のりさんのブログ

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異端運動

(1)背景
 ローマ教会の発展過程では、常に異端は出現する。しかし、格別、司教叙任権闘争ヴォルムス協約(1122年)で終わってから教皇庁の最盛期には特に異端の運動が盛んだった。それは、ローマ教会隆盛の基を開いた司教叙任権闘争が、他方では異端の根源を培ったのであり、フランチェスコとドミニコの托鉢修道会は、この異端に対する防波堤として生まれたものである。


 当時、温暖化と農業革命による大開墾と農業の発展、余剰作物によるヨーロッパ内の交易の発達と、十字軍による地中海貿易再開によって、富裕層が出現し、ヨーロッパ各地に都市が急増した。都市の領主である司教・大司教は大部分封建貴族の出身であり、封建貴族にとって位の高い聖職は一種の既得権だった。教会税というものがあったので、彼らは聖職を得ることによって都市からの税収を得ることができたのである。聖職にはこのように莫大な役得が伴っていたからこそ聖職売買(シモニア)が行われた。また、こうした封建貴族出身の聖職者たちは、妾を蓄えるのが常態であるというほどに規律が乱れていた。


 グレゴリウス7世による改革は、こうして世俗化・腐敗した教会を教皇のもとに再組織することをねらっていた。叙任権闘争は、この聖職の叙任権をめぐるものだった。
 グレゴリウス改革が刷新の方法として採用した方法の一つは、腐敗聖職者の執り行う秘蹟を無効とし、その受領を信徒に禁じることであった。これは改革導入にとって有効な方法であったが、ローマ教会の礼典の客観主義を危うくするものでもあった。礼典の有効性という事柄の本質から言えば、これはドナティスト論争にかかわることである。かつてローマ帝国時代、当局からの激しい迫害下に教会が置かれたとき、迫害の激しさゆえに裏切った(または棄教した)者が行った礼典は無効であるというのがドナティストの人効説(ex opere oprantis =なす者から)であった。その時代、アウグスティヌスは礼典はその執行者の品性や熱心によらずその事柄のゆえに有効であるという事効説(ex opere operato=なすわざから)を説いてこちらが正統とされた。礼典主観主義は異端であり、礼典客観主義が正統ということである。
 ところが、古代教会のような厳しい迫害下にあった時代とは、時代的文脈が全く異なる状況になったとき「腐敗司教がなす礼典は無効である」ということを教皇庁が主張せざるをえなくなった。つまり、教皇庁の主張が異端ドナティストの主観主義・倫理を強調する立場になっている。これは逆転現象である。


 教皇庁自身が「腐敗司教の礼典は無効である」といって、形よりも中身が大事であるということを主張することは、ローマ・カトリックが自らの権威によって与えた司教や司祭といった職務や肩書が必ずしも絶対ではないのだと認めることに他ならない。ここに福音の自由説教者や異端運動が出現する土壌ができたと言える。
 
 
 
(2)福音の自由説教者とカタリ派・ワルドー派→(1冊でわかるキリスト教史、p.77~p.78)
 11世紀になると農業の大躍進と地中海商業の再開にともなって、商工業がさかんになり、市民の力が大きくなる。都市の増殖に聖職者の供給が追いつかず、空白地帯ができる。また、十字軍の成功・失敗は都市住民を興奮の渦に陥れた。
 従来の農村に基盤を持ち、俗世からの逃避を基本とする修道院活動は、このように急増した都市住民たちを導くには不向きだった。そこに新しい福音の伝道者たちが出現する。彼らは、自発的な無所有、つまり財産の放棄と自由説教の実践をし、腐敗した司教たちを非難の的にした。こうなると教皇としては彼らを弾圧せざるをえなくなる。
 
① カタリ派ギリシア語:カタロスκαταρος=きよい、清浄な者の意)
 カタリ派は、12世紀半ばから南フランスとロンバルディアを中心にイギリス、スカンディナビアを除く全ヨーロッパに広がった異端運動である。彼らの厳しい禁欲生活とは、結婚制度を否定し、性行為によって生まれた獣の肉、ミルク、卵、チーズなどを忌避する。獣は性行為によって繁殖するが、魚類は性行為をともなわないで増えると考えたので魚類は食された。カトリック教会の職制とミサ・洗礼などの秘蹟を否定し、教会堂やその装飾は無意味なものであると断じた。そして、彼ら自身の手による単純なパン裂きの儀式を行う。カトリック教会は、カタリ派の教えはマニ教の影響を受けた二元論であると見た。
 まず、聖ベルナルドゥスが巡回説教をして正統教会を取り戻そうとする。また、カタリ派に対峙した主要な教皇はインノケンティウス三世で、彼はフランチェスコ会を異端対策に用いた。しかし、カタリ派の勢いは衰えず、1165年には公然とカタリ派の会議をひらき、絶対的二元論に立つ教義を採択し、アルビに加えていくつかの司教区まで開設した。こうして南フランスのランドックではカタリ派カトリックをしのぐ勢いとなった。13世紀にはワルドー派と混ざる。
 12世紀半ばになると、体制側はこれをマニ教的なものだとみて、これに古い帝国法による禁圧令を適用する。1179年に第3ラテラノ会議が開かれ、カタリ派・パタリ派・謙卑者、アルノルドゥス派、ワルドー派を異端として、回勅「壊滅せんがために」が発せられ、異端審問法廷が設置される。
 13世紀に入ると、1209年教皇庁はアルビ十字軍を発動させた。重装備のフランス正規軍は南フランスに派遣され、町々を落とした。住民たちはカトリック・異端の区別なく皆殺しにされた。軍司令官に対して、包囲した町の住民の処置を尋ねられた、ある司教が次のように言ったという。「皆殺しにせよ。神は正統信仰の持ち主をご存じであるから、死後はカトリック信徒は天国へ、カタリ派の異端どもは、どのみち地獄へ落ちる定めだ。」降伏しないカタリ派は、自ら進んで火中に身を投じた。
 
 
② ワルドー派
 ワルドー派は、完全な使徒の模倣者の団体であり、信仰も元来は正統的だったが、福音宣教の使命感があまりにも強く、福音書の口語訳をつくり、禁止されても自由説教をやめなかったので異端とされ弾圧された。
 1173年、リヨンの商人ピエール・ワルドーは使徒的清貧に生きることを志し、知り合いの聖職者に福音書を母国語プロヴァンス語に翻訳してもらい、そのとおりに生きることを決心する。妻と娘たちの生活費を渡すと、ザアカイのように、不正な高利貸しで得た巨利はこれを償い、残りの財産は全部貧者に施し、自らを「リヨンの貧者」と呼んで托鉢生活に入る。そういう生活をするうちに、少しずつ仲間が集まる。
 1179年、ワルドーはローマに行き、教皇アレクサンデル3世に謁見し、説教活動の許可を求めた。教皇使徒的生活に共感したが、肝心の説教活動の許可は所属教区の司教に従うべきことを命じた。しかし、司教もワルドーに説教活動を許さなかった。しかし、彼は、人に従うよりも神に従うべきであると考え、説教活動を止めなかった。ワルドーの信仰は正統信仰であったが、教会の権威を軽んじ秩序を脅かす者として異端とされる。1184年、異端禁圧令にはワルドーの名前も含まれる。結果的にワルドー派は反体制的な色彩を濃くすることになる。
 ワルドー派の特徴の一つは、清貧と純潔の生活を送っている男女は誰でも説教をする権威を持つとしたことである。信徒皆祭司というプロテスタントの先駆であるとも理解され、実際、宗教改革が始まると気脈を通じることになり、今はプロテスタントの一派としてイタリアに存在する。