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北海道キリスト教史 第三章 プロテスタントの伝道 その1


1.宣教の先駆者
 北海道にプロテスタントの伝道を始めたのは1874年(明治7年)にメソジストのM.C.ハリスと聖公会のW.デニングである。我が国にプロテスタント宣教師が渡来してくるのは大きく分けて二つの時期があった。一つは、諸外国との修好通商条約締結によって開港された1859年(安政6年)である。
 
 この前後に三大開港場であった神奈川、長崎にはプロテスタントの宣教師が来ているが、箱館には、先に記したようにカトリックとハリストス正教会だけで、プロテスタントは来ていなかった。もっとも、早い時期にJ.C.ヘボン箱館まで来ているが、必ずしも伝道を意図して来たのではなかった。
 
 もう一つの時期は、1873年(明治6年)2月19日キリシタン禁制の高札撤去の前後である。この時期に宣教師を送った教派は、米国メソジスト監督教会、カナダ・メソジスト教会、米国北部バプテスト教会、英国福音伝道協会(聖公会系)などがある。1859年に米国監督教会のC.M.ウィリアムズが来て伝道を開始していたが、W.デニングは英国聖公会の宣教協会から派遣されたもので、同派は1869年にG.エンソウを日本派遣宣教師として長崎に送っている。M.C.ハリスの所属したメソジスト教会は1873年に初めて日本の伝道を開始し、5人の宣教師を送った。そのうちの一人であるハリスが箱館に派遣されたのである。
 
 ハリスとデニングが渡来した1874年頃の北海道は、開拓10か年計画の三年目を迎え、前年の8月には箱館~札幌間の道路が完成し、同年11月には開拓使札幌本庁の庁舎・洋風三階建てが完成している。また東京の芝にあった開拓使仮学校を札幌に移して、高度な農業技術と学問を教える札幌農学校の建設などがすすめられていた時である。全道の人口は16万8千人を数え、箱館だけでいえば戸数6千戸、2万6千人余であった。
 
 後述するが、同時期にアメリカからW.クラーク博士が来日し札幌農学校の教頭となり、ここに札幌バンドが起こるが、日本教会史において触れているため、本講義においては割愛する。
 
 
① M.C.ハリス
ハリス(Merriman Colbert Harris 1846~1921)は、北米オハイオ州ビールスヴィルに生まれた。両親はバプテスト教会 員であったが12歳の時にメソジスト教会で洗礼を受けた。17歳の時に南北戦争にも参加している。1869年ピッツバーグ年会で定住伝道師に推薦された。この頃、ペンシルヴァニア州のアレガニー大学で文学と神学を学んでいる。1873年に卒業したが、1871年の在学中にクラーク監督から按手礼を受けている。彼が宣教師になる決心をしたのは、1869年に母キャスリンが天に召された時であった。
 
メソジスト教会が日本伝道計画を立てたのは1872年10月に開かれたメソジスト総宣教委員会で、中国福州で伝道していたR.S.マクレイ宣教師が日本宣教開始を訴えて決議され、1873年6月11日にマクレイが横浜に派遣されて日本宣教を始めたのである。ハリスが日本へ宣教師として立っていく決意をいたのはこの頃だと言われている。
 
ハリスは大学を卒業し同窓のフローラ・リデア・ベストと結婚し、ピッツバーグ年会で日本への宣教師として任命を受け、1873年11月17日にロスアンゼルスを出て、12月14日に横浜に着いた。ハリス夫人となったフローラは学生時代から文才のある詩人として知られていた。その詩はいくつかの讃美歌にも採用され、日本の讃美歌343番や217番もハリス夫人の原作と言われている。ハリス夫妻が函館に到着したのは、1874年1月20日である。船長宅に仮泊したり、ドイツ船員の下宿に住んだり、日本語が不自由な中で苦労しながら山手に開拓使から土地を借りて住宅を建てた。
 
