のりさんのブログ

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◎ルターの神学の続き

(6)聖餐論:論争とその歴史的結果
 ルターは、キリストの十字架の犠牲の十全性から、聖餐に犠牲の意味を与えず(⇔ミサ)、逆に恵みを受ける場であることを強調した。聖餐のパンとぶどう酒についても、ローマ教会の実態変化説(化体説)を非合理と退け、しかし霊性受肉を表現しようとして、パンにキリストが現在すると説明し、協力者メランヒトンもキリストはパンと共におられると主張した(共在説)。スイスの改革者ツヴィングリはこれもなお非合理的と退け、パンとぶどう酒はキリストの体と血とを「意味する」象徴にすぎないとした(象徴説)。霊は、肉には存し得ないという二元論的考えに基づくこの理解は、人文主義者の中にも見られた。カルヴァンは「信仰においてキリストが霊的に臨在する」と表現した(臨在説)。


 ツヴィングリとの対立は歴史的に大きな結果を伴った。ヴォルムスの勅令更新の決議により宗教改革への圧力が決定的になると、ドイツとスイスの宗教改革者は同盟を結ぶため、神学上の一致を試みた。しかし聖餐論においてルターとツヴィングリは互いに譲らず、その結果、ドイツ、スイスの宗教改革の分裂が明らかになり、両者はその後、ルター派、改革派として異なる道を歩むことになった。
 
(7)奴隷意志論
 人文主義的な人間観とルターのそれとの相違が明確に表れたのが、人間の意志に関する論争である。エラスムスは「自由意志論」(1524)において、人間は神から自由意志を与えられているとし、救いにおけるその働きを肯定的に理解した。ルターは翌年「奴隷意志論」を著し、人間の意志は救いに対して不自由であると応じた。奴隷意志論は人間の根本的な罪と神からの一方的な救いを表現したものであるが、エラスムスとの議論で現れた一つの誇張表現と言えるだろう。
 
(8)政治権力について:二つの統治(二王国論)
 改革当初よりルターは、世俗権力への信頼をもっていた。ザクセン選帝侯フリードリヒ賢候は優れた領主であり、ルターの勤めるヴィッテンベルク大学を創立し、危機にあるルターに繰り返し理解と保護を与えた。彼の存在によりルターの改革は可能となり、ルターも領主たちに教会改革を期待した。一方、カールシュタットやミュンツァーなど急進的なグループが改革を破壊的な仕方で進め、混乱が生じると、ルターは秩序の必要性を主張し、世俗権力の意義を説いた(「この世の権威」1523)。このいわゆる二王国論において、ルターは霊的統治と世俗的統治を区別し、前者は内的敬虔を、後者は外的な平和を作るものとして、その任にあたる教会と政治権力はいずれも神的委任を受けたものとして、相互に協力すべきと唱えた。そしてこの世は神の国とは異なり、非キリスト教的であるから、剣による統治が必要であると唱え、世俗権力への服従の義務を説いた。農民戦争の際、ルターはこの理解に基づいて農民を批判し、世俗権力に農民への対処を求めた。政治権力へのこのような積極的評価は、20世紀ドイツにナチズムをもたらした思想的根源とされ、批判されることとなる。またルターはこの国教会的理解の下でユダヤ人批判を強めていった。
 
(9)ルター派神学の確立
 聖書学者であったルターは教義学を書かず、メランヒトンがルターの義認論を教理として体系化した。しかし人文主義出身のメランヒトンは神学的にルターとずれがあり、救いにおいて人間の意志が神の恵みと共働することを唱え、よい行いの必要性を主張した。聖餐論においても非合理的な解釈を否定し、共在説をとった。その結果、両者の神学的相違はルターの死後、「純正ルター派」と「フィリップ派」の対立をもたらし、論争を引き起こすことになる。しかしドイツの福音主義の分裂は当時の状況下では危険であったため、和解のための努力がなされ、「和協信条」(1577)によってルター派の基本的信仰理解が定められた。そこでは救いと良い行いについて中間的な立場がとられ、恵みの働きは罪人の反抗的意志を解放し、人間の意志は神の意志に支えられつつ共働すると表現された。また義認の結果、良い行いが必然的に生じることも言及している。その後、古代の信条や教理問答が集められて「一致信条書」(1580)が作成され、ルター派の正統的信仰として定められた。これは、聖書以上に教義学が重視される傾向をもたらし、17世紀に敬虔主義によりその教条化を批判されることになる。
 
