のりさんのブログ

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説教題 「キリストの味方と、逆らう者」

聖書箇所 マタイの福音書12章24節~30節
 
 

 私が子どもの頃、エクソシストという映画が流行って、それ以降、様々な心霊現象を題材にした映画がどんどん出てくるようになりました。そこにノストラダムスの大予言なども流行って、オカルトブームと呼ばれていました。
 でも、このような心霊現象に対する興味は、歴史的に見てもどの時代にもあったようです。日本でも四谷怪談や牡丹灯籠、耳なし芳一の話は大変有名です。昔からみんな、このような幽霊話は好きなのです。でも、そのような曖昧な、悪い霊の話には興味を持っても、正しい霊的な存在である神様の話にはなかなか耳を貸そうとしないのが現状です。
 前回、22節で悪霊につかれた人をイエス様が癒してくださったところまで見てまいりました。その業を行うお方こそ真のキリストである。だから、それを見ていた群衆も、「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言って、神様の救いに近づいていたのでした。
 その悪霊を追い出すことは、まさにエクソシストです。エクソシストとは、単にオカルト映画のタイトルではなく、実際にカトリック教会にある悪霊祓いをする祈祷師のことです。
 今日の箇所は、このイエス様による悪霊祓いの出来事から起こった事件にスポットが当てられます。それは、悪霊が追い出されて、癒されたのはどのような力によって行われたのかという問いです。
 この場面から、悪霊、悪魔の存在や働きについて知り、それがどのように私たちに関わっているのかいっしょに考えていきたいと思います。
 
 
1.パリサイ人たちによる侮辱
 24節を読みます。
「これを聞いたパリサイ人は言った。『この人は、ただ悪霊どものかしらでベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。』」
 
 「これを聞いた」というのは、23節の群衆の言葉の事です。群衆がイエス様のことを「ダビデの子なのか」つまり救い主なのかと導かられていることにケチをつけたということです。それは、聖書の預言がイエス様によって成就したという理解を否定することでもありました。せっかく群衆が神様の救いに近づいているのに、それを妨害したのです。そのケチはイエス様のどんなところにつけられたのか、それが、どのような力で悪霊を追い出したのかということです。
 
 パリサイ人はこう言います。この人はダビデの子なのではない。それは悪霊の親分であるベルゼブルの力で悪霊を追い出しているだけなのだから。
 ベルゼブルというのは、同じマタイの福音書10:25でも触れましたが、悪魔の名前です。ベルというのは「バアル」という偶像の神の名前が短くなったかたちで、もともとの意味は「主」とか「主人」という意味です。それに「ゼブル」がくっついた言葉です。この「ゼブル」は家という意味ですので、直訳すると「家の主人」という意味になります。でも聖書の欄外注には、「あるいはベエゼブル、ベルゼブブ」とも書かれていて、これはそういう意味もあるということです。
 このベルゼブルとベルゼブブは一文字違いで意味がかなり変わってきます。ベルは同じですが、ゼブブとは「汚物」のことです。つまり「汚物の主」という、大変侮辱を込めた意味に変化します。ここでパリサイ人たちがどのような意味で「ベルゼブル」と言ったのかは明確にわかりませんが、イエス様の力を蔑んで「汚物の主」の力で、悪霊を追い出したのだと言ったとすると、神様に対して大変な侮辱であり心外な発言と言わねばなりません。
 イエス様も、25節を見ると「彼らの思いを知って」とあります。彼等の24節のことばには、その言葉以上の酷い意味が込められていたと言えるのではないでしょうか。イエス様は彼らの言った言葉をお聴きになっただけでなく、その言葉の裏にあった思いを知っておられたということです。彼等は、心の深い所で神様の御業を蔑み冒瀆したのです。それで結果的に、群衆がイエス様を信じて救われようとするのを妨害したと言えます。
 
