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第2章 最初のプロテスタント教会の設立と高札の撤去


1.日本基督公会の設立
 幕末から明治初期にかけ、キリスト教宣教は依然として禁止され、浦上信徒の流罪のような事件が起きていた。しかし、来日したプロテスタント宣教師たちの労苦が実を結び、次第に入信する者たちが起こされてきた。1859年の宣教師来日から、1872年の最初の教会設立までに、20名の日本人が洗礼を受けた。その半数が横浜と長崎で入信した士族出身者であった。そうした中で、アメリカン・ボードの宣教師D・グリーンに日本語を教えていた教師市川栄之助は、1871年、キリスト教禁令違反で神戸にて逮捕され、翌年獄死した。
 
 その翌年1872年3月10日、横浜で日本最初のプロテスタント教会「日本基督公会」が発足した。日本人信徒11名からなり、J・バラが仮牧師となった。これに先立ち、前年のクリスマスからこの年の第一週にかけて、横浜在住の宣教師や外国人信徒が「福音同盟会」の提唱する初週祈祷会を守っていた。
 この「福音同盟会」という団体は、1846年にロンドンで結成されたプロテスタント教会の国際的な連合機関である。この団体は正統信仰に立ち、今日の世界福音同盟の前身にあたる。福音同盟会が結成された背景としては、19世紀の信仰復興に伴う欧米のプロテスタント教会の教派を超えた一致・協力の気運の高まりがあった。加えてイギリスのオックスフォード運動やアメリカのユニテリアン主義の脅威に対する福音主義陣営の団結という要因もあった。
 
 横浜で持たれていた初週祈禱会では日本人の救いのために熱い祈りがささげられていたが、そこにバラ塾で学んでいた日本人青年たちが感化され、彼らによる日本語による祈祷会も持つようになった。この祈祷会はバラの指導の下、聖書の学びとともに、初代教会のように聖霊の注ぎを求める祈りであったことが、アメリカの教会に報告したフェリスの記録から明らかにされている。
 このような祈りの結実として日本基督公会が誕生した。仮牧師としてバラが立てられたのは、日本人牧師を招聘することを前提としたスタートであったことが伺える。事実、この後アメリカ留学中の新島襄を牧師に招くことを決議したが、招聘状が届かなったらしく、それは現実のものとはならなかった。
 また、このように一見、キリスト教が積極的に広められたように見えるが、当時はまだ禁教下にあり、最初の教会員11名の中に2名、仏教側からのスパイがいて、集会の様子が逐一報告されていた。しかも、その中の1名は執事にまで選ばれていた仁村守三であった。彼は本願寺の僧侶であり、後にまた住職に戻っている。しかし、もう一人のスパイ安藤劉太郎は、その後、関信三と名のり、1874年に回心し、日本における幼稚園教育の先駆者となった。彼らのスパイとしての報告は、現在、当時の日本教会史を知る上で第一級の史料となっている。
 日本基督公会の特色は以下のとおりである。
①公会主義、②熱烈かつ単純な福音主義、③士族中心の構成
 
(1)公会主義
 この教会に加わった人々は、特定の教派に地域名を冠した教会名ではなく「日本基督公会」という公同的な名前を選んだ。当時、公会は教会とほとんど同じ意味で用いられていたので、公会という言葉自体に特別な意味はない。しかし、この教会を構成した日本人信徒たちが、これをアメリカの特定ミッションの日本支部の教会ではなく、教派にこだわらない教会の形成を目指したことは間違いないだろう。また、彼らを指導した宣教師たちも、こうした方向付けを支持していた。
 1874年に改訂された公会条例の第二条例「公会の基礎」には、彼らは特定の教派には属さず、ただ聖書のみを標準として、キリストの教会を日本において建て上げることを目ざしたと記されているのである。
 このような公会主義、すなわち無教派主義はどこから来た発想なのだろうか。これまでの研究によれば、次のいくつかの要因が考えられる。
 
①士族を中心とする日本人信徒たちの持つ強いナショナリズム
②彼らは欧米の教派神学を知らず、また知る必要もほとんど感ぜず、ただ単純に聖書に従えばそれで十分と考えた。
③指導した宣教師たちが、教派乱立の弊害があった中国宣教の反省に立って、日本ではできる限り教派色を抑えた。
福音同盟会の教理基準を自分たちの信条としてそのまま採用していたことからわかるように、正統的プロテスタントによって広く受け入れられていた福音同盟会の広い視野が与えられっていたからであると伺える。
 
(2)熱烈かつ単純な福音主義
 初期の信徒たちは、熱心で、かつ単純な福音主義信仰に立っていた。この福音主義ということばを、聖書主義と置き換えることも可能であるし、リバイバリズムや敬虔主義にも近い言葉である。日本にやって来た初期の宣教師たちは、19世紀の信仰復興運動の波の中で世界宣教へと押し出された人々であり、このような信仰に基づいて日本の信徒たちを指導したのであった。
 佐藤敏夫の「日本のキリスト教と神学」によれば、エヴァンジェリカリズムは日本の教会に次のような歴史的特質を与えているとされる。
 
