のりさんのブログ

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北海道キリスト教史 前史

1. 蝦夷地のキリシタン
 
① 蝦夷キリシタン
 1618年にはじめて蝦夷地に来たアンジェリス宣教師は、15名ほどのキリシタンに会って告解を聞き、数名の者に洗礼を授けたと報告している。
 
 アンジェリス宣教師(ジロラモ・デ・アンジェリス)は、1568年イタリアのシチリア島生まれで18歳の時にイエズス会に入った。極東の宣教を志し、インドのゴアで神学校に学び、司祭に叙任されている。その後、日本宣教を願ってマカオに行き、一年間の日本語教育を受け、1602年に来日した。約10年間伏見の教会で働き、駿府、江戸にも宣教の足を延ばし、1613年の迫害で宣教師追放令によって長崎へ追いやられた。しかし、大坂冬の陣の騒動のあと奥州見分(水沢)領主後藤寿庵よりキリシタンのために働くよう依頼を受け、東北地方へ行き、追放されたキリシタンたちを励ました。そこで蝦夷地にも同様のキリシタンたちがいること知り、同僚宣教師ディエゴ・カルワルホの到着を待って、蝦夷渡航の計画を立て、秋田から船で深浦へ行き、そこから蝦夷へ渡ったのである。
 
 アンジェリスが来る前から松前にいたキリシタンの中、津軽から渡って来た者が何名であったのかはよくわかっていないが、フーベル氏の「蝦夷切支丹史」には、1613年に津軽を訪れたカミロ・コスタンゾ師は、松前藩より医師が求められており、それに応じた者がキリシタン医師であったので、伝道の方法や洗礼の授け方を教え、その者は松前でその通りに行ったと言われ、その医師こそ、1616年に津軽で殉教したマチアス長庵であると書かれている。
 
 1620年頃には、蝦夷金山の採掘が隆盛を極めたときで、津軽をはじめとして、奥州各地、越後、関西、長崎からも、金掘人夫と共に信仰の自由を求めてキリシタンたちが渡来し、金山の奥深くに入っていたと思われる。全国的にキリシタン迫害は厳しくなされたが、蝦夷は遠隔地でもあり、金山に働く者には松前藩の財政上比較的寛大にしていたので、穏やかな信仰生活を守ることができていた。禁令下の中にもキリシタンの情報網はかなりあったらしく、一時は蝦夷の金山がキリシタンの信仰の自由のあるところとして天国のごとく伝えられたこともある。
 
 しかし、徳川幕府の幕政が次第にかたまり、外様大名にもその方針は浸透していった。ことにキリシタンの取り締まり令は厳しく各藩に求めたのである。小藩である松前藩もこれに抗するすべもなく、お家大事とばかりに残忍な迫害の手を伸ばすようになったのである。
 
 
② 松前藩の成立とキリシタン迫害
 松前はこの広い蝦夷地にあって唯一の封建領主であった。米の産出はまだなかったが、禄高およそ一万石の大名格として見られていた。1701年(元禄14年)の調査では、和人戸数3000戸、人口二万人がおり、その中、松前は5000人くらいであった。正確な数字はわからないが、アイヌはこの頃25000人くらいと見られており、蝦夷全域で5万人くらいの人口であったと言われている。
 
 北海道に和人が住むようになったのは13世紀頃で、はじめは東北、北陸の漁民、農民が季節的に来た。また、昆布、鮭、鰊、鷲の羽、毛皮などの取引をするため北陸の小浜、敦賀方面から近江商人が来た。次に来たのは武士で、津軽、下北の士豪が南部の支配に追われて、蝦夷に逃れた。津軽の支配者であった安東氏が渡米したのは、1420年~30年代と言われている。和人の移住と共に先住民アイヌとの抗争が頻発し、武士の指導者は、諸所に館と言われる砦を築いて小封建領主となった。15世紀にはこの領主が10~12くらいもあり、和人の進出でアイヌの漁場は侵され、ごまかしや、収奪、侮辱が行われていた。
 
 これに対する不平・不満の怒りが爆発して西部の大長老コシャマインの蜂起となった(1457年)。一時は和人が全く圧せられる状態となったが、この時、戦略に長けていた武田信広が指揮をとってコシャマインを打ち破り、蝦夷を平定した。信広はこの功が認められ、田名部から移住して上ノ国の領主となっていた名門蠣崎家の養子となり、蠣崎信広となった。そして館主間の地位は自ら蠣崎家が優位を占めるようになっていった。
 
