のりさんのブログ

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近世の教会   1.ドイツの宗教改革

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 マルティン・ルター(1483~1546)は1483年ザクセンの鉱山町アイスレーベンに生まれ、坑夫あがりの父と信仰篤き母の厳格な家庭教育を受け、14歳のときマグデブルクラテン語学校に入学しているが、その家系は代々農民であった。ルター自らも「私は農民の子である。私の曽祖父も祖父も父も生粋の農民であった」と言っている。翌年アイゼナハのゲオルグ学校に移り1501年、エルフルト大学の教養課程に入学。のちに1505年5月父親の希望で法学部に進んだが、まもなく7月17日、突然父の反対を押し切ってエルフルトのアウグスティノ修道会の修道院に入った。その動機を明確にすることはできないが、1505年7月2日に経験した雷雨によりルターが「死」を直感し、魂の救いを求めた事情があるとも言われている。


 修道院に入ると、神学を深く研究し、頭脳明晰なルターはたちまち頭角をあらわし1507年4月に司祭に任ぜられ、翌年ヴィッテンベルクの修道院に移り、同時にヴィッテンべルク大学の講師となってアリストテレスの哲学をはじめ道徳哲学を講義した。1511年には更に修道院副院長となり、大学の教授の地位を得たが、修道士として修業をすればするほど、カトリックの教義に対して疑問と不安が増すばかりで魂の平安が得られなかった。1513年頃のある時、ローマ人への手紙1章17節の「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」という聖句に接して、突然霊感に打たれ、神の義は、カトリックの教えのような人をさばく義ではなく、信仰によって義としてくださるところのその神の義であることを悟ったのである。これはルターが修道院の塔にある自室での経験であったところから一般に「塔の発見」と呼んでいる。「塔の発見」こそ宗教改革者ルターの誕生であり、この「信仰による義」というパウロの教えこそ宗教改革の精神であった。


 その頃、教皇レオ十世(在位1513~1521)はローマの聖ペテロ大聖堂を建築する計画をたて、その資金を得るために贖宥符を発売することをマグデルブルク大司教アルブレヒトに委託したが、その販売に当たったのは修道士テッツェルであった。しかし、ザクセンの領主フリードリヒ三世は領内での販売を禁じたので、ルターの住んでいたヴィテンベルクには来なかったが、住民たちが領外に買いに出かけるのを見て、ルターは非常に残念に思った。


 1517年10月31日、ルターは贖宥符の無効について公開論争をする目的で「贖宥の効力を明らかにするための提題」95か条をラテン語でヴィッテンベルク城教会の門扉に貼付ちょうふ掲示けいじした。これが今日、世界のプロテスタント教会で記念されている「宗教改革記念日」である。しかし、この提題はラテン語であり、ドイツ国内の教会門扉に貼り付けたところで読める人はほとんどいなかった状況から、ヴィッテンベルク城教会の門扉に貼り付けたという話はルターの協力者であるメランヒトンによる創作であるとも言われている。


 ルターはただ大学の指導者や聖職者たちと論争するつもりであったが、まもなくそれはドイツ語に訳され、印刷されて全ドイツに流布された。これによりルターの考えに同調する人々が日を追って多くなっていった。


 1519年6月から7月にかけて教皇派の神学者ヨハン・フォン・エック(?~1524)とルターの間でライプツィヒにおいて激しい論争が行われ、ルターもこれによって窮地に追い込まれて考えを硬化し、教皇と決別せざるを得なくなり、宗教改革運動が展開されることとなった。翌1520年6月15日にはエックの要請により教書「破門威嚇書」が発せられた。これはルターの著作の中から41か条の箇所を引用して非難し、これを撤回しない限り破門するということを宣言したものである。


 この年ルターは、8月に「キリスト教的階級の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与うる書」、10月に「教会のバビロニア虜囚について」、11月に「キリスト者の自由について」などを書いているが、これを宗教改革の三大文献と言っている。ことに「キリスト者の自由について」はルターの根本思想を述べたもので、それはキリスト者の内的人間、すなわち霊に生きる人間は信仰によってのみ義とされるのであるから、この権威や秩序や善行などからは全く自由であるが、キリスト者の外的人間、すなわち肉に生きる人間はすべて僕となって愛の奉仕をすべきと説き、ルターの思想の根本である「信仰のみ」の内容を端的に表明したものであった。


 その年12月10日、ルターは彼を支持するヴィッテンベルク大学の学生や教授たちの前で「破門威嚇書」を燃え上がる薪の炎の中に投げ込んでしまった。そして翌1521年1月3日、ルターはカトリック教会から破門された。
 ルターの問題でドイツが揺れ動いていたさなかに皇帝となったハプスブルク家のカール五世(在位1519~1558)は当時フランスと北イタリアで紛争を続けており、また神聖ローマ帝国の統治のためにも教皇の支持を望んでいたのでルターの意志を撤回させ教皇の好意を得るため、1521年4月、ウォルムス帝国議会にルターを召喚した。


 ルターは4月3日にヴィッテンベルクを出発し、4月16日にウォルムスに到着し、翌日帝国議会の開かれている建物に入った。議場で審問官は机の上に積み重ねてあるルターの書物に対して、それがルターの書いたものであるかどうかただされ、ルターは自分の書物であることは認めた。しかし撤回することに対しては、一日の猶予を求めた。翌日同じ時刻に議場に入り、その中央に立ってこう答えた。
「私の良心は神の言葉にとらえられています。ですから私は何も撤回できません。また撤回しようとも思いません。なぜなら良心に反して行動することは安全でもなければ正しくもないからです。私はここに立っています。神よ助け給え。アーメン」


 議場は騒然となり、ルターは外に連れ出された。翌日皇帝は諸侯に諮問してルターを帝国追放にすることを決定し、正式には5月26日「ウォルムス勅令」として発令された。
 ルターはウォルムスからの帰路、行方不明になり殺されたという噂が広がったが、実際は彼を支持するザクセン公が騎士たちに依頼してルターを自領内のワルトブルク城に密かに匿い保護したのである。ここでの生活は10か月ほどであったが、その年の12月に秘密裏にヴィッテンベルクに帰り友人たちに会った後、ふたたびワルトブルク城に戻り、3か月間滞在中、以前から城内で続けていた新約聖書のドイツ語訳を完成し、1522年3月6日、ヴィッテンベルクに帰った。