 実は、これが悪魔の目的です。神様のなさろうとすることを妨害する。特に人間が神様に救われることを妨害します。それは、悪魔は既に負けが決まっているからです。よく神様の敵は悪魔だと言われることがありますが、神様にとって悪魔は敵ではありません。確かに敵対する存在ですが、全知全能の神様にとっては滅ぼすべき存在というだけです。もう悪魔は敗北しているのです。でも、悪魔は往生際が悪いので、最期まで神様を妨害し、一人でも多くの人間を自分の道ずれにしようとしているのです。
 これはへぼ将棋と同じだとある牧師が言っていました。へぼ将棋とは私がやる将棋のことです。王手と指すまでやり続けることです。でも藤井聡太四段ともなるとそこまでやりません。途中でやめます。なぜか、それはプロの棋士は王手迄やらなくても勝敗がわかるからです。でも私は最期まで王手と言われるまでささないとわかりません。それをへぼ将棋と言うのです。
 
 悪魔もそれと同じで、もう負けているのに動きまわっているのです。でも、あまく見てはなりません。私たち人間が自分の力でかなう相手ではないからです。滅びの道ずれにされないように気を付けなければなりません。悪魔は敵対する力ですが、必ずしもオカルトだけではありません。むしろ、もっと身近なところにいて、知らないうちに神様の救いから遠ざかるように働きます。このパリサイ人のような人を用いて、もっともそうなことを言って、神様に信頼しても空しいとか、意味がないと思わせます。それは色々な方法で来るので厄介なのです。
それはクリスチャンにも働きます。教会に来なくても一人で礼拝していれば大丈夫という人によく出会います。それは私も若い時に思っていたことでした。でも、それは間違いだったことにあとで気付かされました。それは言うなれば、自分は信仰がしっかりしているという高慢でした。また、集まって礼拝し教会を形成するという神様の御心を蔑んでいることだったからです。
 
 悪魔は私達に悪魔と同じ高慢の罪を犯させて、神様のみことばの前にへりくだることよりも、自分の思いを優先させるのです。でも、その誤りは明白です。それは、悪魔の論理は初めから破綻しているからです。悪魔に従っているものは必ず、その言動に矛盾が生まれるのです。その矛盾をイエス様も指摘しています。
 
 
2.神の国は来ている
 25節、26節。
「イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。『どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。』」
 イエス様はパリサイ人の論理の矛盾を突いています。悪霊が悪霊を追い出すということには大きな矛盾があると。それは内輪もめで、悪霊同士が仲たがいすれば、そのような集団は立ち行かない。悪霊は神に敵対するから悪霊なのに、悪霊を追い出す悪霊がいたとしたらそれは神様の味方になってしまい、もはや悪霊としては崩壊してしまうだろうということです。
 それでイエス様は、27節では「あなたがたの子ら」つまりパリサイ人の仲間で悪霊祓いをしている人のことを持ち出して、あなたがたの仲間の悪霊祓いの働きは、どのように説明するのかと言われたのです。
 
 ここで、イエス様はベルゼブルではなくサタンという悪魔の名前を使っていますが、どちらも悪魔の名前です。悪魔はひとりですが悪霊は大勢います。ちなみにサタンとは「逆らう者」という意味です。それがベルゼブルなどとも呼ばれる悪霊たちのかしらのことです。サタンは悪霊たちを従えて、神に敵対する霊的な存在として、四六時中休むことなく人間を誘惑するのです。
 
