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カルヴァンの神学〜ヤンセン主義

(3)カルヴァンの神学
 カルヴァンの神学は「キリスト教綱要」「聖書注解」「説教集」により知られる。なかでも「綱要」は、カルヴァンの代表作であり、宗教改革神学の優れた体系書である。聖書注解や説教の内容もその体系に合致し、彼の神学が聖書に基づき、現実と関わる中で徹底した論理的思考の下に展開されたことがうかがわれる。
 「綱要」は4部からなり、第1部は「創造主なる神の認識」、第2部は「贖い主なる神の認識」、第3部は聖霊により「キリストの恵みを受けるあり方」、第4部は「キリストとの交わりに導く外的手段」をテーマとする。この構成から「神論」がその中心にあるように見えるが、第1巻の冒頭にあるように、「神を知る知識」と「われわれを知る知識」とは結び合ったものとされ、人間についても多くが語られる。特に第3巻では恵みを受けた人間の「実り」、すなわち倫理が大きな位置を占めており、若き日に身に付けた人文主義的志向がうかがわれる。カルヴァンは神との関係で人がいかに生きるかを語り、その関連で社会や経済についても多くを論じた。
 
①創造 カルヴァンの神学は「創造論」をもって始まる。すなわち神は豊かな世界を創造され、その中にあって人間が神を知り、神に従い、豊かに生きることが本来の姿として示される。魂が神に従う人の知性は正しい判断力を持ち、意志は自由に善を選ぶという。この優れた本性をもつ人間に神は世界の主権を委ね、人は信仰においてそれに応え、働く。そして人は相互に交わり助け合い、経済生活においても相互に補完し、各自が充足されるものとなる。
 
②堕落 しかし人間は神の言葉に背き、神から離反し、「堕落」する。これが「罪」であり、人間の傲慢、自律として示される。この魂の堕落は優れた人間本性を破壊し、公正さを失わせ、たえず悪の行いを生み出すことをカルヴァンは示す。社会生活においては愛を失い、不和を生じ、経済生活においても富の独占により貧困が生じる。その結果、社会は不正や屈辱、暴動や反抗に満ち、悲惨な世界になるという。この人間の堕落は根本的、徹底的、普遍的であり、人が生きる可能性は外から与えられるしかないとする。
 
③回復 堕落した人間の「回復」は、キリストにおける神からの和解により生じることをカルヴァンは示す。神に対するキリストの完全な服従、とりわけその死において、人間の罪が赦され、神に受け入れられるという価なしの義認が与えられる。この福音を受け入れて、キリストに従う信仰が与えられ、人は回復を始めるのである。
 
④新生と聖化 神との和解は人間の生に変革をもたらすことをカルヴァンは示す。新生とは人間の生が神に立ち返ることであり、それは罪なる自身の「悔い改め」を意味する。これにより人はキリストの義と敬虔に従おうとし、ここから外的な行い(聖化)が生じる。もっとも「行い」は「悔い改めの実」にすぎず、強調されてはならないとカルヴァンは言う。魂の回復はさらに社会や経済生活の回復をも導き、それが「教会」においてはじめられる。キリストに「召された者の集まり」である教会で相互の交わりをもち、そこで人間の関係も回復され、経済的な交流により豊かさも回復される。
 
⑤規範と制度 しかしこの回復は終末論的に理解され、この世にあって回復は部分的にすぎず、それゆえ人は完全な回復を願いつつ「生涯にわたる悔い改めの修練」を行い、生きていくことが示される。そしてこの不完全性ゆえに規範の必要性が示され、「義と敬虔なる生き方の規範」を教え、励ますことが求められる(教会規律)。同時に社会の回復も不完全とされ、その存続のために制度(教会制度、政治権力)が必要とされる。「教会制度」は人間の弱さゆえの制度であり、信仰を支えるための「外的支え」以上のものではないことをカルヴァンは強調し、四職制を定めた。神の言葉を宣べ伝える牧師、神学教育を担う教師、教会訓練により信仰生活を監督する長老、信徒の社会生活を援助する執事である。牧師と長老は長老会を構成し、合議制をもって教会の問題にあたり、破門権をもって自律的に教会の問題を取り扱う。
牧師は会衆により選ばれ、長老と執事は信徒の中から選ばれ、いずれの教職も同格であるとした。また聖礼典についても同様に補助手段と理解された。一方、人間の外的生活に関わる「政治権力」も社会の秩序維持のために必要とされるが、そこでは回復された秩序を反映していくことが望まれ、神への愛と隣人愛に仕え、教会を保護するべきとした。この意味において政治権力は神の権威を与えられた神聖な職務とされ、服従の義務が説かれる。しかしそれが神の意志に従わなくなった時には抵抗を認めた。これらの制度をもって、教会問題の逸脱者は勧告を経て破門され、市参事会に告訴され、刑罰が科せられる制度が整えられた。この体制下で、予定説を批判したボルセックが追放され、三位一体論を否定したセルヴェトゥスが処刑されたのである。
 
