のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

6. 近世封建制確立期のキリシタン群像


(1)キリスト教の地域的広がり
 近世封建制初期に、キリスト教の分布は九州・山口と京都周辺に限られていた。この地域的限定を越えて、キリスト教が日本各地に広がったのは、近世封建制確立期当初であった。
 キリスト教が広がった理由の一つに、キリシタン大名キリスト教に好意的であった大名の国替えがある。キリシタン大名蒲生氏郷は、伊勢から会津に移り、キリスト教に好意的であった福島正則(1561~1624)は、尾張から広島に移った。彼らが移って行った地には、多くのキリシタンも移り住んだ。
 キリシタン追放も理由の一つである。豊臣秀吉に追放された高山右近が落ち着いたのは金沢だった。高山右近の追放は、北陸にキリスト教が伝えられるきっかけになった。東北や北海道に追放されたキリシタンも、追放された地域に宣教した。
 
 
(2)禁教と迫害
 ①バテレン追放令
 本能寺の変(1582)ののち、豊臣秀吉織田信長の政策を継承し、キリシタンの宣教活動についても認める姿勢をとった。しかし、1587(天正15)年に秀吉は突如、伴天連追放令を発した。定では、日本は神国でありキリシタン国から邪法が授けられることは好ましくないこと、宣教師たちの20日以内の国外追放を命じた内容を含み、覚では、領主による強制改宗を禁じた(領地に住む個人の信仰については自由)内容等を含むものであった。秀吉が追放令を発した背景として、キリシタン大名が教会に所領を寄進し、大名や武将らの入信と教会の団結力とが天下統一の妨げとなること、宣教師たちが国を奪い植民地化することについて疑念を抱いたこと等が挙げられる。
 ただ追放令に、イエズス会士の仲介が必須である南蛮貿易そのものに対する制約がなかったため、教会堂が破壊されるなどしたものの、その政策は徹底されなかった。多くの宣教師たちは20日以内の日本退去は不可能であるとして時期を遅らせ、定期的交代を偽装してキリシタン領主の各領地に潜伏、表立った活動は控えつつ宣教を継続した。秀吉も宣教師たちをそれ以上追及することをしなかった。追放令が記すところは宣教師の追放であり、厳密な意味での禁教そのものではないが、それはキリシタンに対する初の国家的規制となったのであった。
 
 ②サン・フェリペ号事件
 1593(文禄2)年、マニラ総督の使節としてフランシスコ会士ペドロ・バウティスタが日本へ派遣されたのを機に、その後、フランシスコ会士らによる宣教活動が始まった。それは1585年以来、日本宣教が教皇グレゴリウス13世によってイエズス会に限定され、先述したように同会が表立った宣教活動を自粛していた最中のことであり、イエズス会士らは事態を憂慮しはじめた。
 そのような時に、サン・フェリペ号事件が起こる。1596(慶長元)年、暴風雨のため土佐の浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が漂着し、積荷を没収されたことに船員が議したが、その発言内容を伝え聞いた秀吉は、スペインが日本征服を企てていると疑い、激怒し、1597年2月(慶長元年12月)に、フランシスコ会宣教師6人、日本人イエズス会士3人を含む26人が長崎の西坂で磔にされた。いわゆる「二十六聖人殉教事件」である。このような「為政者の迫害による多数のキリシタン殉教は初めてのことであった。
 なお、1600(慶長5)年にイエズス会以外の諸修道会に対してもポルトガル経由での日本渡航教皇クレメンス8世(在位1592~1605)によって認められ、1602(慶長7)年、ドミニコ会士やアウグスチノ会士も宣教のために来日した(1608年になって日本宣教に関する一切の制限は撤廃される)。またフランシスコ会士の活動も進展し、東北地方の宣教の結果の一つとして、奥州仙台の伊達政宗によって、1613(慶長18)年、支倉六右衛門長経(通称:常長)と同会士ルイス・ソテーロが、メキシコ貿易の開始と同会による司教区設置を図って、スペインに派遣された出来事を挙げることができる。
 