 しかしイエス様が行っている悪霊の追い出しは悪霊の力ではなく、18節のイザヤの預言で言われていた通り、神様の霊、すなわち御霊によって行っているのです。そうであるということは、神の国が来ていることの証しであるということです。28節。
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」
キリストが来られた。それは同時に神の国が到来した。神の支配がはじまったことを意味しています。
 それは、神の国の祝福と力が私たちの生活、人生、世界、その全領域までも及び、悪霊たちを束ねるサタンすらその手中にあるということです。もはや悪霊の働きはキリストを通して働かれる御霊によって、その親分であるサタンをいつでも縛ることができる状態に入ったことを意味しています。サタンを縛ればそれだけで悪霊の働きは終わるということです。
 将棋も、いくら駒を多く残していても王将を一個取られたら勝負はおしまいであるように、悪霊の親玉サタンを縛る権威をお持ちのお方が来られた以上、もうここでこの勝負はついたということです。ここで主なる神の前に、神が遣わしたメシアであるイエスの前に、悪魔の敗北が決定的になったのです。
 
 
3.キリストの味方か、逆らう者か
 ここでイエス様は、一つの立ち方、生き方を述べられます。30節。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」
 
 それはイエス様の「味方でない者」すなわちそれは「逆らう者」つまりサタンの側にいると。同じようにイエス様といっしょに、救われるべき魂のために労しない者も「散らす者」すなわちサタンの側にいるということです。神の側にいるということは集める者、集まる者です。教会に集めること、集まることは神の側にいる証しです。ですから、新型コロナで集まることに制限が必要だというのは、ある意味、「散らす者」の力が働いていると言えます。だからこそ、今、私達は神様の知恵によって、このようなときにもどうしたら集めることができるか祈り求めていく必要があります。
 
 同時に、ここでイエス様がおっしゃっているのは、イエス様の味方か、逆らう者かという問いでもあります。ここまでパリサイ人の24節の言葉から、悪魔の存在、その働きについて論じてきたが、あなたはどっちなのかということです。
 ここにはっきり言えるのは、中間の立場、どっちでもないという選択肢はないと言うことです。主イエスの味方でないならば、残り全員がサタンの側にいる。つまり、サタンと一緒に滅びる方に向かっているのだ。これは、とても厳粛なことです。それはサタンが目指している滅びへの道連れにまんまと乗ってしまっているということになります。サタンの側にいるという自覚があるかどうかでなく、キリストの味方であると、キリストを信じて洗礼を受けて、キリスト者として神に喜ばれる生き方を望んでいないならば、必然的にサタン側になるということです。
 
 サタンの常套手段は、信じていない人たちを益々頑なにすること。また信じている人をも脱落させようとすることです。そこに共通するのは神様への不信感であり、神以外のもので満足することです。
心のすき間を、神様ではなく、他の方法もあると思わせて、神様の救いを相対化させるのです。イエス様でなくても良いとか。神様ならばどんな神でも良いとか。または自由とか民主的にとか平和という言葉の中に、人間中心的な教えを盛り込んで、聖書の真理から遠ざけようともします。優先順位がいつも自分となり、自分の価値観、自分の好み、自分の方法、みんなそれぞれで良い。自由なのだから。いつも自分がバイブルですので、いくらでも基準の変更はOKです。「自分を信じる」ことが大事となり、もうそこには神様の基準やみことばの真理よりも、神様抜きの人生の謳歌が語られるのです。それがアダムとエバの子孫である証拠なのですが、そのアダムとエバの出来事すら神話だと言って本気にはしません。
 
しかし、もし私たちが主イエスを信じ、告白し、神様の望まれるように生きたいと願うならば、だれも私たちに敵対できません。それは神の味方であり、神があなたの味方だからです。悪魔すら、神の味方になった者を地獄の道連れにすることはできません。なぜならば、神の味方が罪に定められることはないからです。パウロは言いました。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」またこうも言っています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私達に敵対できるでしょう。」
 サタンは、主イエスを信じて主の味方として歩もうとしているあなたのことを、責め、その弱さをほじくり出して、おまえはダメだ。神の国に入るなんてふさわしくないとがっかりさせるようなことを思わせて、信仰生活から喜びを奪おうとしているかも知れない。また、逆に、自分は正しいということをことさらに思わせて、へりくだることを忘れさせてパリサイ人のようにならせようとしているかも知れません。
 
