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第3章 初期プロテスタントの三大源流


 一般的には、日本の初期プロテスタントの精神的源流として、横浜、熊本、札幌の三バンドがあげられる。ここでは、この三バンドを指導した人々や、それぞれの代表的な人物を取り上げる。
 
1.横浜バンド
 このグループの出発点は、1872年3月の日本基督公会の誕生である。その設立経緯等については、前の章で述べた通りである。
このグループの中心となった人々は、アメリカ人宣教師ブラウンやバラの塾で育てられた士族の青年たちであった。その代表的な人物として、植村正久、井深梶之助、本多庸一、押方正義等が挙げられる。宣教師については、ブラウンについては既に紹介したので、この章ではバラについて見てみたいと思う。
 バラはアメリカのニューヨークで生まれ、ラトガーズ大学、ニューブラウンズウィック神学校で学んだ。神学生時代、来日前のブラウンが来校して、日本の宣教についてアピールした。バラはそれに感銘を受け、日本行きを決意する。そして1861年に、1861年に結婚したばかりの夫人とともに、オランダ改革派教会の宣教師として来日した。
 バラは横浜に居住し、矢野元隆について日本語を習った。1865年、矢野は病床でバラから洗礼を受け、本土の日本人として記念すべきプロテスタント受洗者第一号となった。彼はその一か月後に召された。バラは、1872年に設立された日本基督公会の仮牧師となって信徒たちを指導した。
 バラは伝道の人として知られ、神奈川、東京、伊豆から信州にまで伝道の歩みを伸ばし、多くの人々を信仰に導き、教会の土台を据えた。『植村正久と其の時代 第一巻』によれば、「バラ氏は思想の人ではなく、活動の人であった。遠き将来の計を立てるというような人ではなく、機を得るも得ざるも一心不乱に伝道をした人であった」とされる。彼はまた、祈りの人であった。彼の説教には感服しなくても、その熱誠なる祈りに感激し、ついに信仰に導かれた人は少なくなかった。初期の宣教師研究の権威である髙谷道男は『横浜バンド史話』の中で、「横浜バンドのあのリバイバルは、ジェームズ・バラの宗教的情熱、霊的敬虔、正直に言って、バラ自身の人格と信仰です」と語っている。また同書において対談者の太田愛人は、横浜バンドについて「伝道の熱心さ、祈祷会尊重はバラの精神的影響とも言えるでしょう。ヘボンの学殖、フルベッキの洞察力、ブラウンの敬虔さに加えるにバラの情熱が、明治のキリスト教の中の横浜バンドの骨格を作るのに貢献したと言ってもいいでしょう」と指摘している。
 なお、彼の娘婿マカルピンとその子どもたちも南長老ミッションの宣教師として日本で奉仕している。
 
 次に、横浜バンドの代表的な人物である植村正久(1858~1925)について紹介する。彼は、徳川の旗本の家に生まれ、家禄は1500石であった。それは小さな大名とも言うべき家柄であった。しかし、大政奉還により、一家は没落し、赤貧背負うがごとき生活を体験した。長男である彼は、一家を建て直すには、英学を取得することが最善であると考え、横浜でブラウンやバラの指導を受けた。そして1873年、16歳のときに洗礼を受け、日本基督公会に加わった。
 その後、伝道者としての召しを受けて、宣教師の私塾が発展してできた東京一致神学校で、学びと訓練を受けた。彼は生来の訥弁家であり、そのために教師試験であやうく落第しかけたが、伝道熱心であるということで合格させてもらったという逸話が残っている。しかしその後努力した結果、名説教家として知られるようになった。
 神学校卒業後、東京で開拓伝道をし、今日プロテスタントを代表する富士見町教会を設立し、牧会した。富士見町教会牧師、「福音新報」主筆、東京神学社校長、日本基督教会の伝道局長として、それぞれの分野で大きな足跡を残した。特に東京神学社において、高倉徳太郎や小野村林蔵等、多くのすぐれた弟子を育てた。
 彼は後の有名な植村・海老名神学論争に見られるように、日本のキリスト教界にあって終始一貫正統信仰の確立と擁護に努めた人物である。また、日本の宣教は日本人の手によってなされるべきことを主張し、早くから独立自給の路線を打ち出した。
 そして、「日本評論」を発刊して、社会に対しても積極的に発言している。「言論の力を用い、健全なる思想を社会に注入するをもって、甚だ大いなる社会的事業なり」と考え、政治、社会、教育に関して幅広い評論活動を行った。さらに、聖書翻訳や英文学の紹介においても貢献した。
 このように多彩な働きをしたが、大内三郎は、「彼の生涯は、終始一貫して牧師・伝道者としての生涯であった」と評している。
 横浜バンドの人々は、その師たちの感化を受けて教会中心の基本的な姿勢を持っていた。そして他のグループと比較すると、信条や神学を重視するほうであった。彼らを指導した宣教師たちが、長老派やオランダ改革派のミッション所属であったので、横浜バンドの流れを組む教会も、日本基督一致教会となって長老制をとる。後にこの教会は、日本基督教会という、戦前における日本最大のプロテスタント教会となった。
 
