"からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。
むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。"
マタイの福音書 10章28節
新型コロナウイルス感染症がパンデミックとなり3年目を迎えています。
これにより、多くの方々が亡くなり、今もなお、この感染症によって亡くなる方は後を絶ちません。また、いまだに集まることを避けている方々もおられるでしょう。
しかし、キリスト教会はそれで良いのでしょうか。それは、いつまでも、このウイルスに怯えていて良いのかということです。それは、つまり永遠のいのちを受けているにも関わらず、その恵みへの応答をやめて、教会としての本来のあり方を捨てていることになるからです。
キリスト教会が疫病の時代をこれまで、どのように過ごして来たのか。それは歴史を振り返るとわかります。2世紀から3世紀に、まだキリスト教がローマから迫害を受けていた頃、二つの大きな疫病が流行したことがありました。
その一つがアントニヌスの疫病、そしてもう一つはキプリアヌスの疫病と言われているものです。
その時代、キリスト教会はどのように、その置かれた試練を乗り越えたでしょうか。迫害から逃れるように地下墳墓カタコンベに隠れていたでしょうか。そうではありません。
疫病で苦しむ人たちに寄り添い、命をかけて、その人たちの必要に応えていったのです。それにより、自分が感染して死んだとしても、です。
迫害も受けて死に、疫病に感染しても死に、これでキリスト教会は衰退したでしょうか。そうではありません。
キリスト教会はそのような試練の中にあって、益々、信じる者たちが起こされて、ローマ帝国の中で市民権を得るほどに増え広がっていったのです。皇帝がそのキリスト教という勢力を無視できないほどに、また敵にまわせないほどに、です。
結果、ローマ帝国は、クリスチャンたちを迫害することをやめて、キリスト教を保護するにまで変容し、ついに313年にミラノ勅令が発布され、キリスト教はローマの公認となるのでした。
つまり、当時のキリスト教会は、苦難の中にあって、そこに永遠のいのちを与えておられる神を恐れ、そのような生き方を通し、むしろ死に方を通して、人々の心をキリストへと向けていったのです。
この地上において、既に与えられている永遠のいのちを脅かすものはありません。ただ神のみが、いのちを与え、またいのちをとる権威をお持ちです、しかも神による救いは完璧です。神以外の何者も、キリストによって永遠のいのちを得た私たちから、この祝福を奪い去ることはできないのです。
そのような、素晴らしい祝福を得ていながら、どうして、なおもこの世における疫病や、迫害を恐るでしょう。
私たちには、キリストがおられ、そのキリストが既に十字架刑を通して、私たちが受けるべきさばきを受けられ、私たちが通るべき迫害を通られたのです。そうであるのに、なぜ、教会に集まることを遠ざけることができましょう。
何を恐れることができるでしょう。私たちが恐るべきは、今日のみことばにあるように、ただ神のみです。
この言葉は主イエス様ご自身が語られたみことばです。私たちの罪を贖ってくださったお方のお言葉なのに、どうして、その、言葉を後回しにできるでしょうか。
神の愛をうけたものが、なぜ、まだ救われていない者であるかのように生きられるでしょうか。それは、できないはずです。私たちのうちに住まわれる聖霊とは、助け主です。その助けに背を向けてはなりません。
むしろ、その恵み受け取り、大胆に御前に立ち、与えられている使命を果たすのです。それも喜んで。
そこに神の国が現される。
天のエルサレムが建てられるからです。