のりさんのブログ

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第1章 プロテスタント教会の宣教


 
1.日本宣教の先駆的働き
 19世紀前半、信仰復興のうねりの中で数々の世界宣教団体が生まれた。その多くがアジア、アフリカを目指していた。このようなプロテスタント教会の世界宣教高揚の中で、長きにわたり閉ざされてきた日本は、多くの欧米クリスチャンの熱き祈りの対象であった。唯一、日本と交渉のあったのはオランダだけであり、インドネシアにおいて伝道を行っていた東インド会社も宣教は全く放棄し貿易だけを行っていた。
 
 日本への福音宣教を考えるとき、その先駆者としてK・ギュツラフの名を挙げることができる。彼は中国伝道においても大いに活躍した人物であり、同時に日本においても見過ごすことができない人物である。
 彼は1803年にドイツで生まれ、子どもの頃から信仰熱心であった。また向学心にも溢れ、国王の援助を受け、ベルリンの宣教師養成学校で学んだ。その後、ロンドン宣教会の宣教師となってタイで伝道した後、中国大陸に渡った。中国伝道の傍ら朝鮮、台湾、日本などにも関心を持ち、1832年から約1年間船旅をした。この旅の終りに日本本土を訪問することを願ったが、当時鎖国中の日本に入ることはできなかった。
 しかし、彼は1832年8月に琉球那覇港に入港し、そこで民衆や役人に漢訳聖書を配布した。また琉球国王に贈物とともに三冊の漢訳聖書を贈呈し、王、役人、民衆たちに配った聖書が読まれることとなった。これが日本におけるプロテスタント宣教の最初である。このとき琉球王国は、実質的に薩摩藩支配下にあり、キリスト教は禁教であったが、聖書の配布ができたことは大きな一歩であった。
 その後ギュツラフは、日本宣教への関りを継続し、日本人漂流民三人を引き取って、自宅で世話をしながら彼らから日本語を学んだ。そしてヨハネ福音書ヨハネの三つの書簡を日本語に翻訳し、1837年にシンガポールで出版した。これが、最初のプロテスタントによる日本語訳聖書である。
 神を「ゴクラク」としたり「いのちのパン」を「イノチノモチ」と訳したりしている。漂流民の中で最年少の音吉だけが、多少読み書きができたが彼らの宗教的知識は、通俗的な仏教の知識だけである。また漂流民たちが尾張地方の出身であったので、尾張の方言が混じっている。しかし、この翻訳は最初のプロテスタントによる和訳聖書として画期的なものであり、後に来日した宣教師たちの聖書翻訳に大きな刺激となった
 アヘン戦争で香港がイギリスの統治領となった頃、ギュツラフはイギリス植民地の最高責任者である香港総督の通訳官をしていた。彼は1845年に、香港総督に注目すべき上申書を出している。その内容は、アヘン戦争後、日本、朝鮮、シャム(タイ)、アンナン(ベトナム)のような中国の周辺にある国々がどう反応するか分析し、今後のイギリス外交を展望したものである。清王朝のような戦争による手段ではなく、平和的に条約を結び、外交関係を樹立できないだろうかという点が、彼の上申書の主旨である。彼は、この4か国のうち経済の発展をしている日本が一番その可能性が高いと考え、こう述べている。
アヘン戦争とその結果についても、江戸ではよく知られている。日本にとってアヘン戦争の記憶はいまだ新鮮であり、もし我々が努力をせずに時間ばかりを労すれば、彼らの記憶は忘れ去られ、意味を失う。…我々が軍を引き揚げる際に、以上の4か国へ平和的使節を送るべきである。軍人と軍艦は当地で調達できる。その際、日本へは蒸気船を1~2隻先行させるとよい。蒸気船は日本政府に対して我々の有している諸手段を認識させる最良の方法である。」
 この提案は、1853年のペリー提督による日本の開国に見られるように、アメリカの対日政策に反映されていった。
 結局、ギュツラフは1851年、日本の開国を見ずに47歳で召された。
 