 信広の子光広は諸館主の統合を進め、1513年大館(松前)に居を移して安東の代官となる地位を得た。1590年(天正18年)に豊臣秀吉が天下を統一したとき、五代慶広は上洛して秀吉に謁見して蝦夷地支配の朱印状を受け蝦夷島主として安東氏から独立した。また、関ヶ原の戦いで徳川の時代になると家康に謁見して蝦夷地制御の黒印状を受けるなど戦国時代を巧みに生きる才幹を示している。1607年(慶長12年)に松前城を福山に築城し、姓を蠣崎から松前に改めたのもこの頃と言われている。
 
 慶広は藩令をもって福山を和夷物資の集散地と定め、有力な商人は店舗を構えて諸国から船舶が出入りし、江戸末期まで大いに賑わったと言われている。しかし、松前藩は米がとれないので藩財政の主な収入はアイヌとの交易による収入、移出入現物税の徴収、海産物、鷹などであった。更に1616年頃砂金鉱が発見されると金山が藩の主要財源となり、財政の基礎を確かなものとした。それゆえ、米の産出が乏しいために他国の入国を禁じた松前藩も、商人と金掘人夫は容易に入国を許したのである。
 
 松前藩成立における財政上の基盤をつくった金山の採掘とキリシタン迫害の時期は同じ頃で、信教の自由を求めて渡来するキリシタンは一方において鉱山採掘の優れた技能をもっていた。松前藩は全国に出されているキリシタン禁令の厳しさを知りつつも、比較的寛大にしていたのは、遠隔地であるばかりではなく、財政面を重視したことにもよったことは明らかである。
 
 ところが、徳川幕府の体制も家康、秀忠、家光と基礎が固まるにしたがい、支配力は遠隔地に配された外様大名にも徹底していった。1620年から東北にもキリシタン迫害の手が延ばされ、二度目に蝦夷へ来たアンジェリスも殉教をほのめかすほど厳しさを増していった。松前ではキリシタンになることを禁じられていたが、それでも金山ではあまり厳しい詮索はなく、キリシタンたちは千軒岳の麓に聖堂をつくってマリア観音堂と称して集まり祈っていた。
 
 
③ 106名の殉教者たち
 1637年(寛永14年)に島原の乱が起こり、これがきっかけとなって、幕府は二年前に出した鎖国令を強化するとともに、キリシタン厳禁の令を再び布告し、五人組制度など苛酷なまで徹底的に迫害を実行した。1638年、松前公広は、急遽出府せよ、と幕府より使者があって、江戸に上り、将軍家光に謁見し、松前でもキリシタンの取り締まりを厳重にせよとの命を直々に受けた。おそらくは、仏教僧侶から千軒岳の金山に働いている金坑夫の中に多数のキリシタンがいると言う話が出たのかも知れない。
 
 フーベルの「蝦夷切支丹史」には、このように書かれている。


「さて公広は、そういう切支丹の居る事を知って大いに驚き、早速数名の役人に300名の兵卒をつけて、疑わしい者を残らず処分させるために遣わした。この事が金坑夫仲間に知れ渡ると、切支丹百六名は急ぎ礼拝堂に集まり、他の人々は山中に逃げ込んだ。教方(伝教士)或いは頭役の一人が礼拝堂を開き、一つの十字架を運び出すと、一同はその前に跪いて祈った。その日の晩までに、兵卒等は礼拝堂の周囲にいる切支丹百六名の首を悉く刎ね終った。そして、人々の見せしめに、六日の間、獄門にかけた。それは寛永16年(1639年)のことであった。」
 
 しかし、この資料を基礎にして、松前藩の史料を詳しく調べて考証した永田氏は、公広は以前から金山のキリシタンを知っており、松前にもかなりいたと思われるが、金山のキリシタンだけを犠牲にして、厳しく禁令していることを幕府に示したのであろうと分析している。
 
 
2. ロシア・ハリストス正教会の南下
「新撰 北海道史」に「斯くして南方より入った切支丹問題は其後を絶ったが、此期しきの終りには、今度は北方より露人によって齏される切支丹問題が注意せられねばならないようになった。即ち露国は既に延享4年(1747年)占守島に伝道師を遣わして現地人を改宗せしめ、児童の教化を図ったが、以来、その教化はその地歩とともに範囲を拡大して来た」と、ロシアからハリストス正教会が千島を通って北海道に宣教しようとしていたことが記されている。