この年の8月11日にドイツ函館駐在領事ルードリヒ・ハーバーが秋田の熱狂的な国粋主義者の青年田崎秀親によって切り殺されると言う事件が起きた。このことは在函館外国人の恐怖となり、外出を見合わせ、武器を備えて戸締りを厳重にするなどしていた。しかし、伝道の熱意に燃えるハリス夫妻は、門戸を開いて、差別なく訪ねて来るものを受け入れた。知人となったドイツ人船長は函館を離れる際、函館は物騒なので身の安全を守ってほしいと、今まで持っていた拳銃をハリスに贈った。しかしハリスはその厚意に感謝しつつも「私たちは日本を救うために来たのであって、不幸にして日本人の手にかかって死ぬことがあったとしても本望です」と言ってその夜、台場の海に拳銃を棄てた。
 
このようにしてハリス夫妻は伝道を始め、また英国領事館などでも礼拝を守った。この伝道を通訳として助けたのが菊池卓平である。菊池は武田斐三郎に蘭学を学び、後にアメリカ領事などから英語を学んでいた。ある日、ハリスの通訳として来たが、その前に酒を飲んでいたので途中で眠ってしまい、目を覚ましてみると、聴衆はあきれて皆帰ってしまい、ハリスが一人ポツンと座って、菊池が起きるのを待っていた。慚愧に耐えない思いで帰宅したら、しばらくしてマタイ、マルコの注解書が送られて来て、その表紙の裏に英文で「菊池君、あなたがしっかりといのちの道につながることを祈っています。友人としてあなたにこの注解書を送るので受け取ってください。あなたの親友ハリスより。」と書いてあった。菊池は非常に感激し、熱心にキリストを求める者になったという。
 
この年の8月に中里方親、相沢良恂が受洗し、函館教会の基礎がつくられた。菊池卓平は函館教会の初代日本人牧師となり、後に青山学院の前身の耕教学舎の校長となった。その後、ハリス夫人の体調が函館に合わないために1878年に東京へ移る。北海道伝道は僅か5年であったが、その残した足跡は偉大である。ことに札幌バンドの授洗者として有名である。東京では4年間、ソーパー宣教師と共に働き、青山学院の前身の東京英和学校のためにも尽くしている。その後、夫人の健康を気遣って帰国し、ハワイを含む太平洋沿岸日本人ミッション総理として、特に日本人労働者排斥問題や日本人学童排斥問題が起った時、その解決に多大に尽力した。
 
1904年にロスアンゼルスの総会で日本及び朝鮮の監督として選ばれ再び日本に赴任し、メソジスト教会の発展に尽くした。1907年にアメリメソジスト教会、カナダ・メソジスト教会アメリカ南メソジスト教会の三派合同の際は、議長としてこれをまとめ、本ほん多庸一だよういつが初代監督となり、ハリスは名誉監督となった。「米国に生まれた日本人」と言われたほど国際関係でも日本のために尽くしてきたので、1916年(大正5年)に隠退したときには、日本政府は勲二等を贈ってその労に報いた。
 
ハリス夫人は1909年9月7日天に召された。生涯病弱であったが、文学的賜物があり、日本の古典にも親しみ、1891年には土佐日記を英訳して出版している。また1878年頃、米国の婦人外国伝道協会誌「ウーマンズ・フレンド」に函館へ女学校設立の必要を寄稿し、それがきっかけとなって遺愛女学校が設立されるようになった。
 
札幌バンドの佐藤昌介、内村鑑三新渡戸稲造らは生涯変わらない友情と尊敬を持ち続け、ハリス夫人の葬儀には、内村自身が左近義弼や美山貫一らと棺を式場に運んでいる。内村は大の宣教師嫌いであったがハリス夫人だけは例外にしていた。また、ハリス夫人が亡くなった時、その伝記が出されたが、その中に内村は「僕が心底より尊敬するところの三恩人がある。すなわちアマストカレッジのシェレーと白痴教育家のクレーン博士とハリス夫人である…僕はハリス夫人の葬儀の時にはちょうど自分の親の死んだ時のように万感胸に迫りて落涙を禁ずることができなかった」と書いている。
 
