のりさんのブログ

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ヨシュア記における聖絶

"これらの五人の王たちは逃げ、マケダの洞穴に隠れた。
すると、マケダの洞穴に隠れている五人の王たちが見つかったという知らせがヨシュアに入った。
ヨシュアは言った。「洞穴の口に大きな石を転がし、そのそばに人を置いて彼らを見張りなさい。
しかし、あなたがたは、そこにとどまってはならない。敵の後を追い、彼らのしんがりを攻撃しなさい。彼らを自分の町に逃げ込ませてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ。」
ヨシュアイスラエルの子らが非常に激しく彼らを討ち、ついに彼らが一掃されるまで攻撃し終わったとき、彼らのうちの生き残った者たちは城壁のある町々に逃げ込んだ。
兵はみな無事にマケダの陣営のヨシュアのもとに戻った。イスラエルの子らをののしる者は一人もいなかった。
ヨシュアは言った。「洞穴の口を開き、あの五人の王たちを、その洞穴から私のもとに引き出して来なさい。」
彼らはそのとおりにした。その五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王を洞穴から彼のもとに引き出して来た。
彼らがその王たちをヨシュアのもとに引き出したとき、ヨシュアイスラエルのすべての人を呼び寄せ、自分と一緒に行った戦士の指揮官たちに言った。「近寄って、この王たちの首を踏みつけなさい。」彼らは近寄り、王たちの首を踏みつけた。
ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に主がこのようにされる。」
その後、ヨシュアは王たちを討って殺し、五本の木にかけ、夕方まで木にかけておいた。
日の入るころになって、ヨシュアは命じて彼らを木から降ろし、彼らが隠れていた洞穴の中に投げ込んだ。その洞穴の口には大きな石が置かれ、今日に至っている。
その日、ヨシュアはマケダを攻め取り、この町とその王を剣の刃で討った。彼らとそこにいたすべての者を聖絶し、一人も残さなかった。彼はエリコの王にしたようにマケダの王にした。
ヨシュアは全イスラエルとともにマケダからリブナに進み、リブナと戦った。
主は、この町もその王もイスラエルの手に渡された。それで彼は、その町とそこにいたすべての者を剣の刃で討ち、そこに一人も残さなかった。彼はエリコの王にしたようにその王にした。
ヨシュアは、全イスラエルとともにリブナからラキシュに進み、これに向かって陣を敷き、ラキシュと戦った。
主はラキシュをイスラエルの手に渡された。ヨシュアは二日目にそれを攻め取り、その町と、そこにいたすべての者を剣の刃で討った。すべて彼がリブナにしたとおりであった。
そのとき、ゲゼルの王ホラムがラキシュを助けようとして上って来た。ヨシュアは、ホラムとその民を一人も残さず討った。
ヨシュアは、全イスラエルとともにラキシュからエグロンに進んだ。彼らは、それに向かって陣を敷き、それと戦い、
その日に、エグロンを攻め取り、剣の刃で討った。そしてその日、そこにいたすべての者を聖絶した。すべて彼がラキシュにしたとおりであった。
ヨシュアは、全イスラエルとともにエグロンからヘブロンに上った。彼らはそれと戦い、
それを攻め取り、ヘブロンとその王、およびそのすべての町、そこにいたすべての者を剣の刃で討ち、一人も残さなかった。すべて彼がエグロンにしたとおりであった。彼はその町と、そこにいたすべての者を聖絶した。
ヨシュアは全イスラエルとともにデビルに引き返し、これと戦い、
それとその王、およびそのすべての町を攻め取り、剣の刃で彼らを討った。そして、そこにいたすべての者を聖絶し、一人も残さなかった。彼がデビルとその王にしたことはヘブロンにしたとおりであり、またリブナとその王にしたとおりであった。
ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。
ヨシュアはカデシュ・バルネアからガザまで、および、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討った。
これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。
ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。"
ヨシュア記 10章16~43節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 聖書には、現代人の私たちが読んで、そのまま理解するには難しい箇所がいくつもある。その中でも、このヨシュア記のように、他国を侵略し滅ぼし尽くすこと。つまり聖絶をどのように受け止めるか、である。