 
2.日本本土への宣教師たちの来訪
(1)アメリカ聖公会の宣教師たち
 1859年5月、アメリカ聖公会のJ・リギンスが、日本における最初のプロテスタント宣教師として長崎に上陸した。しかし中国宣教で健康を害し、療養を兼ねての日本行きであり、やがて病気が再発し、9か月余りで帰国した。彼は滞日中に、漢文の聖書や文書等を配布した。
 1859年6月、同じく中国で宣教していたC.M.ウィリアムズが日本宣教師に任ぜられ、長崎に上陸した。彼はリギンスと協力して英学を教え、日本語を学んで来るべき日に備えた。その教え子に、前島密大隈重信らがいる。彼は後に大阪や東京で伝道し、日本聖公会創立者としての役割を担った。日本人の神学教育に早くから力を入れ、聖保羅学校(立教学院)、立教女学院、東京三一神学校を設立した。
 
(2)J・C・ヘボン(1815~1911)
 1859年10月、J・C・ヘボンアメリカ長老教会から来日した。彼は、プリンストン大学ラテン語ギリシャ語、ヘブル語を学び、このことが日本での辞書の編集や聖書翻訳に大いに役立った。その後、21歳のときにペンシルバニア大学で医学博士号を取得した。結婚後、中国で医療宣教を行ったが、夫人の病気で帰国し、ニューヨークで開業医として非常に成功していた。
 しかし彼の心の中には、まだ福音が伝えられていない国々の情熱が、ずっと燃えていた。そこで日本開国の知らせを聞き、44歳で長老教会のミッションに志願し、クララ夫人とともに来日したのであった。年老いた父と14歳の一人息子サムエルを残しての出発であった。弟に宛てた手紙の中で、息子との別離を次のように記している。
「これが私の遭遇する最初の別離であり、最も堪えがたい試練であります。ほとんど胸も避けんばかりの悲しみでありました。しかし、私は、主なる神を信じております。」
 このような犠牲を払って、ヘボン夫妻は神奈川の成仏寺に住んだ。来日時はまだキリスト教の宣教は禁じられていたので、彼はまず医療活動を行い、医者として活躍した。また早くから聖書の和訳を目指して、日本語を熱心に習得した。その過程で「和英語林集成」を出版した。これは和英・英和辞書で2万語が収録された。ここから発展したのが、ヘボン式ローマ字である。
 このように彼は、キリスト教宣教だけでなく、一般にも日本文化への貢献者として知られている。
 彼の日本宣教における功績は、聖書翻訳である。彼はS・R・ブラウンやD・グリーンらとともに、この働きに大きな力を注いだ。その聖書は、元訳聖書と呼ばれて高く評価された。まず新約聖書が1880年、旧約聖書が1887年にそれぞれ出版され、ヘボンだけがその両方の翻訳に携わった。
 さらに彼は、夫人とともにヘボン塾で日本の青年たちに英語を教えた。その中には大村益次郎がいる。このヘボン塾が後の明治学院であり、ヘボンは、その明治学院の初代総理となった。また横浜指路教会の創立にも尽力している。このように、彼は初期の日本キリスト教界において実に多岐にわたり、重要な役割を果たしている。日本通として知られるグリフィスは、このように評している。
「ペリーは日本の鎖国の門を開き、ハリスは日米通商の道を開き、ヘボンは日本人の心の戸を開いた。」
 
(3)S・R・ブラウン(1810年1880年
 同じころ、アメリカのオランダ改革教会から派遣された宣教師S・R・ブラウンがいる。彼の母フィベは「わずらわしき世をしばし逃れ」(讃美歌319番)等の讃美歌作者として知られる。彼女はハンナのように、我が子にサムエルと名づけて世界宣教に熱き思いをもって、そのためにささげたいと祈った。
 その祈りが彼を日本宣教へと押し出したのである。フィベも息子が日本のために福音の開拓者となることを心から喜び、天に召される間際までそのことを喜んでいたという。
 ブラウンは、イェール大学を卒業後、ニューヨークのユニオン神学校で神学を修めた。結婚後まもなく中国に宣教師として渡った。マカオ、香港でモリソン記念学校長として教育宣教に携わり、約8年働いたが夫人の病のため帰国し、教育者、牧師として働いた。彼がオランダ改革派教会のミッションに志願し日本に上陸したときには、すでに人生の半ばを過ぎた50歳であった。
 彼は中国同様、日本においても教育者として活躍し、日本人伝道者の育成にも心血を注いだ。その教え子の中から、植村正久、押川方義、井深梶之助、本多庸一等、日本の教会を背負う指導者たちが輩出された。
 彼が教えていたブラウン塾はヘボン塾と合流し、築地の一致神学校を経て、明治学院に発展した。先述のようにヘボンとともに聖書翻訳においても中心的な働きを果たした。
 