ハリスは、日本の教友から招かれて隠退後も再び来日して、青山のハリス館で余生を送った。すすめる人があって夫人の姪エリサベツと1919年に再婚したが1921年5月8日78歳で帰天した。函館にいたころ与えられた唯一の愛娘フロレンスが生後10か月で、日本に来る途中、太平洋上で亡くなり、日本の土へ埋めることにより生涯を日本に捧げる決心をした夫妻は現在、青山墓地に三人で眠っている。
 
ハリスが危篤になったとき、函館毎日新聞はハリスの生涯を載せ、「静かに病を得て臥し、神の如き老博士のその胸には定めし最初の日本、北海の函館が長い生涯の思い出の一つとして横たわっていることであろう」と書いている。事実、ハリスは青山で召される少し前、北海道メソジスト部長をしていたヘッケルマンを枕元に招き、「君は私の後継者だ。北海道を宜しく頼む」と語り、地上の最後の時に「函館に行かねば!」と叫んだという。1931年に新しく建てられた函館教会の会堂は現在、ハリス監督記念堂として今も立ち続けている。
 
 メソジスト系の宣教としては、後にホーリネス教会の中田重治による北海道伝道が開始され、聖公会からホーリネスに転向したアイヌ人伝道者江賀寅三が日高地方で活躍した。今金町(現神丘地区)への宣教も行われたが、入植者の一人である志方之善の妻は近代日本初の女性医師として知られている荻野吟子である。
 
② W・デニング
 ハリスに次いで北海道伝道した宣教師は英国聖公会海外伝道協会(略称CMS)から派遣されたWalter Dening(1846~1913)である。
 聖公会が日本伝道を志したのはかなり早かった。「日本聖公会百年史」によれば1843年にベッテルハイムが那覇に到着している。8年間滞在して、四福音書琉球語に訳しているが、日本本土には来ることができなかった。1855年に伝道団が解散したとき、将来は日本の伝道をしてほしいと願ってCMSに654ポンドを献金している。
 
1859年2月14日に米国聖公会内外伝道協会が日本伝道を決議し、中国で伝道していたリギンスとC.M.ウィリアムズを長崎に送った。両宣教師は、プロテスタント宣教師の中で最初の渡来者である。ウィリアムズは1860年~1864年に起こった南北戦争のため米国の聖公会で外国伝道まで手をのべることが出来ないであろうと考え、英国のCMSに援助を求めた。CMS本部は日本伝道を決意していたG.エンソウ司祭を派遣し、1869年1月23日に長崎に着いた。そこで熱心な伝道により、11月には二川一善ら数名が受洗した。
 
二川は福岡の真宗寺の長男として生まれ、神戸に出て勝安房の塾に学んでいたが、キリシタンが日本を奪おうとしていると聞き、長崎に帰ってカトリックプチャーチンに近づき、内幕を探ろうとしてキリスト教を学んだ。その後、英国領事館にいたエンソウ宣教師と出会い、日本語を教えながらキリスト教を学んだ。受洗してルカという洗礼名をもらい熱心に伝道を手伝ったので、明治政府の迫害を受け、1870年3月15日~1872年2月1日まで3年間獄中での試練にあった。
 
その後、1871年にはパーンサイド司祭がCMSから遣わされて長崎に滞在し、エンソウ宣教師は健康を害して帰国することになり、マダガスカル島で伝道していたW.デニング司祭が代わりに派遣されることになった。
 
デニングは英国南部のオタリイに生まれ、CMS大学で3年間神学を学んだ。1870年~1873年までマダガスカル島で宣教師として働き、聖公会の祈祷書をマダガスカル語に訳している。1873年(明治6年)12月14日に長崎に到着し、二川一善を通して日本語を学んでいた。開港場の函館の伝道を志し、二川一善を通訳兼助力者として1874年5月16日に函館に着いている。坂町七十七番地(船見町)に借家を借りて伝道所とした。6月には14名の出席があったという。その年のクリスマスには和泉という青年が受洗したが、厳しい時代で信仰は長くは続かなかった。また二川と意見が合わず、二川はしばらくしてメソジストのハリスの聖書研究会に出席していたが、1875年には上京し、日本基督公会に加わっている。
 
