のりさんのブログ

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宗教改革

1-1.ドイツの宗教改革(2)
 ルターがワルトブルク城に隠れている間に宗教改革の火の手はドイツ全土にひろがり、騎士戦争や農民戦争などと結びついて大きな社会運動へ発展する。
 騎士戦争は1522年9月にライン地方の下層騎士たちが宗教改革の風潮に乗って社会的不満から起こしたもので、人文主義者のウルリヒ・フォン・フッテン(1488~1523)もルターに共鳴して騎士戦争を支持したが、下層騎士たちは必ずしもルターの思想を深く理解していたわけでもなく、翌年5月には鎮圧されてしまった。これに反して農民戦争は長い歴史の中で農民の心に蓄積されてきた経済的、政治的圧迫に対する不満に宗教的なものが結びついて爆発したもので、その導火線となったのはルターの「キリスト者の自由」であった。しかし農民たちが本当に望んでいたものは、社会的な自由であった。
 ドイツの農民たちは以前から散発的に各地で一揆を起こしていたが、ルターの改革運動に刺激されて1524年から25年にかけて広範囲にわたって勃発した。最初は1524年6月、西南ドイツのシュバルツワルトに起こった一揆は翌年シュワーベンに移り、やがて南ドイツに広がり、1525年3月にはシュワーベンの農民たちが中心となって「キリスト者兄弟団」を組織し、綱領「12か条」が掲げられた。ルターはこれを支持して諸侯たちに対し、農民の反乱は神の裁きとして農民の要求を考慮するよう勧告すると同時に農民に対しては武力蜂起を忠告して平和に和解させようと努めた。
 その後、一揆が北に広がっていくとトマス・ミュンツァー(1490頃~1525)の指導によって過激な様相を呈してきた。ミュンツァーはライプツィヒ大学で神学を修め、1520年頃からルターの改革運動に共鳴しているが、彼は下層社会の人々に同情し、キリスト者は地上の権力を倒して原始キリスト教の共産生活にしたがって神の国を建設すべきであるという理想をもって一揆を指導した。ミュンツァー指導のもとに農民たちが激化してくるとルターも一揆に対して批判的となり、政治活動と宗教活動の混同に反対し、諸侯たちにこれを弾圧するように勧告した。ミュンツァーたちは一時成功して1525年3月には市政を掌握したが、まもなく鎮圧され、数か月のうちに各地で農民は逮捕され数千人が処刑された。
 農民戦争がおさまると、1526年に皇帝カール5世はシュパイエルに帝国議会を召集し、今後は為政者たちが神と皇帝に対して責任を負うて処置することが決議されたが、それはカトリックルター派のいずれを選ぶかは彼らに一任されたことで、宗教問題は解決したかに思われた。しかし、1529年、第2回シュパイエル帝国議会が開かれ、多数派のカトリック派の諸侯たちは、前回の決議を無効であるとし、ルター派の弾圧が計られたため、ルター派の諸侯はこの決議に反対して抗議書を提出したので、以後、ルター派プロテスタント(Protestant 抗議者)と呼ばれるようになり、後年カルヴァン派その他すべてのカトリック以外の教派をプロテスタントと呼ぶようになった。この第2回シュパイエル帝国議会以後、ふたたび両派の対立が起ったことを憂い、皇帝カール5世は、両派の協調を計って1530年6月にアウグスブルク帝国議会を召集し両派の教義について討議を行い、メランヒトン(1497~1560)らルター派の学者によって作られた「アウグスブルク信仰告白」が承認されたが、それは教皇至上権、化体説などカトリックの教義に対してあえて否認も排撃もせず極めて妥協的なものであった。
 こうしたルター派の譲歩にもかかわらずカトリック派は高圧的であったので対立は激しくなり、カトリック派に立つ皇帝は武力に訴えんと計画をすすめたので、翌1531年12月、ルター派諸侯は「シュマルカルデン同盟」を結成して危機に対処することとなり、両派間の戦争は避けられない状態となった。1545年のトリエント総会議において妥協が計られたが、今度はルター派が拒否したため最後の局面をひかえ、翌1546年ついにカトリック派諸侯とルター派諸侯の間に「シュマルカルデン戦争」が勃発した。その年の2月18日、マルティン・ルターは生まれ故郷のアイスレーベンでその生涯を閉じたのである。
 シュマルカルデン戦争はルター派諸侯の間に内紛があって乱れ、カトリック側も戦意を失って平和が回復し1555年にアウグスブルク宗教和議が結ばれた。
 この和議の要旨は以下の通り。
カトリック派とルター派も認めるが選択権は領主にあって、住民は領主の信仰に従わねばならない。もし住民がそれを望まない場合は自分と同じ信仰の領主のところに移住してもよい。ただし従来カトリックを信奉していた領主がルター派に改宗するときはその地位を失う。また自由都市にあっては両派の共存を認める。」
 この和議ではドイツ国民個人の信仰の自由は承認されず、しかもカトリックの領主の改宗は事実上不可能で多くの問題が残された。
 ルター派はドイツからヨーロッパ各国に伝播されたが、そのおもなものは北欧の国々であった。デンマークでいち早く、1520年ごろに国王クリスチャン2世によってルター派の導入が計画されたが成功せず、その後、ハンス・タウセンによってルター派が伝えられた。タウセンは1523年ヴィッテンベルク大学において神学を修め、ルターの感化を受けて1525年に帰国して、コペンハーゲンを中心にルター派を広め、1530年には「43か条信仰告白」を作成しているが、国王クリスチャン3世も彼の影響でルター派に改宗し、1536年には国教とし、ルターの協力者ヨハンネス・ブーゲンハーゲンをドイツから招いて改革を進め、国王を首長とする教会制度を確立した。
 スウェーデン宗教改革は、ペトリ兄弟によって行われた。ペトリ兄弟はヴィッテンベルク大学においてルターの教えを受けて帰国し、早くも1520年頃から改革をはじめ、国王グスターヴ1世の協力を得、1527年から国教となり、教職者はすべて国王の任命によるものとした。
 ノルウェーは、1537年にデンマーク支配下に置かれたため、その宗教改革デンマークの手によって断行され、16世紀末には国教となった。
 