(4)G・F・フルベッキ(1830年~1898年)
 1830年にG・F・フルベッキはオランダで生まれ、信仰深い両親のもとで育ち、モラビア兄弟団の教会で洗礼を受けた。彼には語学の賜物があり、オランダ語、ドイツ語、英語、フランス語を自由に話せるようになった。青年時代に渡米し、コレラにかかって死ぬ目に会い、そこから献身に導かれた。ニューヨークのオーバン神学校で学んだ後、アメリカのオランダ改革派教会の宣教師として、1859年10月にブラウンとともに日本へ派遣された。彼は長崎に住み、十年そこで活躍した。自宅を開放し、その後済美館という学校で、士族の青年たちに英学を教えた。その教え子の中には、大隈重信副島種臣、岩倉友貞(岩倉具視の息子)等、明治政府で重要な役割を果たした人物がいた。1868年の手紙の中で、大隈と副島の二人に新約聖書の大部分とアメリ憲法のすべてを教えたことを記し、二人が新政府の一員として、キリスト禁教の高札撤去のため、そして帝国全体の信教の自由のために大いに働いてくれることを期待している。
 フルベッキは教え子たちとの関りもあって、明治政府から東京に招かれ、大学南校(東京帝国大学の前身)の教頭として迎えられた。なお長崎時代、1866年に佐賀藩家老村田若狭守とその弟綾部に洗礼を授けた。これは前年の矢野元隆に次ぐ、日本本土の二番目のプロテスタント受洗者であった。
 日本の福音宣教において、彼が果たした重要な役割は、キリシタン禁令の高札撤去に結びつく欧米使節団の派遣を提案し、立案したことであった。これが1871年の右大臣岩倉具視特命全権大使とする欧米使節団の派遣に結びつき、キリシタン禁制の高札撤去という、日本における福音宣教にとって歴史的成果に至るのである。
 その後、フルベッキは大学南校の教頭を辞めて、明治政府の外交に関する法律顧問という重責を与えられ、外交政策に対して大きな影響力を持った。1878年に公職を持した際、明治天皇から勲三等旭日章を授与された。外国人に対する異例の待遇である。
 晩年は本来の宣教師の働きに戻り、聖書翻訳、神学教育、伝道に励んだ。しかし、彼はオランダから渡米した際、オランダ国籍を失い、来日した時にはアメリカの市民権も取得していなかったため、ずっと無国籍状態だったのである。ところが、教え子である大隈らの尽力により、彼とその家族も日本人と同じ待遇で日本永住を認められた。1898年、日本で召され青山墓地に埋葬された。
 
 
 
 
 
