年代のはじめ、日本の総人口は2000万人と推定され、同時期のキリシタンの数は約40万人、そして1614年の大追放の時には約50万人と報告されているが、殉教者の数は少なく見積もって千数百人、記録に残らない者の数を含むと4万人にも上り得るという(研究者によって見解は異なる)。また拷問により、クリストファン・フェレイラのように、棄教して日本人名(沢野忠庵)を与えられた宣教師もおり、これをモチーフに遠藤周作の小説「沈黙」が書かれたことは有名である。

 1637(寛永14)年には島原天草一揆島原の乱)が生じ、翌年幕府によって鎮圧された。藩主から過酷な年貢取り立てが続いたため、天草四郎を首領とした総勢2万人以上の島原・天草の農民がキリシタンの教えを前面に出して一揆を起こし、1638年1月(寛永14年12月)原城跡に立て籠った(ただしキリシタンでない人たちも相当数含まれていた混成集団であった)。しかし、幕府軍による兵糧攻めを受けて疲弊し、約12万人の幕府軍の総攻撃によってついに城は陥落、寝返った絵師山田右衛門作を除く女性や子どもを含むほとんど全員が殺されたという(なお無抵抗でないため、一揆の犠牲者はカトリック教会からは殉教者と認められない)。今日、山田の証言は一揆側の籠城の様子を知る貴重な史料となっているほか、1992年から行われた原城跡の発掘調査では大量の人骨が出土しており、出来事の凄惨さを現代に伝えている。

これによって幕府は、キリシタンの反乱と言う一揆の側面を強調し、1639(寛永16)年にポルトガル商船の来航を禁止した。それ以降、中国、オランダ以外の国との国交を絶ち、いわゆる鎖国体制が確立した。また幕府は、キリシタン禁制の徹底化を進めるため宗門改を行い、訴人褒賞制(キリシタンを密告すれば賞金を与える制度)、五人組(キリシタン摘発を連帯責任として義務付)、踏絵・御影(キリスト像やマリア像等が使われた踏絵と同様の調査方法)、寺請制度(キリシタンでないことを檀那寺に証明させた制度)等を通してキリシタンの取り締まりを強化した。そうして生じた、キリシタン邪教であるというイメージは、やがて怪しげなものは何でも「切支丹」的なものとする観念を生み出だすに至った。また家と寺院が結びつく檀家(寺壇)制度は、明治後、法制的には廃止されるが(1871)、その風習は今日に至るまで続いている。このような状況下にあって新たに潜入を試みた宣教師らはいたものの、ほとんどが捕らえられ処刑された。1708(宝永5)年に潜入したイタリア人宣教師シドッチ(1668~1715)もまた捕らえられたが、儒学者・政治家の新井白石によって尋問され、その内容は「西洋紀聞」等に記されている。

 

潜伏キリシタン

 17世紀以降、このような激しい迫害があってもなお、各地に潜伏、密かに信仰を継承し続けた人々がいた。それが潜伏キリシタンである。司牧者が国内にいなくなったのちも、潜伏キリシタンの信仰を可能としたものの一つにコンフラリヤ(信心会。組または講を意味するポルトガル語)がある。これは信徒による牧会、宣教、信仰の維持を目的とした信徒組織である。また、マリア観音や納戸神を礼拝するなどして、彼らは信仰を何代にもわたって維持していった。しかし、密かに信仰を守りつつも、禁教下にあって度々潜伏キリシタンの存在が発覚し、弾圧される事件「崩れ」が全国各地で生じた。

 

●音吉

 1832(天保3)年、尾張国知多郡小野浦から尾張藩の江戸回米を積んで出港した宝順丸は遠州灘で遭難、14か月の漂流の後、北米のフラッタリー岬に漂着した。生存者は、乗組員14人のうち、岩松、久吉、音吉の3人だけであった。その後、ハドソン湾会社の船に救出され、後にロンドンからマカオの商務庁へ送られる。マカオでイギリス商務庁通訳官でありドイツ人宣教師でもあったギュツラフ(1803~1851)の保護を受ける間に、彼らは聖書の邦訳を助けることになる。ギュツラフは何とかして、まだ見ぬ日本の人々に聖書を自分の言葉で読んでもらいたいと日頃から願っていた。ギュツラフはその祈りが聞かれたと感じ、翌年3月、シンガポールにいたアメリカ聖書協会のブリガムに手紙を書いている。「これらの日本人に出会ったのは、千載一遇の好機である。」と説いて、費用を負担してくれるように求めている。その結果、アメリカ聖書協会は、年間72ドル支払ったと記録されている。翻訳は、1835年12月より始まり、翌年11月に完成した。この聖書は、現存する最初の日本語聖書として有名なギュツラフ訳の「ヨハネ伝」「ヨハネ書簡」である。1859(安政6)年、ヘボンがその聖書を持って、日本へ来るのは実に翻訳完成の23年後であり、開国後のことである。ギュツラフは、日本人の三人の漂流漁民(音吉、岩吉、久吉)を引き取り、日本語を学んだ。ヨハネによる福音書を翻訳した『約翰福音之伝』とヨハネ書簡3通を翻訳した『約翰上中下書』をシンガポールで出版した。これらは近代プロテスタントによる最初の日本語訳であり、断片を除けば現存最古の日本語訳聖書である。

 彼らは1837(天保8)年、モリソン号で日本に送還されることとなったが、浦賀・鹿児島の双方で砲撃を受け(モリソン号事件)、帰国はかなわず、3人とも異国で生涯を終えた。三浦綾子の小説「海嶺」(1981)はこの出来事を題材としていて、映画化もされた(1983)。

 

👉話し合ってみよう

 あなたがこの時代のキリシタンだったら、どのような行動をとっただろうか。

 

【参考文献】塩野和夫『日本キリスト教史を読む』(新教出版社、1997年)