2.スイスの宗教改革
 ドイツに始まった宗教改革は隣国スイスにも伝わった。しかしスイスの宗教改革は独自のあり方をとって始まり、やがてドイツの宗教改革から分かれていく。本章では最初に宗教改革を導入したチューリヒとツヴィングリを取り上げ、ついで世界的な影響力をもったジュネーヴカルヴァンカルヴァンの神学、そして改革派教会とカルヴィニズムに言及する。
 
(1)宗教改革の導入:ツヴィングリとチューリヒ
 16世紀はじめのスイスは13邦からなる同盟で、神聖ローマ帝国から事実上の独立を果たしたばかりであった(1499)。これによりスイスの国家意識が形成され、ドイツとは異なるものとしての自己意識が高められた。この時代状況の中で、スイス独自の宗教改革が展開することになる。


①中世末期のチューリヒ:市参事会と教会
 都市国家チューリヒは他の諸都市と同様、主権の確立のため教会を支配下に置くことに努めていた。すでに13世紀以来、市参事会は教会の権力と所有を制限し、宗教改革前夜には教会の重要な権限(教会税や結婚に関する裁判権、財政難や人事権)を獲得していた。さらに聖職者を都市の裁判権の下に置き、免税特権を廃止することも試みていた。そして都市の宗教生活の改善のため、市参事会自ら、聖職者の道徳的堕落や下級司祭の貧困の問題を解決しようとしていた。他方、教会改革の必要は教会内部でも唱えらえ、聖堂参事会は人文主義的な改革を導入すべく、ツヴィングリを大聖堂の司祭に任命した。これにより、チューリヒ宗教改革が始まる。


②ツヴィングリ
 フルドリヒ・ツヴィングリ(1484~1531)はトッゲンブルクの農家に生まれ、聖職者の叔父や修道士の兄弟を通じて教会と結びつきのある環境に育った。教育環境にも恵まれ、5歳で基礎教育をはじめた後、バーゼルやベルンで優れた人文主義者のもとにラテン語を学び、また音楽にも親しみ、その後ウィーン大学バーゼル大学で基礎学科を習得した。神学を半年学んだ頃に、祭司職を得、グラールス、アインジーデルンで任に当たった。若きツヴィングリは政治問題に関心を持ち、神のための戦争を肯定し、自らも従軍して戦場に赴くほどであった。しかし悲惨な戦場を経験した後は平和主義に転じ、神学の学びに集中する。この転向にはエラスムスとの個人的な出会いも影響していた。ツヴィングリはエラスムスの「ギリシア語聖書」の学びに取り組み、人文主義的、倫理的な聖書解釈を自らのものとした。その中で倫理的な教会改革が彼の課題となってゆく。
 このツヴィングリが聖堂参事会に期待され、大聖堂に着任する(1519)。当初の説教でツヴィングリは初代教会を道徳的な模範として示し、道徳的改善による改革を呼びかけた。しかしその後、聖書や教父、特にアウグスティヌスの学びを経て、彼はルター的宗教改革へ転換する。すなわち教会の伝統的権威(教義、教皇公会議)を否定し、教会の唯一の権威を聖書に認め、ここから聖人崇拝や煉獄への批判をはじめたのである。
 
宗教改革の始まり
 チューリヒ宗教改革は、ツヴィングリによるキリスト教的自由の提唱を受けて始まった。断食規則に対する自由を示そうと、印刷屋フロシャウアーの家でソーセージを食べる事件が起こり、市内には断食破りが広がり、混乱に陥った。ツヴィングリは責任者として「食の選択と自由について」を著し、食は救いの問題とは関係なく、聖書から一般的な食規制は引き出せない。よって断食を破ることは罪ではなく、むしろ福音の自由を練習すべきであると論じた。
 市参事会は公開討論会を開催し、ローマ教会に対する論争が始まる(1523)。ツヴィングリは「67箇条」を作成し、キリストに一致しない教会の制度や慣習(教皇ヒエラルキー制度、ミサ、良い行い、聖職者の独身制など)を退けた。討論の結果、市参事会はツヴィングリに軍配を上げ、宗教改革の導入を決定したのである。
 