1-2.ルターの宗教改革による神学的展開
 ルターの神学は、ローマ教会や、多様な支持勢力との議論を通じて、さらに展開していった。
 
(1)聖書の権威
 ローマ教会にて元来、聖書は教理の源泉とされていた。しかし中世末期においては「伝承(=伝統的神学、教義)」が聖書と並ぶ啓示の源泉とされ、聖書の解釈は教皇の決定権に委ねられていた。ルターはローマとの論争でこの教皇の権威と対立する中、自らは「聖書の権威において」発言することを明確にし、教皇公会議も聖書の権威に従属すると主張した。教会の権威を聖書に求めるこの姿勢は、やがて「聖書のみ」「聖書主義」というプロテスタント教会の原則となっていく。
 
(2)聖職者の独身制、修道院制、結婚
 聖職者の独身制については第2ラテラノ公会議(1139)で定められたが、ルターはこれを人間の伝承に基づくものとして退け、結婚は各人の決断に委ねられるべきとした(「ドイツのキリスト者貴族」1520)。これにより多くの修道士や修道女は修道院を離れて、結婚した(「修道院大脱出」1521)。
 同様に修道誓願を立て修道士になることは功績とはならず、修道生活は特別な聖なる道ではなく、この世の職業と同じ召命に基づくとルターは理解した(「修道誓願について」1521)。もっともルターは修道院制そのものを否定する意図はなく、その教育的、社会的機能を評価していた。ルター自身20年間修道士であり、それをやめる決断は容易にはなしえなかったが、1524年に「心痛めて」修道服を脱ぎ、翌年に元修道女のカタリーナ・フォン・ボラと結婚した。のちにルターは結婚について、最も愛すべき神の賜物だと語っている。最終的にルターは、修道院生活を非キリスト教的なものと否定した。その理由は、修道士たちがキリストにではなく、自分の功績に頼っていると判断したからである。
 
