"さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。
見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。
彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」"
エレミヤ書 1章17~19節
私は伝道者として、主から召していただいたと確信しています。でも、それはそもそもは義とするために選んでいただいたとも言えます。それは、神の子どもとするためでもあり、主の弟子とするためでもあり、永遠のいのちに与らせていただくためでもあり、様々な多くの内容を含んでいます。
その中でも、現代における預言者としても召していただいている。預言者として立たされ、預言者として語るようにも召していただいていると思います。それは、ある意味全てのクリスチャンがそうです。
預言者として語るというのは、このエレミヤのように、語りづらいことを語るということを意味していると思います。それは、主のさばきであったり、罪の指摘、また悔い改めの迫りであったり、人が聞いて不快に思うようなことも、主からの言葉として語らなければならないことがあることを自覚しなければならないということです。
ただし、誰よりもへりくだって、誰よりも低くされて、この務めに立たねばならないと思います。
今朝は上記のみことばをとおして、あらためて腰に帯を締めて立ち上がりたいと思います。人を恐れることなく、怯えることなく、しかし、主の前に、あのバプテスマのヨハネがそうだったように、「わたしは、その方の靴のひもを解く値打ちのないものです」と日々覚えていきたいと思います。
そんなことを今朝、みことばを思い巡らす中で考えさせられました。