④教会改革
 それに続く教会改革も市の政策として進められた。市参事会は聖書に基づいた説教を課し、聖像廃止を決定して、聖像や聖遺物、オルガンを撤去した。さらに修道院を廃止し、その財産をツヴィングリの助言に従って困窮者や病人の救済に用いた。彼は市参事会と共に教会規則を定め、新しい礼拝形式や教会制度を決定した。ミサを廃止し、聖餐を導入し、説教を中心とするドイツ語の礼拝を始めた。また福音主義の教職者教育のために大聖堂付属の教職者養成学校が作られ、聖書の釈義と講解が教授され、スイス・ドイツ語の聖書も出版された(チューリヒ聖書)。さらに教会裁判所に代わり都市の婚姻裁判所(翌年、道徳裁判所となる)が設置され、市参事会と教会が共同で道徳規律や教会規律の問題を扱った。これにより造反者は教会から破門され、市参事会に告訴され、刑罰を刑罰を受ける体制が整えられたのである。再洗礼派は、この体制のもとで追放され、処刑された。
 
⑤ツヴィングリの神学
・「教会」
 ツヴィングリは当初、市参事会(=政治権力)から独立した信仰共同体の形成を目指したが、市参事会の協力なしに改革を進めることの困難を知り、政治権力と結びついた教会のあり方を受け入れた。説教「神の国と神の義」では、人間の内面生活に関わる「神の義」を外面生活に関わる「人間の義」を区別し、人間の罪ゆえに」後者(=法)を要し、平和の確保のため刑罰権を伴う世俗権力が必要であることを強調した。
 
・「洗礼」
 この体制を基礎づけるため、さらに「洗礼論」が展開された。これはこの体制を批判する再洗礼派に向けられたもので、洗礼はキリスト教共同体への所属の公的証明であるとし、教会への所属と都市国家への所属を同一視する理解を示した。それゆえ幼児洗礼の拒否は都市共同体への忠誠の拒否をも意味し、市当局に追放の権利があるとした。
宗教改革の拡大、カトリックとの対立と戦争
 チューリヒ宗教改革が導入された翌年にカトリック側からの攻撃が始まり、1526年のバーデン討論の結果、スイス同盟はツヴィングリとチューリヒ宗教改革を異端とした。しかし、宗教改革は各地に広まり、1528年にベルン、翌年にバーゼル福音主義となる。これらの都市は軍事協力のために「キリスト教都市同盟」を結んでカトリック地域の「キリスト教連合」に対抗し、これが軍事対決へと発展した(第一カッベルの戦い)。その後の和議で現状維持が決定されるが、福音主義陣営はドイツ福音主義との軍事同盟を望み、マールブルク会談を持つが決裂に終わる。これによりドイツとの同盟の道が絶たれ、ツヴィングリは1531年の第2カッベルの戦いに自ら従軍し、市参事会員とともに命を落とした。大聖堂近くのツヴィングリの像は、彼のその姿勢を表わし、右手に聖書、左手に剣を持つ。
 
⑦「共同の信仰告白
 ドイツ福音主義との同盟が不可能となり、スイスの福音主義諸都市は自国内での結びつきを強化しようと、共同の信仰告白を作成した。諸都市の市参事会員と神学者が集まり、ツヴィングリの神学に基づいた「第1スイス信仰告白」(1536)を提出した。これによりローマ教会ともドイツ福音主義教会ルター派)とも対立するスイスの福音主義教会(のちの改革派)が形成されたのである。
 