(3)教会:全信徒祭司論、信仰者の共同体、礼拝改革
 ルターは全信徒祭司論により、キリスト者は信仰により同じ霊性をもつとし、ここからローマ教会の聖職主義者、ヒエラルキー制度を否定した。すなわち聖職者に特別な霊性を認め、人々に恵みを仲介する存在として、サクラメントの執行、司祭叙階、教理の決定、罪の赦しの宣言の権限をもつとする理解を退けたのである。
 この全信徒祭司論に基づき、新しい教会論が展開された。すなわち教会は、信仰者の共同体であり、会衆が教理を判定し、教師を招く権限をもつという会衆中心の教会論である(「キリスト者の集まり」1523)。この教会論に基づき、ルターは礼拝改革を行った。礼拝では聖書の言葉を通じて、罪人に神の恵みを告知することに重きが置かれ、その結果、説教に大きな役割が与えられることになった。また会衆の理解のために言葉はラテン語からドイツ語に変えられ、ドイツ語聖書が用いられた。会衆の賛美のためにドイツ語の「讃美歌集」が出版され、ルターも「神はわが砦」など、作詞作曲を手掛けた。このように、礼拝は犠牲を捧げる場ではなく、会衆が恵みを受ける場へと変えられたのである。さらに信徒や教職者の教育のために大小の教理問答がつくられ、また教会財政や困窮者の援助のために共同金庫が設けられ、会衆による教会維持の体制が整えられた。もっともルターは急進派との対立の中で、また教会制度の確立のために、次第に秩序の必要を主張し、全信徒祭司論や会衆中心の教会論は後退していく。
 
(4)見える教会の限界と教職制度
 「見える外的教会」は「真の霊的教会」と区別されるべきことをルターは唱えた。なぜならば、見える教会には現実として義人と罪人が含まれ、義人もなお罪人でもあるから、霊的教会はそのまま現実の教会に実現され得ないのである。しかし「見える教会」の中にキリストへの信仰があることによって、「霊的教会」はそこに実現されると理解した。
 ここから「見える教会」の存続には教会秩序が必要であり、教職制を含む教会制度が不可欠であるとルターは考えた。すなわち、牧師職を立て、説教と聖礼典の執行を通して神の言葉を宣教し、救いの約束を告知することが求められた。ルターは全信徒祭司論を唱えたが「職務」として宣教するのが牧師であり、そのため「内的召命」に加え、教会の「選任と招聘」を必要とするとした。「按手」はローマ教会の叙階のように受階者に特別な霊性を与えるものではなく、教会の職務への派遣と祝福の意味をもつとされた。牧師職は特別に崇高な存在ではなく、神の言葉に従属する福音告知の「仕え人」であると説いたのである。
 
(5)律法の意義
 ルターのヴァルトブルク滞在中にヴィッテンべルクの改革を主導したカールシュタットは、聖霊の働きを受けて律法の行為が成就されると説き、偶像禁止規定に基づき聖像を撤去することを義務として市の規制に定めた。これにより町に聖像破壊の混乱が引き起こされ(ヴィッテンベルク騒動、1522)、事態の収拾にルターは選帝侯より呼び戻された。ルターは、禁止されているのは聖像そのものではなく、崇拝することであるとし、律法の字義的解釈はキリスト教的自由を侵すとして、これを退けた。
 一方、反律法主義者アグリコラは、「律法」はキリストにより成就され、救いの道として意味がないと主張した。ルターはこれに対して、律法は義認へは導かないが、なお意味をもつとし、①罪を示し、②キリスト者の生活の指針を示し、③政治的統治の指針を示す機能を指摘した。これは後にメランヒトンにより「律法の三用法」とされ、ルター派神学の基礎となる。