 また柴田定吉は「キリスト教蝦夷渡来」において、「このようにしてわが国最初のキリスト教の伝道は、ともに北海道においては華々しい活動を見ずに終わりましたが、726年偶像崇拝の是非を表面の理由として袂を分かった二大勢力であるローマ教会と正教とが、一つは南をまわって、もう一つは北を通ってその長い伝道の旅の終わりを北海道の地に持ったということは実に面白い」と言っている。
 
 ハリストス正教会の北海道伝道は箱館開港後、ニコライによってなされたが、上記の文書からも、前史として千島伝道を見る必要がある。
 
 
① 千島の伝道
 ピョートル大帝は1708年にカムチャツカの領有を公布し、1711年に千島へ探検隊を送った。翌年にはヤクーツク総督に日本に関する情報収集を命じ、調べさせた。何度か探検隊が送られ、蝦夷や日本の沿岸に近づいたが鎖国の日本に自由に入ることは出来なかった。
 
 シベリアの奥地への伝道はイノケンティ主教によってなされた。カムチャツカにも聖堂が建てられ掌院ホコウンチュウスキーが在任し、1747年(延享4年)には幌ほろ莚むしろ島に修道司祭イヲサプを派遣して56人の千島アイヌに洗礼を授けた。1756年には聖堂を建て、学校を設立して教化に尽くしている。アイヌのために建てられた最初の学校であったと言われている。
 
 松前藩は、このようなロシア側の動きを知らなかったわけではないが、黙認していたと思われる。それは、幕府からの直接的な干渉が起こることを恐れたからである。むしろ北辺の国防論は南の長崎から出たとさえ言われている。これはオランダ人と交渉があった学者たちがオランダからロシアの南進を聞いたからであった。『赤蝦夷風説考』(全二巻)を書いた工藤平助も長崎に留学して蘭学を学んでいる。
 
 ハンガリー人でフォン・ベニョスキーは1767年にポーランド独立運動に参加して、ロシアに捕らえられシベリアに流された。そしてカムチャツカに幽閉されている時、1770年に96人の同囚と脱走し船で南下し、奄美大島でオランダ船に助けられたが、7通の手紙でロシア人の南下を幕府に警告している。これは、ハンペンゴローの警告として知られている。工藤平助はこのことも『赤蝦夷風説考』に載せている。赤蝦夷とはロシア人のことを言い、千島、カムチャツカ、ロシアの国情について触れ、交易を求めていること、漂流日本人を親切にして本国で日本語を彼らから学んでいること、松前・東北などで彼らと貿易が行われていることなどに触れ、むしろ積極的に門戸を開いて交易をした方が、国を富まし守ることになると書いたものである。
 
 老中田沼意次はこの工藤平助の意見を採用して、1785年に蝦夷地調査を命じた。山口鉄五郎、青島俊蔵、佐藤玄太郎らが派遣された。この時、竿取(測量手)として従ったのが最上徳内で、択捉から得撫までも探検している。
 
 
 
 
 
② 信仰問答
 彼は生涯に8回蝦夷探検をし、当代随一の蝦夷通と言われた。1786年に第2回目の千島探検のとき、択捉島に行き、そこに十字架があってロシア人がきて千島アイヌに教えを説いていることを知った。更にシャルシャムの部落で三人の赤蝦夷とはじめて会って、長老の世話で食事を共にした。徳内は日本の領土に何のために来たのかと尋ねた。彼らは60人の仲間と得撫島に漁に来たが、喧嘩してこの島に逃げて来たと言った。
更に以下のような問答があったことが記録されている。
 
最上徳内「日本政府では、外国人の入国を許さぬことを知ってるか。」


ロシア人「それは知っている。しかし、ここは日本ではない。エトロフにもウルップにも日本政府のいかなる機関もないではないか。」


最上徳内「政府機関がないからといって、日本領土ではないとは言えない。日本には尊い神があって、その神が政をとっておられるのだ。あの天を見よ。天に輝く日輪こそ日本の神であり、日本本土とともにこの北の島々を創り給うたのだ。」


ロシア人「そんなことは信じられない。太陽は宇宙に存在する一つの熱塊にすぎない。神は太陽や山や川とは別にあるものだ。その神の子として、われわれに神の道を説いてくれたのが主イエス・キリストだ。この神こそ、無限の愛を人類にたれたもうたもの。現にこの島の住民たちでさえ、キリストの教えを信じている。」
 
