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3. ザビエルの日本宣教

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(1)ザビエル書簡に見る日本宣教の決意
 日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier,1506~1552)の布教活動は、16世紀ヨーロッパの世界進出中における出来事だった。彼はどんな人物だったのだろうか。
 ザビエルはナヴァラの出身である。父は国王の信頼篤い宮廷顧問官、母は城主の娘だった。ところが、ナヴァラ王国はザビエルが9歳のときにスペインによって滅ぼされる。父親も王国に殉じて死亡。その後、母によって育てられたザビエルは1525年にパリにあった聖バルバラ学校に入学している。その後、1534年にロヨラ(Ignatius de Loyola,1491~1556)と共にイエズス会を創設する。
 ザビエルがポルトガルジョアン3世(1503~1557)の要請を受けて、インド布教に出帆したのは1541年である。ザビエルはインド各地にとどまらず、マレー半島インドネシア各地でも布教した。そして1547年にマラッカで鹿児島出身の日本人ヤジロウ(生年不詳~1551頃)と出会い、日本宣教を決意した。
 ザビエルの日本宣教の決意を知る上で参考になるのがアルーペ神父・井上郁二ゆうじ訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄』上巻・下巻である。その「ザビエル書簡」から、ザビエルが日本宣教を決意する経過を見てみよう。
 
1548年1月20日にコチンからローマの全会友に宛てた書簡に、初めて日本を知った時のことが記されている。以下の抜粋はその一部。
 
「私がまだマラッカにいるとき、ポルトガルの信頼すべき商人たちが、私に重大な報知をもたらした。それは大きな島々のことで、東方に発見されてから未だ日も浅く、名を日本諸島と呼ぶのだという。商人たちの意見によると、この島国は、インドの如何なる国々よりも、はるかに熱心にキリスト教を受け容れる見込みがあるという。なぜかと言えば、日本人は学ぶことの非常に好きな国民であって、これはインドの信者に見ることのできないものだという。」 (書簡17『ザビエル書簡』上265頁)
 
 ザビエルは日本のことを知ると、日本に関する情報収集を始め、自ら日本宣教の決意を固めた。その決意は、1549年1月12日にコチンからローマのイグナチオに宛てた書簡に記されている。
 
「それから、また日本についての詳しい報告も、私の手元に着いた。日本は、シナの直ぐ近くに横たわる島である。日本人は、みな不信者である。そこには回教徒もユデア人もいない。克己心が強く、神やその他の自然の事物について、非常に知識を求めている。イエズス会たる私たちが、その活動によって結ぶことのできる成果は、日本人の自力で培われていく希望がある。以上のような理由により、私は非常に深い慰めをもって、日本へ行くことを決意した。」(書簡20『ザビエル書簡』上311頁)
 
 日本宣教のためには莫大な費用を要したが、その費用をザビエルはポルトガルジョアン3世に求めている。その依頼が日本へ向かう途上の1549年6月20日にマラッカからジョアン3世に宛てた手紙に記されている。
 
「我らの主なる神に対する愛によって、私が陛下にお願い申し上げますことは、何卒陛下が、私どもに代わって、ペドロ・ダ・シルヴァ氏に、私たちの払うべき大いなる負債を償還して頂きたいことでございます。
 長官は、私たちの航海のため、必要なものを、すべて豊かにお与えになり、また日本に着いたとき、暫時の生活を支えるための費用のみでなく、ミサ聖祭を捧げる聖堂の建築費までも、心配してくださいました。すなわち長官は、マラッカにある最上等の種類の中から、更に精選せる胡椒を30バル(12000ポンド)もお与えくださったのです。その上、日本の国王が私たちを一層よく待遇してくださるように、国王に呈すべき多数の高価な贈物まで、整えてくださったのでございます。」(書簡24『ザビエル書簡』上343頁)
 
(2)ザビエル書簡に見る日本布教指針
 ザビエルは1549年8月15日に鹿児島に着いた。直ちに布教活動に着手しながら、鋭く日本人を観察し、日本布教の方策を検討した。ザビエルが観察した日本人、それと布教と貿易に対する考えについて見ていく。
 鹿児島から1549年11月5にゴアの会友に宛てた書簡に、日本人について多くのことが記されている。以下はその抜粋である。
 