2.熊本バンド
 熊本バンドについては、同志社大学人文科学研究所が編集・出版した大著、『熊本バンド研究―日本プロテスタンティズムの一源流と展開』において、さまざまな角度から詳しく考察されている。この本の中では、熊本バンドについて「明治4年から9年までのあいだに熊本洋学校でジェーンズの薫陶を受け、花岡山上でキリスト教を奉じ、この教えを日本国に宣布しようと決意した人々を中心とする一団」とされる。そして彼らの多くが、新設されたばかりの同志社に移り、「そのすぐれた労力と粗野ではあるが活発旺盛な気風によって非常に目立った特異な存在」を示した。熊本バンドは、こうした彼らに同志社の宣教師たちがつけた呼び名であったということである。
 熊本(肥後)藩は、明治維新において薩摩、長州、土佐、肥前藩とともに明治政府に参加したものの近代化の時流に乗り遅れ、前出の諸藩に大きく遅れを取ってしまった。そこで熊本藩は人材の育成を図るために、1871年熊本洋学校を設立した。その校長としてアメリカから招かれたのがリロイ.ランシング.ジェーンズ(1837~1909)であった。ジェーンズはオハイオ州で生まれ、ウェストポイント陸軍士官学校で学び、軍人としての訓練を受けた。彼は南北戦争北軍の陸軍少尉として活躍し、大尉に昇進後結婚した。夫人は多くの宣教師を輩出していたスカッダ一家の出身だった。
 来日したジェーンズは、アメリカのウエストポイント陸軍士官学校の規則正しい教育と、イギリスのパブリックスクールであるラグビー校の人格教育を目指して、熊本洋学校での教育を開始した。そのような意気込みで始めたジェーンズの教育ぶりは峻烈を極めた。学業や性行の面で不十分な者は、容赦なく退学を命じられた。熊本洋学校に一回生として入学した46名のうち卒業生は11名、二回生72名のうち卒業生は11名だけとなっていることからも、その厳しさが伺える。三回生、四回生にいたってはいずれもゼロである。しかし残った学生たちの進歩は目を見張るものがあり、ジェーンズ自身も驚くほどの学力の向上を示した。彼らはそのジェーンズを師として全面的に信頼し、その厳しい指導に全力をあげて応えた。
 ジェーンズは、最初のころはキリスト教について一言も言及しなかった。まだキリスト教が禁教のころでもあった。三年経ったある日、彼は学生たちに自宅で聖書を教えるということを伝えた。毎週土曜日に持たれたこの聖書研究会に、やがて30~40人くらいの学生が集まるようになった。この集会では集まった者が英語の聖書を一節ずつ輪読し、最後にジェーンズが祈った。やがてこの集会の参加者の中からキリスト教の信仰を告白する者が続出し、洋学校の中はリバイバルのような状況となった。
 そうした中で、1876年1月30日の日曜日、かねてから信仰を告白していた洋学校の学生40名が、熊本藩郊外の花岡山に登った。彼らはそこで熱心な祈り会を開き、「奉教趣意書」を朗読し、35名の者が署名した。そこに書かれた冒頭の言葉は非常に格調の高いものであり、この趣意書の中に、熊本バンドの特色となる国家主義的な性格がよくあらわれている。
 洋学校の学生たちが花岡山で信仰告白をして、キリスト教信者になったことを知った学校関係者や学生の父兄たちは非常に驚き、大騒ぎとなった。一応1873年キリシタン禁令の高札は撤去されたものの、まだキリスト教邪宗観は根強かった。特に、熊本ではその年に尊王攘夷を掲げた神風連の乱が起きるほど、保守的で排外的な気風が強かった。洋学校当局は、ジェーンズの解任を決議し、洋学校は閉鎖されることになった。学生たちは親元に呼び戻され、棄教するように迫害を受けた。ある者は座敷牢に入れられたり、ある者は自決を迫られたりした。そのような中でも、彼らのうちの多くの者が信仰を守り通した。ジェーンズは熊本を去る前に学生たち22名に洗礼を授けた。その中の主な者は、小崎弘道、海老名喜三郎(弾正)、浮田和民、宮川経輝、森田久万人等である。金森通倫は、奉教趣意書には署名したが、このときは受洗せず、後に新島襄から洗礼を受けた。
 洋学校が閉鎖され、学生たちの多くは、ジェーンズのアドバイスもあって、1875年に開校したばかりの同志社に移って行った。この学校は、新島襄の熱意と使命により、アメリカン・ボードの宣教師たちの協力を得てスタートしたばかりだった。それゆえまだ学校として整っておらず、熊本バンドの学生たちの失望と不満は大きかった。彼らは学力において他の学生たちを圧倒し、教師にも実力で迫った。加えて彼らの信仰はジェーンズの影響を受けてリベラルな立場に立って、保守的な立場の宣教師たちとしばしばトラブルを起こした。両者の間に立った新島襄校長の苦闘は実に大きなものであり、後年、次のように述懐している。
「熊本から同志社にやってきたものたちは、棒にも梃子にもおえないものであった。自分は、彼らを三年間教育したのであるが、幾度自分は寝床に入って涙で枕を濡らしたことがあるか知れない。」
 