 デニングは困難な中にも熱心に伝道し、1875年5月16日のペンテコステには元会津藩士小川淳が受洗に導かれ励みとなった。小川はのちに献身し、北海道最初の邦人聖職者となった人である。デニングは研究肌であったが、同時に力強い説教者でもあったので、集会数も増え、150人から200人の盛会であったという。北海道伝道の可能性が大きいことを知り、CMS本部に応援者を依頼し、東アフリカで伝道していたJ.ウィリアムズが派遣されることとなった。
 
 デニングは1875年に函館近郊のアイヌ部落を訪問し、キリスト教を伝えようとして良い出会いがあったことから、アイヌについて学んでみたいと考えた。当時は外国人が勝手に奥地に入っていくことは禁じられていたがアイヌの研究のためならば許可されたので、1876年初夏に室蘭まで船で行き、平取まで徒歩で行き、長老ペンリュークからアイヌ語を数日学んでいる。二年後に英国の女性探検家イサベラ.エル.バードが日本に来て北海道のデニングを訪ね、ともに平取を訪問している。
 
 その著書「日本探踏記」の中で、デニングがペンリュークに伝道している様子が記録されている。それは二年前に平取に来たとき、デニングが「我々を造った神はただおひとりだけである」と説いたことに対してペンリュークは「あなたを造った神が私を造ったとしたら、あなたが金持ちで私が貧乏なのはどうした訳か」と反問したという内容である。バードはその様子を見て、ペンリュークはなかなかのインテリであると評している。
 
 デニングは平取から札幌に出て山十旅館に宿泊し、昼は聖書や天路歴程を売り、夜は路傍伝道をして熱心に働いた。このころ開拓使仮学校が芝から札幌に移って、札幌農学校開設の準備が進められていた。その生徒の一人である伊藤一隆は東京時代から築地ユニオン教会に出席していたが、札幌に移ってからも開拓使仮学校附属女子学校教師であったデネスから聖書を学んでいた。そのような背景の中でデニングと出会い、デニングの熱心な伝道に心を惹かれていったが、そのことが学校から批難を受けることになる。
 
 しかし、それならば逆にクリスチャンになってやると考え、デニングに洗礼を申し出た。デニングはそんな理由では授洗できないと言ったが伊藤が熱心に求めたので授けることになった。はじめは旅館でしようとしたが反対を受け、外でしようとしたら警察官に止められ、困ったデニングはその日、クラーク博士が札幌に着くことを知って、クラーク博士に頼んでその教師館で洗礼を授けることになった。
 
 札幌における受洗者第一号で、札幌バンドの受洗者第一号でもある。クラークはのちに、このように述べていたという。
「札幌へ足を踏み入れたその日、自分が神の道を語り伝えようと思っていた生徒の一人が先んじてわが懐に飛び込み、しかも自分たちの邸内で洗礼式をあげたことは、天意とは申しながら、まことに愉快の極みであった。」
 
1878年(明治11年)5月5日、J.バチェラー宣教師が転地療養のため函館に
来て、デニングのあとを受け、やがてアイヌ伝道のために生涯をささげることとなった。またこの年、会堂建築が進められ11月24日に300名収容の礼拝堂を建てた。しかし2年後の大火で全焼してしまうなど、試練もあったが屈することなく伝道し1880年には13名の受洗者があり会堂も再建された。デニングは聖書翻訳委員の地方委員として歴代誌やエレミヤ書などを翻訳している。またモズレイの「啓示に必要な奇蹟」や「知られざる戒律」なども訳して出版し、自らも「啓示の必要性」「旧約聖書の権威と霊感」なども著している。
 