結び
 そこで、大切なことは、自分はいったい本当にイエス様の味方なのか、逆らう者、散らす者なのか吟味することです。その吟味の方法は、神があなたにどれだけの恵みを与えておられるのか、その恵みへの感謝が薄れているならば、もう一度、イエス様が、神に逆らうあなたの代わりに神に逆らう者となって十字架についてくださったことを覚えることです。その恵みに感謝して、あらためて主の味方にされた恵みを味わいましょう。私達が神の味方になれたのは、主イエスが神様の敵として十字架で処刑されたからです。
 今週も、逆らい散らす者ではなく、キリストの味方として、救われるべき魂を集める者、主のもとに連れてくるもの、そして私たち自身が集まる者として、立たされてまいりましょう。

主がともにおられること

"契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。

 

「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」


またそれがとどまるときには、彼は言った。

「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」"


民数記 10章35~36節

 契約の箱は、神の臨在を現すシンボルでした。その箱を手がかりにイスラエルの民は、主がともにおられることを実感できたのです。でも、それだけではありません。主の臨在が事実であることを、指導者モーセは祈り求め、主が立ち上がって敵を散らすように願ったのです。

 そして、その契約の箱が留まるときには、神もまた民の中にあって、民と一つとなってくださることを求めたのです。

 私たちの信仰も目には見えない部分と見える部分があります。それは、いつも一つでなければなりません。

 そのことを神はイスラエル民を通して予め教えているのです。神の臨在を視聴覚教材によって示して、その信仰がなくならないように助けていたのです。

 私たちも、見えないものを見えるようにして生きることが求められています。今日も、その見えない方を見えるようにして仕えてまいりましょう。

 

葬儀終了

死亡してから14日間、発見されてから10日間経ち、さすがに遺体の変化も進む中、昨日ようやく葬儀全てが終わった。

 

とても長く感じた10日間だった。

とりあえず、一連のことは終わった。

多くの方々がおいでくださり、またお花料をもって励ましてくださり、葬儀にかかる一切のことが無事に賄われた。

 

死は突然くるので、葬儀費用は正直痛いところ。しかし、この度、葬儀社のグロリアス様の配慮により、一般会葬を設けていただき、コロナ禍にあっても多くの方々に来ていただける方法をとった。

 

また会場として会堂を貸していただき、葬儀の司式から対応に至るまで喜んで受けてくださった東栄福音キリスト教会の遠藤牧師はじめ教会員の皆さまには、ことばには表せないほど感謝している。

 

私たち家族にとって、いまだホームグランドであることをあらためて感じた。

さあ、これから、あらためて日常が始まる。気持ちを切り替えて、進もう。息子を失った感は拭い切れないが、希望があるのだから。

 

また御国で会える希望は大きい。

神は偉大である。どんな困難にも耐えられる力を日々与え、また成長させてくださる。やはり、神のなさることは全て時にかなって美しいのだ。

葬儀

今日18日(月)は16時〜20時まで息子のための一般会葬、19日(火)は10時から近親者のみで告別式。

 

コロナ禍にあって、どのように息子がお世話になった方々に来ていただくかというところで考えられた新しい葬儀のかたちかも知れない。

 

コロナが広まってから、葬儀は家族葬が多くなり、実は全国的に見て廃業に追い込まれている葬儀社も多々あると聞く。

大きな葬儀場を持ち、大勢の社員を抱えているところは、維持費や人件費が半端ではないので、家族葬であれば、かなりの数をこなさないと経営が追い込まれるだろうと推察する。

 

話は横道に逸れたが、先程、「息子のための葬儀」と言ったが、実はその表現は、半分あっているが、半分間違っている。というのも、確かに死んだ人間のためと思って集まるように設定されるが、死んだ本人は、もうそこにはおらず、あるのは遺体であり、遺族だからである。

 