徳川幕府キリシタン政策
 関ヶ原の戦い(1600年)を境に政権は秀吉から徳川家康(在位1603~05)に移行した。家康はキリシタンの信仰については当初黙認する態度をとっていたが、家康の側近本多正純の家臣でキリシタンでもあった岡本大八と、キリシタン大名有馬晴信との間に生じた贈収賄事件である岡本大八事件(1612)を契機にキリシタン弾圧を開始する。禁教令は1612(慶長17)年に直轄領、旗本および有馬領に向けて発せられ、1614年2月(慶長18年12月)には全国に及ぶものとして伴天連追放之文(金地院崇伝が起草)が全国に発せられた。秀吉の時と違って、徹底した禁教政策を家康が採ることができた背景として、カトリック国のポルトガル・スペインに代わって、プロテスタント国のオランダ・イギリスとの間で、宣教活動を切り離したかたちでの貿易活動ができる見込みが立ったことが挙げられる。
このときオランダはスペインからの独立戦争の真っただ中にあり、宣教と切り離した外交により日本から高性能の火縄銃や甲冑等の武器、軍用具、また兵士(武者)も傭兵として輸出しており、天下統一を果たした家康による侍たちの新しい働き場所の確保としても、その役割を果たしていたと言える。他方、カトリック教会を背景としたスペイン・ポルトガルは、貿易と宣教をセットにしていたことが仇となって、時の権力者となった家康から退けられたのである。そこでスペインは家康に敵対する勢力として残った豊臣秀頼方に加勢したため、このオランダを背景に持つ徳川方とスペインを背景に持つ豊臣方の戦いの構図は大坂冬の陣、夏の陣まで続いた。
 
話し合ってみよう
 このとき、家康がオランダではなくスペインとの貿易を優先していたら、このあとの日本はどうなっていたのだろうか。徳川幕府によってこの後265年も続く平和な時代(パックス徳川)が訪れたが、日本人として、キリスト者として考えてみよう。
 
④迫害下のキリシタン
 キリシタンの殉教事件として代表的なものに、1619(元和5)年京都の大殉教(52人)、1622(元和8)年長崎西坂の元和の大殉教(55人)、1623(元和9)年江戸の大殉教がある。
 1600年代のはじめ、日本の総人口は2000万人と推定され、同時期のキリシタンの数は約40万人、そして1614年の大追放の時には約50万人と報告されているが、殉教者の数は少なく見積もって千数百人、記録に残らない者の数を含むと4万人にも上り得るという(研究者によって見解は異なる)。また拷問により、クリストファン・フェレイラのように、棄教して日本人名(沢野忠庵)を与えられた宣教師もおり、これをモチーフに遠藤周作の小説「沈黙」が書かれたことは有名である。
 1637(寛永14)年には島原天草一揆島原の乱)が生じ、翌年幕府によって鎮圧された。藩主から過酷な年貢取り立てが続いたため、天草四郎を首領とした総勢2万人以上の島原・天草の農民がキリシタンの教えを前面に出して一揆を起こし、1638年1月(寛永14年12月)原城跡に立て籠った(ただしキリシタンでない人たちも相当数含まれていた混成集団であった)。しかし、幕府軍による兵糧攻めを受けて疲弊し、約12万人の幕府軍の総攻撃によってついに城は陥落、寝返った絵師山田右衛門作を除く女性や子どもを含むほとんど全員が殺されたという(なお無抵抗でないため、一揆の犠牲者はカトリック教会からは殉教者と認められない)。今日、山田の証言は一揆側の籠城の様子を知る貴重な史料となっているほか、1992年から行われた原城跡の発掘調査では大量の人骨が出土しており、出来事の凄惨さを現代に伝えている。
 これによって幕府は、キリシタンの反乱と言う一揆の側面を強調し、1639(寛永16)年にポルトガル商船の来航を禁止した。それ以降、中国、オランダ以外の国との国交を絶ち、いわゆる鎖国体制が確立した。また幕府は、キリシタン禁制の徹底化を進めるため宗門改を行い、訴人褒賞制(キリシタンを密告すれば賞金を与える制度)、五人組(キリシタン摘発を連帯責任として義務付)、踏絵・御影(キリスト像やマリア像等が使われた踏絵と同様の調査方法)、寺請制度(キリシタンでないことを檀那寺に証明させた制度)等を通してキリシタンの取り締まりを強化した。そうして生じた、キリシタン邪教であるというイメージは、やがて怪しげなものは何でも「切支丹」的なものとする観念を生み出だすに至った。また家と寺院が結びつく檀家(寺壇)制度は、明治後、法制的には廃止されるが(1871)、その風習は今日に至るまで続いている。このような状況下にあって新たに潜入を試みた宣教師らはいたものの、ほとんどが捕らえられ処刑された。1708(宝永5)年に潜入したイタリア人宣教師シドッチ(1668~1715)もまた捕らえられたが、儒学者・政治家の新井白石によって尋問され、その内容は「西洋紀聞」等に記されている。
 