「まず第一に、私たちが今までの接触によって知ることのできた限りにおいては、この国民は私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私にはどの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は、特別に強烈で、彼らに取っては名誉がすべてである。…私は今日まで旅した国において、それがキリスト教徒たると異教徒たるとを問わず、盗みに就いて、こんなに信用すべき国民を見たことがない。…私は一般の住民は、彼らが坊さんと呼ぶ僧侶よりは、悪習に染むこと少なく、理性に従うのを知った。坊さんは、自然が憎む罪を犯すことを好み、又それを自ら認め、否定しない。このような坊さんの罪は、周知のことであり、また広く行われる習慣になっている故、男女、老若の区別なく、皆これを別に異ともせず、今さら嫌悪する者もない。」「書簡27(『ザビエルの書簡』下、26頁・28頁)
 
 やはり鹿児島から1549年11月5日にゴアのゴメス神父に宛てた書簡に、布教と貿易について記している。次の抜粋はその一部分。
 
「どうか総督が、書簡と共に日本の国王に献ずることのできる高価ないくつかの品物を、日本へ来る神父たちに託するようにしていただきたい。それというのも、もし日本の国王が、我が聖なる信仰に帰依されるならば、ポルトガル王にとっては、物質的な利益も著しいものがあるであろうと、わが神において希望するからである。…私がこんなことを書くのは、インドにおける私の経験に徴してみて、何かこういう風な利益を得る見込みのない限り、ただ神の愛の故にのみ、神父を渡航せしめるための船を出してくれる者などは、ほとんどあるまいと考えるからである。すなわち、神父たちの渡航を引き受けたものは、同時にこの表に書いてある商品を持参して来るならば、莫大な金銀を得るであろう。それで神父たちも、最も好条件のもとに、皆から大切にされて渡航できるはずだ。」
 
(3)ザビエルの日本布教指針
 ザビエルが優れたキリスト教伝道者であったことは、インドと東南アジア、そして日本における宣教の足跡から明らかである。しかし、そこには彼の布教活動を規定した枠組みがあった。それは16世紀のインドから東南アジアにおけるポルトガルの勢力圏である。
 ザビエルのインドにおける布教活動の拠点ゴアは、ポルトガルの東方進出の拠点であり、東南アジアから東アジアへの布教活動の拠点マラッカは、やはりインドから東南アジアさらには東アジアへの進出を目指すポルトガルの拠点であった。ただし16世紀半ばの明や日本はポルトガルの貿易圏外だったので、日本布教によってザビエルはポルトガルの貿易圏を越えた活動を試みていたのである。その試みはポルトガル王の手厚い保護のもとにあった。
 それではザビエルの日本布教の指針は何だったのか。それは、まずザビエルには日本人を理解しようとする積極的な姿勢があった。日本人の理解においては、その道徳性を高く評価し、布教の可能性を認めた。また、自分も学習しながら日本語の習得を他の宣教師たちにも勧め、前向きで日本人への好意に満ちた姿勢には、時に他のキリスト教布教者に見られる高慢さは認められない。
 ザビエルは日本で二つの主要な目的を持っていた。一つは日本の国王に面会してキリスト教の許可を得ること。もう一つは日本の大学で討論して宗教界の状況を知ることである。これらの目的はザビエルの布教指針と関係している。それが、まず支配者の理解や許可を得て、それから布教を進めるという現実的な考えである。
 ザビエルの日本布教指針は、その後のカトリック教会による日本布教に大きな影響を与えた。また、ポルトガルの日本貿易に転機を与える契機にもなった。
 ザビエルが説いた福音は当初、天竺の教えと見なされたこともあったが、のちにキリシタンと呼ばれるようになる。キリシタンとは、ポルトガル語のChristao を日本流に発音したもので、ザビエルの渡来以降、明治初期に至るまでのカトリックキリスト教およびキリスト教徒を意味する歴史的呼称である。吉利支丹、切支丹、貴理師端などの当て字があるが、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉以後、その諱「吉」を避けて切支丹が一般化した(邪宗門としての印象を与えるために「鬼」「死」などの漢字の当て字が行われる場合もあった)。
 ザビエルは、キリスト教の神を当初「大日」という訳語を当てて使用したが、途中でそれが誤りであると気が付いて原語の「デウス」に変更するなど、その宣教活動は試行錯誤と困難の連続であった。ザビエルは日本で2年3か月間にわたる宣教に従事し、信者約700人が与えられたのち、中国宣教へと赴き、志半ばにして倒れる(1552)。日本滞在の期間は必ずしも長くはなかったが、日本宣教の先駆者として、教会用語の原語使用や現地文化への適応の方針を後進に示すなど、その働きは多大であったと言うことができよう。
 

 

参考文献

塩野和夫「日本キリスト教史を読む」(新教出版社、1997年)

土井健司監修「1冊でわかるキリスト教史」(日本キリスト教団出版局、2018年)