 

 というのも、もしこの聖絶にあるように、軍事的侵略を許容するならば、何か正当な理由を見つけて、他国を侵略しても良いことなのだと言うことになる。

 現在でも、ロシアや中国のように、自分たちの都合や価値観を善として、そのスタンスの中でウクライナを侵略したり、南シナ海を埋め立てて陸地を作り、その場所を勝手に自国領とし、二百海里を領海として、隣国の主権を脅かしている現状がある。

 

 また、ISやタリバンのように、今もなお聖戦の名の下に、多くの殺戮が繰り返されている現実がある。つまり、人間それぞれの価値観や正義感、哲学によって、いとも簡単に大量殺人は正当化されてしまうのが、この世界なのである。

 

 では、聖書がそのようにする人々を焚き付けて、そうなることを前提にこのような聖絶を記しているのだろうか。

 

 そこで、一つの仮説を立てて、いくつかの可能性を考えたい。その仮説とは、聖書という書物に対する受け止め方として、私たちキリスト者がよく言うように、「神の言葉としての聖書」という立場で考えるということである。

 

 そうすると、こんな意見が出るかも知れない。それは、このような古めかしい宗教的な文書を神の言葉などと絶対化するから、このヨシュア記のような内容の文書も書いてあることを鵜呑みにして、自分たちを正当化する争いが絶えないのだ、と。

 

 それは、本当にそうだろうか。聖書ののヨシュア記だけを神の言葉とするならば、そんな意見も正しくなるだろうが、キリスト教会にとって聖書とは、旧約聖書の創世記から始まり新約聖書ヨハネの黙示録で終わる66巻すべてを指す。

 つまり、聖書全体の文脈という、とてつもない文量の中にある、そこを貫く思想を読み取り、その精神を大切にしながらひとつひとつの事柄について考察するという視点が大事だと言うことである。

 

 特に神を信ずる者という、神との関係性を考えてみるとき、そこに家族への思いに近い、信頼や愛という関係性のベクトルは外せない。それは、愛せる者からのメッセージだとして考えることが前提となると言うことであり、恣意的に一部分を切り抜いて、そこからだけの解釈でよしとすることは危険。いや、それはその手紙を書いた相手への信頼や愛というものが欠如しているということになる。

 

 そうした前提で、このような悲惨な戦争とも読み取れるヨシュア記のような箇所も、神に対する信頼と愛の関係の中から理解しようとする、一つの可能性が見えてくる。

 

 神は聖書を通して理解しようとするとき、いくつかの性質がわかってくる。それが神は聖であり、義であり、愛であるというものである。

 聖とはきよいことであり、穢れていないという意味であるが、その語意としては分離することてある。つまり、罪、穢れから分たれた存在。悪とは決して交わらない存在。

 義とは、その罪穢れ、悪と交わらないどころか、それらを正しく裁くお方であるということである。つまり罪穢れ、悪を決して許さない絶対的存在ということである。

 そして愛。愛とは無条件で相手のために死ねるという、究極の愛である。よくギリシア語にはいつくかの愛があり、その中でいうならばアガペーの愛が神の愛だと言われる。

 それはつまり、フィレオーという友人同士の愛でも、エロースという恋人同士の愛でもない、無条件に相手を受け入れる愛が神の愛なのである。

 

 以上のように、大きくこの三つの性質を神はお持ちであるとして神を信頼して愛するときに、それらの性質を別々に理解するのではなく、同時に受け止めなければならないということになる。

 

 だから、ヨシュア記の理解も、歴史性という現実に起こったこととして読みつつ、イスラエル民族による他国への侵略がそれだけではない、愛する神としての特別なお考えがあってのことだろうと寄り添い、肯定的に受け取るための努力が必要であることがわかってくる。

