のりさんのブログ

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「キリスト教会として神のことばに立つ」

 かつて私が所属していた東栄福音キリスト教会の教会規約の冒頭では、信仰告白として以下のことが謳われています。
 (聖書) 「聖書は、旧新約六十六巻よりなり、すべて神によって霊感された、誤りのない神のことばである。聖書は、神が救いについて啓示しようとされたすべてを含み、信仰と生活の唯一絶対の規範である。」

    聖書がなぜ「信仰と生活の唯一絶対の規範」となりうるのか。それは、この規約の前半部分で謳われている「すべて神によって霊感された」という告白に、その意味と理由が裏付けされています。その告白は、聖書に基づいています。

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(Ⅱテモテ3章16節)

 ここから私たちキリスト教会にとって聖書とは何なのかを簡潔に整理したいと思います。

 

1.神のことば

 私が、以前、この東栄福音キリスト教会の教会員になるときに、以上の規約を学び転会の準備をすることになりました。そして、信仰試問会のときに、誓約の中で、聖書が私にとって「信仰と生活の唯一絶対の規範である」ということに同意するかどうか問われました。この場面での宣誓は、明確な信仰告白を持たないプリマス・ブラザレン出身の私にはとても新鮮で、あらためて聖書を唯一の規範とする意味と理由について深く考えさせられるときとなりました。

 そのときから私は、聖書が神によって霊感された神のことばであるからこそ「誤りがない」のであって、神のことばであるからこそ「唯一絶対」と言い切れることがわかってきました。その中で、伝道者として献身する召命が与えられ北海道聖書学院での学びと訓練の中で益々整理され、現在に至っております。

 もし、聖書に少しでも誤りがあったなら、それはどのように言うことができるでしょうか。それは、その時点で、全ての記述においての信頼を失うのは間違いありません。なぜなら、たった一点の誤りが他のすべての真正さを疑わせてしまうからです。そのような誤った書物を本気で信じることは危険だということになるでしょう。

 しかし、そうではない。もし、クリスチャンがそのように聖書に疑いを持ち、信じられないならば、いったい何を手掛かりに神の言葉に聴いていけば良いのでしょうか。説教者のインスピレーションでしょうか。それこそ危険です。その説教を何によって吟味すれば良いのでしょうか。今でも旧約時代のような預言者がいるとでも言うのでしょうか。しかし、聖書には「預言はすたれ異言もやむ」と書いてあります。(Ⅰコリント13:8)だいたい、その預言が真実かどうかどうやって見極めるのでしょうか。

    

 

2.主の御跡に従う規準
 ここで、聖書が神のことばであることを否定した場合の私の歩みを想像してみることにしましょう。きっとこうなるでしょう。

 規範を失った私には、罪人である私の価値規準の判断ですべてを決めると言う、最も恐ろしい選択が迫られ続ける人生になる。つまり、人生の規準を失って、シャボン玉のようにふわふわゆらゆらした人生が待っているのです。それは、すぐに割れてしまうシャボン玉と同じく、破綻した人生になることは必至です。

 結局はエデンの園における堕罪事件の延長線上の歩みが待つだけです。「大地はあなたのゆえに呪われる」(創世記3:17)と神から告げられた、罪に呪われた人生があるだけです。それは行動の規準が神のことばではなく、私自身の神から離れた罪の価値観でしかないからです。

 しかし、聖書が神のことば。すなわち誤りなき規準であるならば、そこに信頼する私たちの歩みは堅固なものとされます。それがまさしく、主イエスの御跡に従う生き方となるからです。詩篇119篇で言われる「主のみおしえ」、「さとし」、「戒め」、「おきて」などは全て「主のみことば」に置き換えられることばです。その「主のみことば」こそ、聖書です。聖書が完成した今は、その主のみことばを聖書から聴くのです。

 

3.キリスト教会としてのいのち

 ですから私たちをキリストの御跡に従うように造り変えてくださる神のことばである聖書は、この世において私たちを生かす四つの中心的特徴があると言うことができます。

 それは、第一にその必要性であり、第二に明瞭性であり、第三に十分性、第四は権威です。それは私たちの人生を全て任せられるに足ることを示しており、事実私たちは、この聖書の規準において救いの確かさを御霊によって確信できるのです。

 私が白石教会の牧師として召され、2022年4月で5年目を迎えて、今考えさせられることは、やはり、常に神のことばである聖書に尋ね、聖書に聴き、聖書を語ること。これが結論です。

 現在、人間的な多様性や個人主義が持て囃される中、様々な批評的立場の聖書研究も流行し、教えの風に振り回されそうになる昨今ですが、益々、聖書は何と言っているか。主は聖書を通して何を私たちに語っておられるかを、きちんと聞いていく必要を感じています。

 その上で2020年の定期総会で「白石キリスト教信仰告白」を採択できたことは、白石キリスト教会にとって大きな意味を持っています。それは、白石教会もまた聖書を誤りなき神のことばと告白するキリストのからだなる教会に連なるキリスト教会であり、そのことを神の前にもこの世の前においても明らかにすることができるようになったからです。その第一項目に「聖書」を置いているのは、まさにルターが「我はここに立つ。他になしあたわず。神よ我を救いたまえ。アーメン」と言ったように、私たちがキリスト教会として、神のみことばを拠り所として立つという教会のいのちであるからです。

 

結び
 以前、「かけはし」で、「聖書は参考書である」という記述を見て非常な驚きとともにがっかりしたことを思い出します。それは聖書を親鸞の「歎異抄」やマルクスの「資本論」、またはルソーの「社会契約論」などと同じレベルに置いているということなのか。神の言葉に対するそのような侮辱を許す価値観がこの協議会にあるのかと。果たしてメノ・シモンズもそうだったのか。私にはとてもキリスト者として互いに教え戒め合える気にはなれないと思わされました。それは「キリストのことばを豊かに住まわせ」(コロサイ3:16)合う、主の血潮によって贖われた仲間なはずなのに、そのような記述からそれを感じることができないからです。それはそもそも「知恵を尽くして」という「知恵」の出どころが違うということでしょう。そうなると、このような聖句の引用も空しくなります。

 だからこそ、そのような価値観が教会に入って来ないよう、また惑わされないよう、牧者としてどうしていくことが白石キリスト教会にとってキリストの教会として最善か、みことばに照らして考え、実行していきたいと祈っております。そして、これからも敬愛する兄弟姉妹たちとともに、「キリストのことばを豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、戒め合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌って」(コロサイ3:16)まいりたいと思います。  

   主イエスが再び来られる時まで、聖霊に導かれつつ神のことばに伺いながら御前を歩ませていただきたいと願っております。

 

『日本メノナイト白石キリスト教信仰告白

【聖書】『聖書は、すべて神の霊感によるもので、神の救いの計画を啓示する権威ある神のことばであり、信仰と生活の誤りなき規範です。』