遺族もそうだが、死が悲しい理由の多くは、もう会えないという寂しさや、生前にもっとこうしてあげれば良かったという後悔があるからだと思う。それは、私もそうだからだ。そのようなことは、故人と親しくしてくださった多くの方々も同じだと思う。

 

だから、葬儀くらいは行って最後のお別れをし、弔いたい。または家族を失った遺族のため、少しでも慰めになればという労りの思いで集まるのではないだろうか。そういう意味では、葬儀は今生きている人の思い、心残りを何らかのかたちで果たしたいという願望を満たすことのためではないかと思う。

 

いずれにしても、死んだ人を葬ることは、決して間違ってはいない。ただし、それをあくまで死者のためではなく、その故人をつくり、いのちを与え、生まれさせ、一定の人生を支えられた神の栄光のために行わないと、故人への弔いが故人を拝んだり、呼びかけたりして神格化させ偶像化してしまう。

 

葬儀で大切なのは、故人への思いで満たされ続けることではなく、死というものをあらためて考え、なぜ死ぬのか。なぜ死を私たちは恐れるのか。なぜ長生きをしたがるのか。そのいのちの大切さ、また人生の意味について、その人の死を通して生きている人が、自分の生き方を顧みるときではないかと思う。

 

聖書にこうある。

"祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。
知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。"
伝道者の書 7章2~4節

悲しみを覚える時、人は考えさせられる。嬉しいときには気持ちが浮かれて、なかなか思えないことも、悲しみの中では深く考えさせられる。そのとき、実は神に出会うチャンスなのだ。そこで、神の存在を知り、神に生かされている事実に気づく時、生きている時から神と出会うこと、また神のために生きることがどれほど死を迎えるまでに大切なことかを覚えるのだ。

 

この度、息子の死を通して、そのことを身近に覚えたし、また学ばされた。結局のところ、全てが聞かされているとおりなのである。

 

"あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。"
伝道者の書 12章1節

"土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。"
伝道者の書 12章7節


"結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。"
伝道者の書 12章13~14節

 

息子との別れ…その3

 結局、司法解剖しても、科学捜査研究所での薬物検査をしても死因を特定することができなかった。

 息子の足取りは、1月3日夜11時過ぎにマックで買い物をしたことが、レシートからわかっている。その後は帰宅したと思われ、1月4日の0時半くらいにYouTubeの閲覧履歴が自宅のノートパソコンに残っていたことから、死亡したのはその後ということになる。

 息子はほぼこたつ生活で、ストーブは使用していなかった。だから、昨年末から年越しまで続いた寒波による影響は確かに受けており、外気温はマイナス10℃を下回るほどの寒さだった。しかし、警察の調べでは死因は低体温症からの凍死でもないとのこと。

 つまりどこも死に至るような欠陥がないにも関わらず、命だけが召された状態。それは、まさに天に召されたとしか言えない状況。

 死亡診断書は死体検案書という名称になり、昨日区役所へ死亡届を出した。そこで火葬許可書ももらい、いよいよ明後日18日(月)16時からは一般の方向けの会葬となり、19日(火)は近親者のみで告別式が行われる。

 一輝の死亡推定日時が1月4日未明だとすると、葬儀まで遠かったと思う。まる二週間、息子の遺体は警察と北大を行ったり来たりして、今は葬儀屋さんの安置室に置かれて、ようやく彼の所属する東栄福音キリスト教会へ移動となる。

 でも、覚えたい。彼の霊は既に神のもとにあることを。確かに別れは辛い。しかし、彼に対する後悔で押し潰されてはならない。私も至らない父親だった。そのことはそのこととして悔い改める。しかし、神が私たちに求めておられるのは、亡骸に執着して悲しみ続けることではない。むしろ、既に神のもとにある祝福の恵みに感謝し、このことを神の恵みの業であると証しすることである。