①教義や信条、礼拝儀式をやかましく言うより、生活や実践、体験を重んずるタイプのキリスト教である。その後の日本の教会史を見ていくと、伝統的に簡易信条が用いられている。
②倫理的清潔さである。初期の宣教師たちは、ピューリタニズム的な清潔な生き方を見せた。一夫一婦制の家族倫理、禁酒運動、廃娼運動にその証しが見られる。
③制度としてのキリスト教に対し、運動としてのキリスト教という性格を与えた。
 
 こうした信仰理解について、やはり福音同盟会の影響が決定的であったと考える。この福音同盟会自体が、欧米の信仰復興運動の中で生れたものであり、エヴァンジェリカリズムに立っていた。そして、この運動が、日本基督公会の信仰箇条に見られるように、その信仰理解、教会理解に対して強い影響を与えたのである。しかし、このような信仰の体質は、一面において脆さを合わせ持っていた。明治の中頃に自由主義神学流入した際、日本の教会は大きな混乱と動揺に陥ったのであった。また昭和期における日本基督教団の設立においても、その弱さを露呈している。
 
(3)士族中心の構成
 日本基督公会に典型的に見られるように、日本の初期の信徒層を構成したのは、多くが士族階層出身者であった。特に教職者となると、一層その傾向が強くなった。当時日本の全人口に占める士族層の割合は5パーセント程度にすぎなかったから、このことは注目すべきことである。これについては、当時の福音宣教のあり方を考えると、よく理解できよう。宣教師たちは初期のころ、キリスト教の伝道者としてよりは、西洋の近代文化の紹介者として、日本人に受け止められていた。彼らの周りに集まった者は、尚学心に燃える士族出身の青年が多かった。しかもその中でも、次に紹介するような、明治維新で没落した旧幕府出身者が目立っている。
 
 これらのことについては、キリスト者の歴史家山路愛山は、いつの時代にも青年が新しい宗教や思想を受け入れやすいものであることを指摘する。次に、その青年たちの境遇についても植村正久、本多庸一、井深梶之助、押川方義等、四人の代表的なキリスト者をあげ、彼らが明治維新において不遇であった幕府出身者であることを指摘している。ここにあげられた4人は、後に述べるようにすべて横浜バンド出身であった。それ以外に札幌バンドを代表する内村鑑三はやはり幕府方の高崎藩出身であった。また熊本バンドを生み出した熊本藩は一応新政府側についたが、薩摩・長州が主流を占めた維新政府の中では冷や飯組であった。
 
 このように、明治政府の下では立身出世の望みのなかった士族出身の青年たちが、英学を通してキリスト教に入り、ここに新生日本の土台となるべきものを見出したのであった。熊本バンド出身の小崎弘道も「日本における基督教の現在及将来」において、士族が多数を占めることを日本のキリスト教の特色としてあげている。そして「維新の革命によりて彼らはその生産と共にその常職を失い、爾来案ずるところなきが故にかく各種の新たなる感化と真理とに近づきやすいのである」と指摘している。
 
 さらに加えることは、宣教師たちがまだ日本語の聖書やキリスト教書がない段階で、中国から輸入した漢訳の聖書やキリスト教書を伝道や教育に用いたことである。当時こうしたものを理解できるのは、やはりインテリ層である士族階級であった。
結論的に言えば、宣教師たちが西洋文明を媒介にして伝道したことは、士族等これを受容する人々にとって、きわめて有効であった。しかし同時にこのことは、多くの国民に、キリスト教は西洋の宗教、インテリの宗教というイメージを後々まで植え付けていったのであった。
この日本のキリスト教受容の特色を、韓国と比べてみると、その違いが一層はっきりする。韓国の場合は、キリスト教は最初から一般大衆に入っていった。そうした宣教のあり方は、ネビウス方式を徹底して採用したからだと指摘されている。この方策の中心点は、上流階級よりは一般大衆、勤労階級を対象にして伝道すべきである、それから婦女子に対する伝道が非常に大事であり、家庭の主婦が後代の教育に重要な影響を与えるとされた。だから、梨花女子大学などの女性のためのミッションスクールが、韓国では非常に大きな影響力を及ぼしてきた。このように初めから、一般大衆に焦点を合わせた伝道を徹底して行ったわけである。その結果として韓国の教会は、日本の植民地支配が厳しくなっていく中で、国民と運命をともにしたのである。
 
2.キリスト教禁令の高札の撤去
 明治維新により新政府が樹立されても、キリスト教の禁制はそのまま受け継がれた。1868年3月の太政官布告には、引き続き信教の自由を否定する禁教令が書かれ、全国津々浦々に高札が立てられた。それを裏付けるように、明治政府は捕らえられていた浦上信徒を流罪の刑に処した。
 この高札に対し、外国の外交団から政府に激しい抗議がなされた。自分たちが信じているキリスト教を「邪宗門」として侮辱したと受け止められていたからである。明治政府は、慌てて高札の文面を直すことにした。しかし、それはキリスト教邪宗門とみなしたのではないとしただけで、キリスト教が従来通り厳禁であることは変わらなかった。
 