⑥経済活動と予定説 堕落した人間の回復と回復された豊かな生を示そうとする神学は、この世の経済活動の評価につながり、富を賜物とし、労働を創造と摂理への参与とし、世俗の職業を召しにふさわしいものと理解した。また経済交流の観点から商業を評価し、生産活動のための利子も認めた。実際、ジュネーヴでは資本と技術を持つ宗教的亡命者により新しい産業(印刷業、織物業、時計製造業、宝石業)が発展した。またカルヴァンの神学に特徴的とされる予定説は「綱要」3巻の終わりに記されているにすぎず、カルヴァンの神学において中心的な意味を持たないと言うことができる。同時にそれは慰めの言葉であることに留意すべきである。
 
 
(4)改革派教会の形成、カルヴィニズムの展開
 「第1スイス信仰告白」以後、ジュネーヴなど西スイスの地域が福音主義に加わった。その一方、ドイツ福音主義との対立やシュマルカルデン戦争の生起、また、皇帝の態度が硬化する状況下で、スイス内の福音主義の一致が促進され「チューリヒ協定」(1549)が作成された。その内容はツヴィングリ派とカルヴァン派の聖餐論を一致させたもので、実体変化説や現在説、共在説を退け、象徴的理解を取りながら、信仰に基づいた受領を強調したものである。この協定は西スイスを含めたスイスの諸地域に受け入れられ、ここにおいてルター派との分裂が完成し、改革派が確立した。その後「第2スイス信仰告白」(1566)の作成により、一致はさらに強化された。もっともこれにより一つの教会が組織されたわけではなく、各地域が独自の信仰告白や教会規則を持ち、それぞれの展開を遂げたのである。
 一方、宗教的亡命者がジュネーヴカルヴァンの神学と改革を学び、それを祖国へ持ち帰ったことにより、その影響は世界的に広がった(カルヴィニズム)。フランスのユグノー、オランダの改革派、スコットランドの長老派、ドイツの改革派などである。イングランドのカルヴィニズム(長老派、会衆派、バプテスト派)は独自の展開を遂げてアメリカへも広がった。
 
3.宗教改革急進派
 ルター、ツヴィングリ、カルヴァンなど宗教改革主流派は政治権力と結びつき、体制的教会を形成した。これに対し、神秘主義人文主義の影響を受けて独自の神学を形成し、体制教会を批判し、排除されたグループがあった。
 その流れとしてミュンツァーと農民戦争があるが、既にドイツの宗教改革(2)p.128で取り上げているため、ここでは「再洗礼派」について学ぶ。
 
(1)再洗礼派(アナバプテスト)
 同様に体制的教会に異を唱えたのが、再洗礼派である。再洗礼派には多様なグループや神学があるが、もっとも早い時期に形を取ったのはスイス兄弟団であった。
 