 それを最善を尽くして行うとき、彼の死が悲しみだけで終わらない永遠の祝福への門出として喜ぶことができるのだから。

"あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。"
テモテへの手紙 第二 2章15節

すべてに時がある〜神のなさることは…

"すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。
働く者は労苦して何の益を得るだろうか。
私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。"
伝道者の書 3章1~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

一輝を愛してくださった方々へ

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 次男一輝は、1989年9月19日に滝川市で誕生日しました。

 私には3人の息子たちがいますが、全員の出産に立ち会っています。ちょうど仕事にも差し支えのないときだったのです。

 一輝のときもそうでした。一輝が生まれたとき、羊水を飲んでいたのか直ぐには泣きませんでした。それで助産師さんがカテーテルを一輝の口から入れて、何かを吐かせてようやく泣いたのを覚えています。

 その一輝が生まれて間もなく私たち家族は転勤で札幌へ引っ越して来ました。それが東栄福音キリスト教会との出会いでもありました。私たち家族を東栄教会の皆さんは暖かく迎え入れてくださり、子どもたちも可愛がってくださいました。

 一輝は生まれたばかりの赤ちゃんだったので、教会の子どもたちも格別に可愛がってくれて、遊んでくれました。

 一輝は小学二年生のとき、阿部先生を通して受洗しクリスチャンとなりました。その後、中学生からソフトテニス部に入り教会を休むようになってから、徐々に信仰からも遠ざかっていきました。

 その後、せっかく進学した高校にも行かなくなり、家からも遠ざかって行きました。当時の私たちの家庭が彼の居場所ではなかったからです。

 それでとうとう高校も単位が足りずに卒業できなくなり、彼は高校中退となったのです。これが、そのあとの彼の人生を大きく狂わす要因となります。

 この間、何度も頭を打つような事故を繰り返します。その都度、生きるか死ぬかというギリギリのところでかろうじて命は守られて来たと思います。

 でも、あるときとうとう、これまでの頭部打撲が起因しているかどうかは不明ですが、彼は統合失調症と診断されます。それ以降、仕事ができなくなり、生活保護を受けつつ精神科に通いながら、社会復帰を目指して歩んでまいりました。

 そして、今年、元職場の上司の方によくしていただき、再就職を向かっていた矢先、彼は1月4日未明に何らかの原因で息を引き取りました。死因について、警察が北海道大学での司法解剖と、体内の薬物検査のため科学捜査研究所でも検査等を行いましたが、結局、原因不明の突然死だということになりました。つまり、死因不明だったのです。

 ですから、突然いのちが取られたとしか言いようがない死に方だったということです。私が思うには、彼のこれまでの生き方は常に同じことの繰り返しの中で苦しい思いをしてきました。

 順風満帆だと調子に乗って酒を飲み過ぎて怪我をする。また財布をよく落とす。

 今回も状況的には似ています。でも、彼にとって社会復帰に向かう希望の持てているときに、もうそこまでと特別にピリオドを打ってもらい、痛みも恐怖も苦しみもない状況て天に召されたのだと思います。

 この度、確かに若くして亡くなり悲しいですが、彼にとって希望の中で、そのまま天国へ向かったのだと思うと、幸せな死に方であったと考えております。

 何よりも、彼の病気が発症したとき、私は神学生で手も足も出ない状況の中、東栄教会の遠藤牧師が足繁く一輝を訪ねてくださり、彼の散らかって汚い部屋に上がって祈りとみことばの交わりを続けてくださったことにより、彼の信仰が回復したことは、間違いなく天国へ向かったのだという確信を与えてくれます。

 これまで一輝を愛し関わってくださった皆様へ、心からの感謝を申し上げ、御礼の言葉とさせていただきます。

 また、これから葬儀があり、そのあとも一輝の部屋を片付け、携帯電話等の契約を打ち切る等手続きがありますので、潤滑に一つ一つ処置できるようお祈りいただければ幸いです。