 

 私が妻のことを愛するならば、彼女の言うことを悪意にとらず、すべて愛という潤滑油をもって善意に受け取ると思う。それが不完全な人間に対してそうならば、完全なお方である神に対しては、それ以上に安心して、むしろ私の思いをも委ねてその言葉を受け入れるのは、非常に大切なことである。

 

 この立場から、今回のようなヨシュア記の箇所も読んでいくとき、そこに聖霊の助けがあり、決して人を殺すことをよしとしたり、多国を侵略することを可とはしないはずてある。

 なぜなら、このヨシュアのことだけでなく、このあとに書かれた新約聖書を見るときに、そこに神の似姿として来られたキリストが、神のことばとして語られ、実践された、完全な人としてのモデルが示されているからである。

 一つだけその代表的な思想、生き方を取り上げると、マタイの福音書にはキリストが捕えられる場面で、敵に対して剣を振るうペテロに「剣を取るものは皆、剣によって滅びる」と、武力によって戦うことをやめさせた場面がある。つまり、暴力に対して同じ暴力で戦うことを神御自身は良しとしないのである。

 

 これが神の基本的なお考えである。よくルカの福音書から、イエスは弟子ペテロにあえて剣を2本持つことを許しているではないか、という意見を聞く。しかし、暴力をそれによって認可しているとは、到底考えられない。弟子12人いて、師であるイエスを入れても13人の集団の防衛に剣2本で足りる訳がないからである。

 

 そういう場面でも、やはりその箇所だけを切り取るのではなく、もっと広い範囲から神の御心を聞いていかないと、やはりヨシュア記の聖絶を現代人の勝手で都合よく利用するだろう。そうであってはいけない。

 

 愛する神の言葉を、私たちは自分の都合に合わせて受け取ってはならないからである。

 

 いじのことから、ヨシュア記の問題が、その時限定の神のきよさの実現の中で特別にイスラエル民族が用いられただけで、彼ら自体が正しかったわけではないと理解できる。だから、ここからイスラエル民族が思い上がって、自分たちこそ神から選ばれた正しい者たちなのだと勘違いしてはならない。

 むしろ、神の前に滅ぼされても仕方ないない者たちが、神の一方的な憐れみの中で、神のことばを信頼して疑わず、神の御心を行う者とされたことに感謝してへりくだって、神を信頼し愛する者として生かされていくのが、聖書全体の文脈から受け取るべきメッセージである。

 

 キリスト教会は、初代教会時代から迫害を受けてきたが、紀元313年にローマ帝国に受け入れられ迫害が終わった。それはそれで良いことあるが、そこから、教会に不幸が訪れる。それは、統治国でるローマ帝国における保護のもと、教会はその受け入れてくれたローマ帝国のそのままを受け入れることになっていくからである。

 

 その強大な軍隊。軍事力を教会はどのように許容していったのか。権力と結びつき、教会は旧約聖書の聖絶をコンテンポラリーに解釈して、軍事力も防衛のために必要悪とし、獣化する国家の手先へと変貌するのである。

 

 その歴史を私たちは通ってきたがゆえに、今こそマイノリティであったときの教会の素朴さと聖書理解をきちんと整理して、悔い改めて現代的諸問題に向かって行かなければならない。

 

 聖絶はもうない。あるとすれば、最後の審判であるキリストの再臨によって、この地上がさばかれるとき、神は御自身の主権により、聖と義と愛なるご性質に基づいて行われる。そこではもう人を使って人を滅ぼすというものではなく、神御自身がそれを行う。

 そのとき、私たちはどちらについているだろうか。今、いのちあるうちに、あなたを愛して御子のいのちを与えられた神に立ち返り、この方を信頼して愛して、光の中を歩ませていただこうではありませんか。