①スイス兄弟団
 スイス兄弟団は、ツヴィングリの改革の同志コンラート・グレーベルとフェリックス・マンツを指導者として始まった。人文主義の教育を受けた彼らは、宗教改革の目的は聖書の初代教会を復興させることにあると理解した。したがって洗礼は悔い改めと回心を経てなされるべきとし、この洗礼に基づいた教会形成を求めたのである。
 これにより彼らは幼児洗礼を否定したが、幼児洗礼は国教会の存在を支えるものであったから、この主張は危険視された。チューリヒの市参事会は討論会で彼らの主張を退け、ツヴィングリの立場を承認した。その後、彼らは自ら洗礼を実施し、公的教会から離れて独自の信仰共同体の形成をはじめた。その後彼らの運動は拡大し、翌1526年には死刑命令が出された。グレーベルは逮捕後に死亡し、マンツもツヴィングリの指示により、大聖堂の前を流れるリマト川で処刑された。
 こうして指導者を失い、離散を余儀なくされるなか、再洗礼派の主張は先鋭化していった。彼らを迫害し排除する世俗権力と公的教会を否定し、両者が体現するこの世を否定する二元論を展開したのである。すなわち霊に従うキリスト者は肉なるこの世と対立し、そこから隔絶して生き、官職につかず、武器を持たず、この世から分かたれた教会の中で全き平和を生きることが唱えられた。この二元論はフッター派によって実現された。迫害を逃れてモラヴィアへ亡命したこのスイス再洗礼派は、領主たちの保護を受けて数百名からなる共同体を形成した。彼らは共同農場により共産的な生活を営み、教育や労働、信仰生活を共にして、神の国の実現をめざした。しかしその後の弾圧により東欧や北米へ逃れ、今日にいたっている。
 
聖霊主義的再洗礼派:ミュンスターの再洗礼派王国
 再洗礼派の中には、聖霊主義の影響を受け、急進的な活動を展開する集団もあった。中でも影響力をもったのが、メルキオール・ホフマン(1500?~1543)である。シュヴァーベン地方の出身で毛皮職人であったホフマンは、ローマ教会の聖職者主義やヒエラルキー制度を強く批判し、信徒説教者として改革運動に携わり、急進的な改革を進めていった。その急進性ゆえに追放の経験を繰り返すなか、聖霊主義や黙示文学的終末論に影響を受け、差し迫った終末を訴えるようになる。そして洗礼により神と一つになり霊的に完全とされた者が、キリストの再臨に備えてこの世を改革し、神の国を準備することを唱えた。ホフマンは逮捕されるが、彼の主張は支持者により広められ、ミュンスターにおける再洗礼派王国の建設へと至る。彼らは武力により市の支配権を掌握し、神の国の準備のために共産制を導入し、独裁政治を行った。しかし領主の弾圧により、王国は1年数か月で終わりを迎える。
 
メノナイト派
 オランダへ逃れたミュンスターの再洗礼派を再統合したのがメノ・シモンズ(1496?~1561)である。カトリックの司祭であった彼は、再洗礼派に刺激を受け、自らも聖書研究により幼児洗礼を否定した。その後、再洗礼派の虐殺を身近に経験してローマ教会を離れ、再洗礼派へ移る。メノも二元論的理解を持ち、悔い改めて回心し、新生したものからなる教会は、徹底した平和をもつ純粋な存在であり、罪なるこの世と区別されるものとした。そしてその純粋性の維持のため、教会規律によって厳格な訓練を行い、逸脱者は追放されるべきとした。
 メノはこの主張を文書で公にしたために異端として指名手配された。寛容な地を求めながら各地を旅し、活動を続けた。その結果、メノナイト派は拡大したが、やがて世俗との関係をめぐって分裂した。世俗との関係を否定するグループは17、18世紀にアメリカへ逃れ、独自の集落を形成するアーミッシュを生み出した。
 
4.カトリック改革
 宗教改革に打撃を受けたローマ教会は教会改革に着手した。教会内の問題を一掃し、紀律を正し、従来の教義を再確認して、ローマ教会の立て直しを図ったのである。それを推進したトリエント公会議失地回復のための対抗宗教改革の運動、さらに、それに対立するヤンセン主義を概観する。
 
(1)トリエント公会議
 ローマ教会の改革は中世末期にスペインやイタリアに見られ、16世紀前半には修道院の改革や設立、また信徒団体の設立やスコラ学の改革も試みられていた。しかし、宗教改革により揺らいだ基盤を立て直すことがドイツの諸侯と皇帝により求められ、教皇パウルス3世(在位1534~1549)がトリエント公会議(1545~1563)を招集した。当初は宗教改革の神学に対してカトリックの教義を確認することを目的としたが、皇帝側から教会全体の改革が求められ、これも並行して進められることになった。
 