●神学問題
 このころ、デニングが考えていた神学思想が問題とされ聖職を辞することになった。
北海道のために9年間働いて来たが、1881年~1882年頃に神学が問題となって教会が二つに分かれ、その教会を育ててきた宣教師が神学論で解任されたというのは、当時でも他にあまり例はなかったものと思われる。
 
 もっとも信徒の分裂は神学論の相違であるよりも、信仰を育ててくれた宣教師への同情が大きかったと思われるが、これは一つの事件であった。CMS本部に説明するために帰国していたデニングのために、函館教会有志はCMS本部に、デニング宣教師を解任しないよう連名で手紙を送っている。
 
 このとき英国で学んでいたJ.バチェラーはこのことのために急遽函館に戻らなければならなった。函館に戻るとバチェラーは本部宛に手紙を出し、函館に戻った本当の理由は、デニング師に対する断ちがたい愛着であると書いている。
 
 それにしてもデニングが説いた異なる教義とは何であったのだろうか。今のところ、条件付き霊魂不滅説というだけで、詳細は不明であるが1976年に英国ダーハム大学で行われた日本学研究会でヘレン・バルハチェットが発表した「宣教師の日本へのアプローチ W.デニングを例として」ではこのように伝えられている。
 
 デニングははじめ聖公会の正統な神学に立っていたが、日本での伝道の中で、彼の神学思想は変えられていった。その背景には当時、世界の思想に大きな影響を与えていたダーウィニズムの進化論と歴史批評学からくる聖書の解釈、また東洋の諸宗教との出会いから生まれた比較宗教学などがあった。ことに、デニングが休暇で一年間帰国しているとき、札幌農学校の生徒が聖公会ではなくメソジストのハリス宣教師によって受洗したことは、かなりのショックであったようだ。
 
 また1880年に植村正久や小崎弘道によって出された「六合雑誌」を見て考えさせられ、従来の保守的な正統神学では日本の知的階層の青年たちにキリスト教を伝えることが出来ないと思った。日本は東洋であってもインドや中国と違って教養が高く、新しい日本を指導するインテリジェンスをもつ青年をとらえるには、それにふさわしい教義が必要だと考えた。ことに創造論や永遠の刑罰、地獄思想は、受け入れられないだろう。キリスト教を知る機会のないままに立派な人生を送った人々が、地上で信仰をもったことがなかったからとて、永遠の刑罰を受けることは不都合であり、神のみ旨ではないのではないか。
 
 神は愛なのだから、人が死んだ後も主を知る機会を与えるはずだとして、条件付き霊魂不滅説を唱えたが、非聖書的であり、カトリックの煉獄の思想に近いとして退けられ、解任されたのである。このことは他方に神学的問題だけではなく、デニングの尊大で妥協しない頑なな人間性があったとも言われるが、ともかくヨーロッパで興った新しい学問に苦慮しながら、一方に日本の精神風土にアプローチしつつ、宣教の神学を打ち立てようとして挫折した神学徒が明治初期に函館に存在したことは興味深いことである。もしヘレンが述べているように進化論との対話の中でおこっているとすれば、後年、大正時代に札幌で、生物学者村松年と、小野村林蔵牧師との論争が行われるが、その先駆的事件であったと言えよう。
 
 デニングは聖公会の司祭職を解任されても、東京に出てイギリス国教会日本特別伝道部を組織したりしたが、続かなかった。1884年に慶應義塾の英語の教師となり、福沢諭吉から「学識ある人物」と称されて宗教論を戦わせたりしている。1885年より文部省編輯局に雇用されて英語教科書の編集にあたる。また、東京師範学校倫理学の講義を持ち、1888年から学習院で、1890年から海軍大学などで英・仏の教師をしている。一時帰国してから、1895年に再び来日して仙台の第二高等学校の英語の教師をしながら、哲学学会にも所属して研究発表もしている。在任中1913年仙台で逝去した。元駐日イギリス大使エスラー・デニングはその息子である。