 こうした新島校長の忍耐のゆえに熊本バンドの学生たちは学校生活を続け、1879年6月に第一回卒業式を迎えた。この日、卒業の栄冠を勝ち得た15名全員が熊本出身の者たちであった。その中でも、海老名弾正について考えてみたい。
 海老名弾正は1856年福岡の柳川藩士の家に生まれ、まず地元で漢学や英学を学んだ。その後1872年から熊本洋学校で学び、ジェーンズの指導を受けた。彼は、ジェーンズ宅の集会に出席するようになった。あるとき「祈りは造物主に対する我らの職分である」というジェーンズの言葉に深い感銘を受ける。造物主に対する義務を怠っていた自分の罪を知り、自己中心から神中心に生きるという回心の体験をした。
 同志社に入学してからは、新島襄の教えを受けた。同志社を卒業後、安中、東京、熊本、京都、神戸で牧師や教育者として活躍した。その後、長く東京の本郷教会の牧師として大いに活躍した。牧会活動のほかに、雑誌「新人」を通して、時代思潮に対する鋭い洞察を記す評論活動を行った。また、その門下から、吉野作造や鈴木文治等の政治学者や労働運動の指導者を育てた。
 海老名の信仰は、ジェーンズの感化もあり、進歩的・自由主義的なものであった。彼は自分の宗教体験に基づき「キリストとの一体化」、「新人合一」を強調した。後にキリスト論をめぐって、横浜バンド、そして日本基督教会の指導者である植村正久と、はなばなしい神学論争を展開する。彼の神学思想には国家主義的傾向が強く、日露戦争を義戦として支持し、日韓併合キリスト教の人類同胞精神の現れとして肯定した。ここにキリスト教伝道と朝鮮や中国における植民地支配との結びつきが見られる。こうした彼の主張を朝鮮における植民地伝道で実行したのが渡瀬常吉であった。晩年の海老名弾正は、一層国家主義的傾向が強くなり、神道キリスト教とも呼ばれた。
 海老名に見られるように、熊本バンドの人々は国家主義的、自由主義的傾向を持っていた。彼らの多くが日本組合基督教会の教職となるが、1880年代にドイツから自由主義神学(当時、新神学と呼ばれた)が入ってきたとき、最も影響を受けたのが彼ら出会った。
 