 これが事実であるならば、日本人の神観とハリストス正教会の神観の最初の論争であったかも知れない。最上徳内から千島アイヌやロシア人のことを聞き、実際にも探検家の上役でもあった佐藤玄太郎は後に報告書として『蝦夷拾遺』を書いたが、その中に、千島アイヌのキリスト信仰に触れているが、通訳を介しての話であり、通訳をしている千島アイヌの長老のロシア語も不十分であったろうし、日本語も定かでなかったので、どこまで正確に伝わっているかは分からない。
 
 幕府はこの報告書に蝦夷の危機を感じ、更に大原左金吾の「北地危言」(1796年)に松前藩の無力を暴露し、ロシアの勢力の恐るべきを極言し、拓殖と北辺の防衛が強調される等の書も出て、1798年に東蝦夷地を幕府直轄地とした。蝦夷人が松前藩の苛政を恨んでロシア人に親しみ、国禁のキリシタンとなっている。これは蝦夷人の懐柔撫育を蝦夷地直轄の方針としなければならないと考えた。
 
蝦夷撫育の方針として耕作を奨励すべきこと。
・信実を旨とすべきこと。
・賃米は之を正しく与ふべきこと。
・和語を用ひしめること。
・漸次風俗を易てしむること。
・人倫を諭し、文字を教へること。
・漸次蓄妾の風を改めしむること。
・病者を手当すること。


 しかし、その実行は容易ではなかった。一方にはキリシタンへの禁止をアイヌ民族にも新たに強調している。
 
邪宗門にしたがうもの、外国人にしたしむもの…その罪おもかるべし。
・人をころしたるもの皆死罪たるべし。
・人を疵つけ、又は盗するものは、そのほどに応じ咎あるべし。
 
 このようにして千島からロシア人を追い出し、キリスト教を禁じ、十字架その他を壊して棄ててしまった。そして、日本側の資料ではキリシタンを信ずる者はいないとしているが、必ずしもそうではなかったようである。1898年(明治31年)に北海道を巡回したセルギイ主教は千島も訪問したことを「北海道巡回記」に記録している。
 
「衆知のごとく以前、北千島列島はロシアのものであった。そこに住んでいた人々は、高名なインノケンティによってハリストス教に帰依した。聖堂もありロシア人宣教師たちも彼らと共に暮らしていた。しかし、どういうわけか、日本人自身も自国領と思っていない樺太の南半分と列島を交換することになり、大部分の千島住民はロシア国籍を捨てることを望まず、ロシア領に移り、聖堂なども移転した。
 
 しかし、カムチャツカ付近のパラムシルにあった一村が、この素晴らしい漁獲と狩猟をあきらめきれず、日本国籍に移籍することを決めた。その結果は全くみじめであった。ロシア人宣教師たちが日本領に入る権利はもうないと考えたため、千島住民は何よりも精神的指導を失ってしまったからである。こうして20年過ぎた。その間、千島の住民たちは司祭に会うことがなかった。洗礼も葬儀も自分たちで行った。祈祷も行った。老人たちの口伝えで子どもたちに信仰を伝えた。宣教師たちが彼らに教えたことをすべてこんなに几帳面に守っていたということは、驚嘆せずにはいられない。おそらく教義の問題に関してはそんなに詳しく教える人がなかったから、彼らは日本のハリステアニン同様、あまりうまくはなかったろう。
 
 しかし、教会組織にかわって祈りの必要性や神への畏れ、ハリストス教の諸戒律などすべてはこの素朴な千島住民たちによって会得され、日本人司祭たちがいくらほめてもほめ足りぬというほどりっぱに、今までこれを守っている。彼らのところに最初にやってきた日本人伝教者たちは、ここ色丹で、どんなに熱い信仰を見たかということを、のちのソボル(地方公会)で涙ながらに語っていた。」
 
 これはセルギイがニコライと共に色丹を訪れたときの記録である。樺太と千島の交換は1875年(明治8年)に日露で樺太千島交換条約締結されたときのことで、北千島から色丹に以上させられたという。会堂を壊し、十字架を倒しても、人の中に立てられていた信仰の十字架まで倒すことが出来ないことを当時の幕府等日本の権力者たちは知らなかったことであろう。
 
 北から宣教を開始したハリストス正教会は千島までで、北海道には箱館開港まで来ることができなかった。幕府は国防と共にキリスト教が入ることを極度に嫌って、蝦夷島民をロシアのキリスト教から守るためにと三官寺を建てた。1804年有珠の善光寺、様似に等樹院、厚岸に国泰寺である。国土鎮護、葬礼追祷、アイヌ改宗の宗教対策としたのである。

 

【参考文献】

福島恒雄「北海道キリスト教史」日本キリスト教団出版局