潜伏キリシタン
 17世紀以降、このような激しい迫害があってもなお、各地に潜伏、密かに信仰を継承し続けた人々がいた。それが潜伏キリシタンである。司牧者が国内にいなくなったのちも、潜伏キリシタンの信仰を可能としたものの一つにコンフラリヤ(信心会。組または講を意味するポルトガル語)がある。これは信徒による牧会、宣教、信仰の維持を目的とした信徒組織である。また、マリア観音や納戸神を礼拝するなどして、彼らは信仰を何代にもわたって維持していった。しかし、密かに信仰を守りつつも、禁教下にあって度々潜伏キリシタンの存在が発覚し、弾圧される事件「崩れ」が全国各地で生じた。
 
●音吉
 1832(天保3)年、尾張国知多郡小野浦から尾張藩の江戸回米を積んで出港した宝順丸は遠州灘で遭難、14か月の漂流の後、北米のフラッタリー岬に漂着した。生存者は、乗組員14人のうち、岩松、久吉、音吉の3人だけであった。その後、ハドソン湾会社の船に救出され、後にロンドンからマカオの商務庁へ送られる。マカオでイギリス商務庁通訳官でありドイツ人宣教師でもあったギュツラフ(1803~1851)の保護を受ける間に、彼らは聖書の邦訳を助けることになる。ギュツラフは何とかして、まだ見ぬ日本の人々に聖書を自分の言葉で読んでもらいたいと日頃から願っていた。ギュツラフはその祈りが聞かれたと感じ、翌年3月、シンガポールにいたアメリカ聖書協会のブリガムに手紙を書いている。「これらの日本人に出会ったのは、千載一遇の好機である。」と説いて、費用を負担してくれるように求めている。その結果、アメリカ聖書協会は、年間72ドル支払ったと記録されている。翻訳は、1835年12月より始まり、翌年11月に完成した。この聖書は、現存する最初の日本語聖書として有名なギュツラフ訳の「ヨハネ伝」「ヨハネ書簡」である。1859(安政6)年、ヘボンがその聖書を持って、日本へ来るのは実に翻訳完成の23年後であり、開国後のことである。ギュツラフは、日本人の三人の漂流漁民(音吉、岩吉、久吉)を引き取り、日本語を学んだ。ヨハネによる福音書を翻訳した『約翰福音之伝』とヨハネ書簡3通を翻訳した『約翰上中下書』をシンガポールで出版した。これらは近代プロテスタントによる最初の日本語訳であり、断片を除けば現存最古の日本語訳聖書である。
彼らは1837(天保8)年、モリソン号で日本に送還されることとなったが、浦賀・鹿児島の双方で砲撃を受け(モリソン号事件)、帰国はかなわず、3人とも異国で生涯を終えた。三浦綾子の小説「海嶺」(1981)はこの出来事を題材としていて、映画化もされた(1983)。
 
話し合ってみよう
 あなたがこの時代のキリシタンだったら、どのような行動をとっただろうか。

 

参考文献

塩野和夫「日本キリスト教史を読む」(新教出版社、1997年)

土井健司監修「1冊でわかるキリスト教史」(日本キリスト教団出版局、2018年)