3.札幌バンド
 明治の初めにおいて北海道は、天然資源に恵まれ、大きな未来を臨む開拓の地であった。1869年、北海道に開拓使が置かれたとき、全島の人口が約10万人、札幌の人口は2千人だった。
 当時の日本は明治維新が始まり、富国強兵のかけ声の下に、盛んに欧米の文化や技術が取り入れられた。そのような中で、北方にロシアをうかがう北海道の開拓は、経済的にも国防的にも重要であった。
 そういった状況を受けて、北海道の開拓のためには、人材の育成が必須であるとして、北海道開拓使長官黒田清隆の肝入りで、まず開拓使仮学校が東京の芝増上寺に設立された。これが札幌に移って札幌学校となり、1876年の札幌農学校の開校へと発展する。その初代教頭として招かれたのがW.S.クラークである。
 札幌バンドは、クラークの感化によりキリスト教に入信した札幌農学校の一期生、二期生らのキリスト者集団に付けられた呼び名であるということができる。
 W.S.クラーク(1826~1886)は、マサチューセッツ州の厳格なピューリタン信仰の家庭に生まれた。アマースト大学で学び、在学中に劇的な回心の経験をした。大学卒業後ドイツに留学し、ゲッチンゲン大学より「隕鉄の化学的成分」の研究で博士号を受けた。彼は帰国後、母国のアマースト大学で15年間化学の教鞭をとった。その後結婚し5男6女に恵まれるが、来日時には2男6女であった。南北戦争では義勇兵として従軍し、退役後は陸軍大佐にまでなった。
 さて、マサチューセッツ農科大学学長をしていたクラークは、1876年に一年の任期で札幌農学校の初代教頭に就任する契約を日本政府と交わした。1876年6月、来日し8月に官立札幌農学校は盛大な開校式を行い、スタートする。その一か月後の手紙で、クラークは自分が受けている信頼と与えられている責任をもって書いている
「農学校での仕事はとても愉快で、私の側での努力は必要としません。学生たちはこれ以上は望めないほど善良で熱心であり、また非常に礼儀正しく、指導に対して非常な感謝の意を表すので、アメリカの学生はまるで野蛮人のように思えてくるほどです。」
 