 キリスト教禁制の高札撤去は、日本内外のキリスト教徒の切なる祈りの課題であった。そうした中で1871年12月、右大臣岩倉具視特命全権大使とする、欧米使節団の一行が横浜を出発した。伊藤博文木戸孝允大久保利通山口尚芳を副使とし、随行員や欧米留学生を加えると総勢約百人の大外交団であった。すでに述べたように、宣教師で大学南校の教頭をしていたG・フルベッキが大隈重信に出した建白書によって実現したものだった。この一年10か月にわたる旅については、随行員であった久米邦武の「特命全権大使米欧回覧実記」全5巻に詳しく記されている。この使節団の目的は、幕末に結ばれた不平等条約の改訂期を控え、条約改正のための地ならしと欧米諸国の国情の視察にあった。国情の視察は、非常に実り多いものであった。しかし、条約改正をめぐる欧米諸国との交渉は、日本政府のとっているキリスト教敵視政策や条約改正についての技術的な不備もあって、失敗に終わった。
 
 一行はまずアメリカに渡り、1872年3月にアメリカ大統領グラントと会見した。グラントは一行が携えた明治天皇からの親書に応えて、アメリカが繫栄する理由は、外国と交際して貿易を盛んに行い、出版の自由を奪わず、信教の自由を認めたことにあることを強調した。すなわち、日本におけるキリスト教禁制を解くことを、暗に勧告したのであった。さらに国務長官フィッシュも、一行との会談の中で、日本政府が信教の自由を認めること、また改正される条約の中にそのような条項を盛り込むべきことを主張した。このように、アメリカをはじめとして、行く先々の国の政府との交渉において、明治政府のキリスト教敵視政策が条約改正反対の口実となり、交渉は難航を極めた。
 
 ここで注目すべきことは、岩倉使節団が日本を出発する前に、日本在住のプロテスタント宣教師たちが福音同盟会のロンドンの本部に手紙を送り、その手紙の中で日本政府によるキリスト教徒迫害の事実を伝えていることである。さらには、各国の福音同盟会の支部がそれぞれの国の政府を通して、予定されている日本の使節団に圧力を加えるよう要請していることである。
 
 
 
 1872年12月には、福音同盟会のエベリー会長が他の役員とともに、訪英中の岩倉使節団と会見した。その会見の中で、エベリーは自分たちが全世界に支部を持つ団体を代表していることを述べ、日本におけるキリスト教徒への迫害に遺憾の意を表した。信教の自由こそ文明国家の必要欠くべからざる条件であり、帰国のあかつきには、日本の天皇キリスト教に敵対的なあらゆる法律を撤廃するようにとの要望を伝えた。これに対し岩倉具視は、キリスト教徒迫害の事実は認めなかったものの、この問題について最善を尽くし、今後信教の自由の精神を養うことを約束した。
 
 そのほかアメリカやフランス、ドイツ、スウェーデンなどの欧米の福音同盟会の支部使節団に陳情団を送ったり、それぞれの政府を通じて圧力をかけたりしている。もちろん福音同盟会以外にも、多くの政府、民間団体の働きかけがあった。ベルギーでは一行は、路上でデモ隊に取り囲まれた。カトリック国であるフランスでは、一行の滞在中に、日本のキリシタン迫害を非難する案件が国会に緊急上程されている。
 
 ついに岩倉使節団は、西洋諸国と条約改正をしようと願うならば、日本政府が信教の自由を保障することが不可欠であることを悟るに至った。岩倉全権大使は、ベルリンから明治政府に宛てて、キリスト者の迫害をやめ、捕囚中の信徒を解放しなければ、欧米各国との交渉は無意味であることを進言する電信を送った。
 こうした使節団の報告を受け、1873年2月24日、ついに明治政府はキリスト教禁制の高札の撤去を決め、全国に布告した。これを受けて、同年3月に捕囚中の浦上信徒の郷里への復帰が認められた。ここに至って、徳川幕府以来260年続いたキリスト教禁教政策は終わりを告げ、日本における福音宣教は新たな段階を迎える。この高札の撤去後、来日する宣教師の数は急速に増え、日本における福音宣教は前進した。
 
 しかしこの高札の撤去で、日本において福音宣教が無条件で公認されたと見るべきではない。高札の撤去にあたり、政府は日本人向けには、禁制のことは「熟知」されているので、わざわざ高札で知らせるには及ばないという説明であった。公認というより、黙認とも言うべきものであった。しかも、葬儀という重要な儀式においては、自葬、すなわち仏式と神式以外のやり方は、太政官布告によって禁止されていた。葬儀の自由が認められるのは、1884年になってからである。それまでキリスト教徒は、この埋葬の件で非常に苦しめられたのであった。

 

 

【参考文献】

・中村敏「日本キリスト教宣教史」(いのちのことば社、2013年)
・塩野和夫「日本キリスト教史を読む」(新教出版社、1997年)