①教義の確認
 宗教改革は三位一体論やキリスト論など古代の教義については対立しておらず、問題となったのは教義として定められていない中世の神学や慣習であった。なかでも議論を要したのは義認論や教会の権威の問題であった。
・義認論:宗教改革の契機となった義認論について、ローマ教会はトマス・アクィナスの神学に基づいた理解をカトリックの義認論として確定した。すなわち、義認は恵みのみにより与えられ、人間の自由意志によっては得られないが、義とされた者は自由意志により恵みに同意を与えて協力し、その功績により恵みを受けるとした。つまり自由意志により神の、より大きな恵みを得ることができるとし、人間が救いに寄与しうることを確認した。これにより、良い行いによって義認を受けるとする行為義認論を退ける一方、信仰のみによる義認を説く信仰義認論を異端とした。
・教会の権威:聖書のみをを教会の権威とする宗教改革の理解をローマ教会は異端とし、聖書と共に教会の伝承を重視することを確認した。さらに聖書はラテン語ウルガタ訳のみを正統とし、その改訂を決定した。また聖書と伝承の解釈は教導職に委ねるとした。
・新たな教義:中世の教会の慣習のうち、7つのサクラメント、実体変化説、ミサの犠牲性、煉獄や原罪が教義として定められ、また再確認された。
 
②教会改革
 中世末期のさまざまな弊害、とりわけ聖職者の道徳的堕落の問題は、司教権力の堕落に原因があるとされ、司教の職務や司教区の改革が行われた。すなわち司教は司教区に居住して教区を厳しく監督し、管区や教区の総会を定期的に開催し、巡察を行うことを義務付けた。また説教の義務を定め、質の高い司祭を育成するため各教区に神学校を設置し、霊的、学問的、実践的な訓練を行うことを要求した。さらに贖宥符の販売を廃止し、聖人や聖遺物の崇拝における迷信や利益追求を排除することが命じられた。
 公会議以後も諸改革が実施され、信仰告白を作成して全聖職者に課し、また教皇への服従が義務付けられた。さらに禁書目録の作成や政務日課書の改良、ミサ書の統一が行われた。そしてこの改革の実現のため、監督体制を設けた。
 これらの教義や改革は、20世紀にいたるまでローマ教会の性格を規定することになる。
 
(2)対抗宗教改革ヤンセン主義
 
イエズス会
 宗教改革により神聖ローマ帝国の約半分を失ったローマ教会は、福音主義を壊滅させ、その地を取り戻す活動を進めた。その先頭に立ったのが、イグナティウス・デ・ロヨラの設立したイエズス会である。スペインのバスク地方の出身で軍人であったロヨラは、戦争での負傷を機に禁欲的な信仰生活をはじめ、その後、パリで大学の友人と共に禁欲的兄弟団をつくる。これが教皇に承認され、清貧、純潔、従順の誓い、教皇への服従を課す修道会となる。イエズス会はローマ教会立て直しのため各地の伝道や学校設立に取り組み、南米や東洋に向けて海外伝道をはじめ、日本にも創立者の一人フランシスコ・ザビエルが訪れた。
 やがてイエズス会宗教改革を制圧するための戦いをはじめた。それにより、宗教改革は1570年代以降拡大を阻止され、未確立の地域では崩壊した。オーストリアバイエルンでは武力で福音主義が根絶され、ローマ教会の体制が復活した。17世紀になるとポーランドカトリックに復帰させ、フランスでは国王と結びついてナントの勅令を廃止させ、ユグノーを国外へ追いやった。彼らが目指したのはヨーロッパの教会的統一の再建であった。しかし神聖ローマ帝国内のローマ教会福音主義の対立はやがて諸国を巻き込む三十年戦争(1618~1648)へと発展し、ウェストファリア条約(1648)、によって統一の崩壊が決定的となった。
 
ヤンセン主義
 このイエズス会に対立するものとして現れたのがコルネリウスヤンセンヤンセン主義である。オランダ出身でイープル司教であったヤンセンは、アウグスティヌスの神学に深い影響を受け、著書「アウグスティヌス」(1640)で信仰のみによる義認を主張した。ルターの神学に重なる彼の理解はイエズス会から大きな反発を受け、死後、教皇により異端宣告がなされた。しかし、イエズス会に対する批判的な風潮を背景に、ヤンセン主義は中央ヨーロッパに広まり、異端宣告を受けながらも聖職者の間に浸透していった。ヤンセン主義は初代教会をあるべき教会の姿とし、教皇の首位権を否定して公会議主義を主張し、ヒエラルキー制度を批判した。