のりさんのブログ

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主は宮で私の声を聞かれる

私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた。
詩篇 18篇6節

私たちは神に祈ります。私たちの声を、叫びを、願いを主に祈ります。その祈りは、どこにおいてもささげることができます。

 

しかし、神はあえて祈る場を設けられました。それは、神との会見の場であり、交わりの場です。その時間、その場所を聖別することの大切さを示しています。

 

かつてイスラエル民族が荒野を旅する時、主は幕屋をつくるようにモーセに命じられました。そして、イスラエル王国が確立して、ダビデを通してソロモンによって神殿が建てられました。

 

それは、神を礼拝するためであり、そこで時間も場所も聖別して、神と交わるためでした。

 

しかし主イエスは、こう言われました。

 

"イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。"
ヨハネ福音書 4章21節

 

それはこれまで限定された場所だけではなく、それぞれのところでも神と交わり、神への祈りをささげられるということです。

 

では、今日、お読みした詩篇はもう無効なのでしょうか。そんなことはありません。やはり、私たちは宮で祈るときに神は聞いてくださるというみことばを今の私たちへのみことばとして受け取る必要があります。

 

それは、やはり神との時間や場所を聖別し、最善を尽くして、その時を設けるという、神への献身が問われているからです。

 

だから主イエスはこうも言われています。

 

"あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。"
マタイの福音書 6章6節

祈る時は、家の奥の自分の部屋に入りなさいとは、神と交わる祈りの場所、時間を聖別することです。

 

ですから、やはり礼拝する日である日曜日は、同じ信仰をもつ仲間とともに教会に集まり、礼拝をささげる。また、日々のディボーションにおいても、私たちなりに、家の中の自分で定めた主と交わる部屋で、決めた時間に神に祈るのです。

 

それは、義務や形式ではありません。なぜ、そう行うのかという理由をきちんと受け取ることが大切です。その理由とは、そうすることによって「御耳」に届くからです。また、そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださるとみことばが約束しているからです。

 

より、主に近づけること。より愛すること。それを今日も求めてまいりましょう。