 このようにクラークは、農学校の一期生たちを非常に高く評価している。開校直後、学生たちに訓辞をしている。全身の札幌学校では厳しい校則があったが、彼は一切の校則を廃し、ただ一つ”Be gentleman”の自覚を学生たちに求めた。厳然たる中にも情熱に燃えたクラークの指導の下、学生たちの進歩は著しく、学校の視察に来た黒田長官が驚嘆するほどであった。
 クラークは学力だけでなく、生徒の徳育にも重きを置いた。一人ひとりの学生に英文の聖書を渡し、正規の授業の前に聖書の輪講を行った。このことが黒田長官の耳に入り、クラークを呼びつけてその不都合を詰問した。それに対してクラークは、自分はクリスチャンであり聖書を教える以外に徳育を授ける道はないとはっきり言い放った。その厳然とした確信ある態度に黒田長官も折れ、学内で礼拝することは認めないが、聖書を倫理書として用いることは認めた。
 またクラークは、日本の学生を見て、飲酒喫煙の害悪が大きいことを痛感した。彼自身は生来の禁酒家ではなく、札幌は飲料水が良くないと聞いて、上等なワインをたくさんアメリカから持ってきていた。だが学生の模範となるため、それらのすべてをたたき割り、ドブに捨ててしまった。そして、禁酒・禁煙の誓約書を作ったところ、一期生全員が署名した。
 クラークの在任は僅か8か月で終わった。開拓使では3年間の契約更新をクラークに申し入れたが、クラークがこれを断ったのである。彼は札幌を去るにあたって「イエスを信ずる者の契約」を作り、学生たちに署名を求めたところ、一期生全員が署名した。この誓約書は、キリストへの信仰を告白し、主の愛に感謝して一生を送ること、早い機会に福音主義教会で洗礼を受け、入会することをうたっている。また三位一体の正統信仰と合わせ、モーセ十戒を守ることを約束させたもので、福音主義信仰とともにピューリタン的な生活倫理が強調されている。
 署名した一期生では、伊藤一隆、大島正健、佐藤昌介、渡瀬虎次郎らが知られている。札幌を立つクラークとの別れを惜しむ教え子たちに、クラークが“Boys be ambitious”との言葉を残したという話は有名である。帰国後のクラークはアメリカの各地で日本についての講演活動を行ったが、その後、鉱山事業に失敗し、社会的信用の失墜と病気のため不遇な晩年を送った。彼がその臨終のとき、自分の一生において誇るべきものは何もないが、ただ日本の札幌において数か月、日本の青年に聖書を教えたことが心を安ずるに足ることであったと述懐している。
 さてこのようにクラークは去ったが、一期生やホイーラー教授を通して二期生に及んだ。普通、札幌バンドというと一期生よりも二期生の方がよく知られている。クラークの志を受け継いだ一期生の強力な働きかけにより、二期生の多くが「イエスを信ずる者の契約」に署名をし、キリスト教に入信した。彼らの中でよく知られているのは、無教会主義の指導者となった内村鑑三国際連盟事務局次長等を歴任した新渡戸稲造、世界的な生物学者となった宮部金吾、日本有数の土木工学者となった広井勇等である。結局、二期生12名のうちキリスト信仰を受け入れたのは、7名であった。あとの者はキリスト教に入信すると礼拝等、日曜日に勉強ができなくなり成績が下がることを理由にキリスト教信仰を拒否した。しかし、4年間の成績がすべてまとめられた卒業式のとき、上位7名すべてキリスト者学生が占め、6名が名誉ある卒業演説をした。
 札幌バンドの場合、学校で始まったことから、集会の在り方として、最初から個人主義的、無教派主義的傾向が強かった。内村鑑三の自伝「余は如何にしてキリスト信徒になりし乎」には、二期生の日曜礼拝の様子が生き生きと描かれている。7人の学生たちは、全てが順番に集会の指導を受け持ち、その日の当番が牧師となり、教師となった。礼拝は祈り、聖書朗読、短いすすめ、各自の感話から成り立ち、儀式的要素はほとんどなかった。そして、毎日曜日の夜には、一期生たちと合同の聖書研究会
持った。また水曜日の夜には祈祷会を忠実に守った。
 札幌バンドの人々は、農学校卒業後も自分たちの集会を守っていくが、やがて聖公会メソジスト教会の二つに分かれることになり、教派主義の弊害を経験した。彼らの無教派主義的傾向は、自分たちの教会堂建設の資金援助をめぐるメソジスト教会の宣教師とのトラブルを通し、一層明確なものとなった。彼らは、1882年にいかなる教派やミッションにもよらない「札幌独立教会」を設立し、その群れは今日に至っている。
 ここで、内村鑑三(1861~1929)について記す。彼は、東京の高崎藩邸で生まれ、東京外国語学校で学んだ。その後、札幌農学校二期生として入学した。儒教教育を受け、日本古来の神々を敬う信仰を持っていた彼は、上級生の強引なキリスト教勧誘に激しく抵抗するほどであった。あるときは、近くの神社でキリスト教の校内での布教をやめるよう熱烈な祈りをささげることもあった。しかし、ついに上級生の圧力に屈して「イエスを信ずる者の契約」に署名し、キリスト教を受け入れた。こうした入信であったが、彼は生涯キリスト者として生き抜いた。二期生のうち、内村、新渡戸、宮部は長い友情を保ち、札幌三人組と呼ばれた。
 内村は非常に優秀な成績で札幌農学校を卒業し北海道庁の官吏になった。また魚類調査の分野においても足跡を残した。その後、同じ上州出身の浅田タケと結婚するが破婚と言う試練を経験した。傷心のまま渡米した内村は、アマースト大学で学んだ。ここで彼は総長シーリーと出会い贖罪信仰に目覚める。ハートフォード神学校に進むが適応できずに中退し、帰国した。帰国後新潟に新設された北越学館で教えるが、すぐに宣教師たちと衝突し、数か月で辞職する。その後第一高等学校で教鞭をとったが、在職中、不敬事件を起こし職と、再婚した妻も同時に失った。
 その後は、各地を点々としながら教鞭を取りつつ、「基督信徒の慰」、「求安録」等文筆によって茨の道を切り拓いていった。1900年に「聖書之研究」を創刊し、本誌と日曜ごとの聖書講義を通して、多くの人々に感化を与えた。そして「聖書之研究」の購読者を中心に、日本の各地に教友会と呼ばれる群れが生まれた。無教会と呼ばれるようになったこの集まりの中から、塚本虎二、藤井武、畔上賢造、矢内原忠雄等多くのすぐれた弟子たちが生まれた。
 
 内村の提唱した無教会主義の精神をまとめると次のようになる。
①外国の教派や宣教師からの独立
②洗礼、聖餐式の否定
③職業的教職制度や献金制度の否定
④忠実な聖書研究集団
 
 今日もなお無教会の集会は、東京をはじめ各地に存在する。内村鑑三ら無教会の指導者には、教師や学者が多く、日本のキリスト教界だけでなく思想界に少なからぬ影響を与えている。
 内村鑑三は、足尾銅山鉱毒問題や非戦主義の主張を通し、社会に対しても発言した。内村鑑三については、不敬事件と大正期の再臨運動で再び取り上げる。