 
3.宣教師たちの活動と生活
 これまで取り上げてきた宣教師たちに共通している要素としてあげられるのは、第一に、彼らはピューリタニズムに基づくすぐれた人格の持ち主であり、周囲の日本人の中には彼らの高潔な人格にひかれて入信する者も少なくなかった。ヘボンがあるとき一人の日本人青年を家僕として雇ったところ、2週間後に急に辞めることを申し出てきた。驚いて事情を聞くと、自分はある藩の武士であり、夷人の内情を探り、隙あらば斬り殺す心積もりであったという。しかしヘボンが非常に親切で、仁義道徳をわきまえており、殺すに忍びなくなったため、自分の考えが間違っていたことを認めて辞めて帰るということであった。
 第二には、彼らのうちのほとんどが中国伝道の経験を持っていたことである。そこでの教派乱立の反省を踏まえて、日本においては教派志向を控え、非常に協調的であった。1872年3月、日本最初のプロテスタント教会日本基督公会が横浜で誕生した。その半年後に日本在住の宣教師による最初の宣教師大会が横浜で開催された。この会議で聖書翻訳の分担やキリシタン禁制策への取り組みのほか、今後の日本での教会形成のあり方が議論され、次のような決議がなされた。
「それキリストの教会は、キリストに在りて一体たり。プロテスタント教徒間の諸派分立の如きは偶然の出来事にして、キリスト教徒の一致を妨げず。然れども既にキリスト教国に於いても尚これが為教会の一体たることを曖昧にするの嫌いあり。いわんや諸派分立の歴史を了解せざる異教国においてをや」
 このように日本においては、教派が分立する弊害を避け、今後設立する教会は「キリスト公会」という同一の名称や組織を用いることを提案している。
 そして、彼らは19世紀の信仰復興の波の中で日本にやって来ており、その信仰の特色は熱烈な福音主義であった。福音主義とは、ただ66巻の聖書のみを信仰と生活の唯一の基準とし、敬虔な生活を重んじるものである。
 禁教下での宣教師の具体的な活動や生活は以下のようにまとめられる。
 
(1)日本語の学習と聖書和訳の準備
 初期の宣教師たちがまず取り組んだのは、難解な日本語であった。日常生活を営むにも何よりも、将来の伝道や聖書翻訳に備えて、彼らは日本語の習得に全力を注いだ。そのためにも中国伝道で漢字に触れていたことが役に立った。辞書を編纂したヘボンでさえ日本語の難解さに苦言を呈していたほどである。
 1865年日本本土の日本人として初めてプロテスタントの洗礼を受けた矢野元隆は、ブラウンやバラの日本語教師であった。特に、バラの熱心な導きを受け、信仰に至った。その後、肺病にかかり、治る見込みがない中で受洗を申し出て、ヘボン立ち合いのもと、バラから病床洗礼を受け、1か月後に召された。
 
(2)英学の教授
 当時、明治政府は、鎖国での遅れを取り戻すため、富国強兵、脱亜入欧を目指し、急速な近代化政策を推し進めた。このような時勢を受け、官民問わず英学の導入が大いになされたのであった。このような風潮の中で、宣教師たちは英学の紹介者として各地で用いられた。横浜、長崎をはじめ彼らが居留している地はどこでも、英学を学ぼうとする青年たちで溢れた。
 このように宣教師たちは、彼らの身に着けていた西洋文明を大いに伝道に活用したのであった。彼らのはじめた私塾から、明治学院フェリス女学院等、今日まで続くミッションスクールとなっているものも多い。
 
(3)医療活動
 日本に派遣された宣教師ちの中には、医師の資格をもつものがおり、禁教下において病人の治療のために用いられた。
 J・ヘボンついては先述したように、医師としても多くの病人を治療した。当時は専門科に分かれているわけではないので、内科、外科、整形外科、眼科等、複合的な治療において幅広い医療活動で活躍したのである。
 1870年に腸チフスにかかって生死の境をさまよった福沢諭吉の命を救ったのがアメリカのオランダ改革派教会から派遣されたD・B・シモンズである。アメリカンボードから遣わされたJ・C・ベリーは、1872年に来日し、医療活動にとどまらず、監獄改良活動等、広く社会事業の分野でも活躍した。
 このように彼らは、キリスト教の伝道が厳禁されている中で、また認められるようになったあと尚も厳しい偏見の中にあって、西洋医学という強力な武器によって人々の必要の中に入り込み、キリスト教へと触れさせていった。それは病院設立、医学教育、社会福祉事業の先駆となっている。
 こうして初期の宣教師たちは、禁教下の偏見と迫害、そして官憲の看視の中で幾度となくいのちの危険にも晒されつつ、日本語を習得し教育、医療を通して日本人の中に入り込み、福音宣教とともに日本の近代化にも大きな貢献を果たしたのである。

 

【参考文献】

・中村敏「日本キリスト教宣教史」(いのちのことば社、2013年)
・塩野和夫「日本キリスト教史を読む」(新教出版社、1997年)