(2)ジュネーヴ宗教改革カルヴァン
宗教改革の導入
 都市国家ジュネーヴは、長年、隣国サヴォワ公の支配下にあったが、1536年に政治的独立を果たし、その過程で宗教改革が導入された。すでに独立の戦いの中で宗教改革が伝えられ、ベルンから派遣された改革者ファレルが教会襲撃や聖像破壊を行い、カトリックとの対立が激化していった。その中で市参事会は討論会を開催し、その結果、ミサの一時停止を決定し、教会財産の没収をはじめた。聖職者は退去か追放、あるいは改宗を余儀なくされた。1536年5月に市民総会で宗教改革導入が正式に決定され、その翌月にカルヴァンがちょうど、ジュネーヴに立ち寄った。
 
カルヴァン
 ジャン・カルヴァンは(1509~1564)は、フランスのピカルディ地方ノワイヨンに生まれた。ノワイヨンは司教座聖堂所在地で、カルヴァンの父も教会参事会公証人や司教顧問会議書記を務めていた。その関係もあり、カルヴァンは貴族の子弟と共にパリ大学付属寮に学び、ここで近代教育の祖マチュラン・コルディエよりラテン語の教えを受け、優れた語学力の基礎を身に付けた。その後、基礎学科を習得し、専門の法学を学ぶべくオルレアンへ移る。ここで優れた人文主義法学者に出会い、大きな影響を受けた。彼らは、古典的法典(ローマ法)を中世の注解書を通さず、直接そのテキストに向かい、それを歴史的、言語的文脈の中で読み解き、さらに理論的に再構築し、現実問題に応用するという新しい試みを行っていた。この人文主義的な原点志向と解釈方法が、カルヴァンの聖書解釈の基礎となる。法学の学びを終えると、カルヴァンはパリへ戻り、人文主義者の道を歩むべく古典語(ヘブル語、ギリシア語)の学びを続けた。
 その2年後にカルヴァン人文主義的作品「セネカ『寛容論』注解」(1532)を著した。ストア哲学セネカが皇帝ネロに慈悲深くなるよう説いたのと同じく、宗教改革を弾圧するフランス国王に寛容を訴えたものである。しかし、この書は評価されず、その後、カルヴァンは「思いがけない回心」を体験し、宗教改革運動へと入っていく。フランスではフランソワ1世(在位1515~1547)による迫害が激しく、出版禁止令やルター派隠匿罪が出され、火刑が科せられていた。危険の中、カルヴァンは宣教活動を行い、1534年末にはスイスのバーゼルへ赴き、「キリスト教綱要」初版を出版した。
「クーシーの勅令」を機にカルヴァンはパリへ戻り、弟、妹とストラスブールへ向かう(1536年4月)。しかし戦争のために遠回りを余儀なくされ、ジュネーヴに立ち寄った。そこで改革者ファレルに協力を請われ、学究に集中したいと戸惑いながらもこれを受け入れ、改革を担うことになる。9月に聖書講義を開始し、古典語を教え、説教を行った。12月には牧師に任命されている。また新しい教会のあり方を定めるべく教会規則を作り、教会の問題は教会自身が(国家から独立して)担う体制を整え、さらには新しい「信仰告白」に全市民の署名を要求した。これに対し、教会支配からの自由を求める市当局と市民は反発し、カルヴァンとファレルはジュネーヴから追放された。
 カルヴァンストラスブールへ向かい、ここで執筆活動や講義を行い、この地の改革者ブツァーたちと交流をもった。その後、ジュネーヴでファレル派が力を得たことにより、再びジュネーヴへ招かれ、断りながらも最終的にこれに応じた。ジュネーヴに戻ったカルヴァンは改めて「教会規則」を作成して四職制(牧師、教師、長老、執事)を定め、また礼拝式文や教理問答を作成した。その傍らでカルヴァンは牧師として働き、「聖書注解」を著し、「キリスト教綱要」の改訂を重ねた。最もその後も、教会を支配しようとする市参事会との緊張関係は続き、カルヴァンジュネーヴの市民権を得たのは晩年である。その一方、カルヴァンは牧師として社会問題にも関り、社会的、経済的な困窮者への対処を市参事会へ求め、教会内でも執事による配慮の体制を整えた。また神学教育のためにアカデミーを設立し、ここに教会改革と神学を学ぼうとする人々がヨーロッパ各地から訪れた。これによりカルヴァンの改革と神学は世界に広がることになる。