のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

「闇に輝く大きな光」


 イザヤ書9章2節〜マタイの福音書4章15〜16節
 この節の中心テーマは闇に光が輝くという希望である。その理由は、闇の中で見る大きな光、死の陰の地の上に輝く光に現わされる神の恵みによる救いが比喩的に示されているからである。ゆえにこのイザヤ書における9:2の役割としては、9章前半自体がそうであるように、イザヤを通して語られる他のさばきの預言の中にあって、読者に希望を与えていることがわかる。特に、1~2節には、3~7節の具体的なメシア預言を効果的に照らす役割があると言うことができる。
 ヘブル語聖書では、9章2節から9章が始まる。そして、ここからまた詩文体になる。この部分が8章19節から9章1節と密接な関係を持つことは、この2節のテーマである「光と闇」の対比から明らかにされる。ここで言われている「闇」とは何か。また「光」とは何か。その二つのキーワードに注目しつつ、この2節から広がるイザヤの預言に聴いてみる。
 
1.闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち
 まず闇についての部分。「闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち」という表現である。ここでは闇の中ということばと死の陰の地が対応しており、歩んでいた民と住んでいた者たちがそれぞれ対応している。
 この「闇」と「死の陰」は、BC734年~732年にアッシリアのティグラセ・ピレセルが侵入して、占領した後の悲惨な状況のことだと言われている[1]。
 ここでは同じような意味でありながら、後半のことばによって、より具体的に救いが表されていることが分かる。それは、同義的並行法によって互いの意味を補い合っているからである。そこに「死の陰の地」と言われることで、当時の文脈としては、その闇というのは、民が受ける圧制であったり、苦難であったり、苦しみを表す暗黒であることがわかる。闇の中でも死の陰の地においても、そんなところを歩まなければならない苦しみがあり、そんなところなのに住まなければならない辛さがあることがわかる。その闇の中、死の陰の地で苦しむ民にとって必要なことは何だろうか。そのような自分ではどうすることもできない状況で、彼らにとって必要なのはメシアである。そのメシアへの希望。メシア自身が光として来臨する希望である。8章や9章8~10章4節に悲痛さが示されているのは、この預言が語られた時代での闇の状況であり、それによって、闇をも滅ぼすことができる光であるメシアへの渇望を表わしている。
 
2.大きな光を見た(る)~光が照った(光り輝く[2])
 次にその光について語られている部分をみる。「大きな光を見た~光が照った」という表現である。ここでは大きな光を見たことと光が照ったという言葉が対応している。
 それぞれの行の主動詞「見た」と「照った」は完了形であり、イザヤの目には、暗黒の闇の中に差し込む大きな光がはっきりと見えていたことがわかる。異邦人のガリラヤはまさに神の光栄を受けることが宣言されたのである。
 ここでも一見同じようなことを言っているようでありながら、民が見た「大きな光」がただ偶然そこにあったというよりも「照った(輝く[3])」という、光の出現の必然性を見ることができる。しかも、その光は暗闇の中にいる民の遠くにいて光っているのではなく、死を覚悟し、いのちを失いかけている民の真上に輝いているという救いであることがここに示されているのである。
 それが救いの光であり、神がもたらすメシアによる救いの預言であった。それは、神がイザヤを通してユダの民への救いの希望を与えるためであり、これから起こる背教への神のさばきとしての苦しみがあるが、必ずそこには救いの希望があることを予め示したものである。この希望はそれから約700年後にイエスによって成就した。
 
3.マタイ4章15~16節への引用
①文脈:イエスの宣教第一年開始のとき、バプテスマのヨハネガリラヤの国主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられたことを聞いて、イエスガリラヤに立ち退かれて、その宣教はガリラヤから始めることになった。そのことをマタイは「預言者イザヤを通して言われたことが、成就するためであった」として、イザヤ9章1~2節を引用した。
②歴史的関係性:イザヤの預言どおり、ガリラヤ地方はBC8世紀にアッシリアによって侵略され、イスラエル人は捕虜としてアッシリアに連行され、アッシリア人が植民地として移住した。そのためガリラヤに残留したイスラエル人には異邦人の血が混じって、イエスの時代には、ユダヤ地方の人たちからは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ蔑まれていた。
③イザヤ9:2とマタイ4:16との比較
Is.「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
Matt.「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 日本語訳での大きな違いは「歩いていた…住んでいた」が何れも「すわっていた」となっている点である。これはヘブル語では「住んでいた」יֹשְׁבֵי֙ yō·šə·ḇê に含まれる別意であるが、何れもギリシャ語で「すわっていた」καθημένοις(基本形κάθημαι[4]=座る)と訳することで、歩くこともできず、虐げられてうずくまって身動き取れなくなっている状態を表わしていると考えることができる。マタイにおいて民の状態が窮状化しているのは、イザヤが預言したときから比較して、その時期が極まったことを表わしていると推察できる。
④メシアであるイエスは世の光としてこの世に来られた[5]。その救いの光であるイエスは、「異邦人のガリラヤ」に代表されるように、罪の暗闇で虐げられている人々、罪の報酬である死の地、死の陰で、立つこともできずに、ただ滅びを待っている悲惨な者を救うために来られたのである。つまりメシアは政治的な支配者としてではなく、人類全体のための罪からの解放者として表わされているのである[6]。
ヨハネが捕らえられたことは、光であるイエスが来られた世界がいっそう「暗やみ」、「死の地と死の陰」であることを証明していると考えられる[7]。
 
4.まとめ
 イザヤ9:1~2の預言は、表現としては婉曲的ながら、イザヤ9:6~7の預言との連続性の中で、マタイ4:15~16でその成就が明確に証しされているように直接的成就だと考えられる。バビロン捕囚以降、クロス王による解放を見ても、このガリラヤの地でイエスの出現以外、他に類を見ることができないからである。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12


[1] 鍋谷尭爾『新聖書注解旧約3』(いのちのことば社,1982)p.542
[2] 新改訳2017
[3] 新改訳2017
[4] Buhner,J,A『ギリシャ新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館, 2015)p.274
[5] ヨハネ1:4~9、8:12、
[6] この箇所だけを見るとメシアは悪魔に対する勝利者であり解放者である新しい天の御国の王として、悪霊や病気で苦しんでいる人を霊的な祝福によって、その御国へ招き入れるという面だけが見える。
[7] ヨハネ1:6~8