のりさんのブログ

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人を神格化する危険

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"さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。
群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。
これを聞いた使徒たち、バルナバパウロは、衣を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んだ。
「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。
神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」
こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。
ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。"
使徒の働き 14章8~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 人間は、自分よりも上回る能力を持った人や不可思議なものや現象、驚き怪しむものを神とする弱さがある。

 そもそも、日本人の神は、カミであり八百万の神とも言われ、各地にある神社を見れば、その多様性は明らかである。必ずしも天照大神だけではない。徳川家康東照大権現であり、菅原道真太宰府天満宮に祀られている。鰯の頭も信心からと言われるが、本当にイワシの頭を祀る神社もある。

 今日の聖書箇所からは特に人を神とする危険について考える。

 日本では近代に入って天皇を現人神とするようになった。これは明治維新以降に始まった国体教育の一環であり、その歴史は浅い。確かに日本書紀古事記を事実として大和朝廷はその権威づけを狙った。

 しかし、天皇を現人神として確立させたのは明治以降である。それは富国強兵によって欧米列強と肩を並べることに尽力した結果、日本に足りないことがいくつもあり、その中でも明治政府が注目していたのは、欧米列強に共通する精神的土台である。

 その頃、日本が関わっていた列強の国々はオランダ、イギリス、フランス、アメリカ等であり、その全ての精神的土台にキリスト教があることに気がつく。しかし、キリスト教はこれまで300年も弾圧してきた宗教である。日本に同じように取り入れるわけにもいかない。おそらく取り入れていたとしても、当時キリスト教1800年の歴史を持つヨーロッパと19世紀でようやく近代化を図ろうとする日本とでは、根付いているキャリアが違いすぎる。

 いずれにしても、日本は国民の精神的土台をキリスト教にはせずに、その代わりに神として刷り込もうとしたのが天皇の神格化である。だから、国学を重んじ日本書紀古事記など、かつて大和朝廷が利用した御伽噺を教科書にして、天皇への必要以上のリスペクト化が始まったのである。

 前置きは長くなったが、結果的に神でないものを神としてしまったツケを払わされる時が来たことは周知の事実である。現人神という妄想を国民に押し付け、その神である天皇の臣下としての国民、臣民として、いのちをささげるという、今頃十字軍である。

 そして、神風が吹くという神話も相まって、無謀な作戦で無謀な戦争を続け、敗戦を迎える。多くの国民が天皇の名の下に命を失った。天皇陛下万歳を叫ぶか、お母さんと叫ぶか、その建前と本音が混じり合うところだが、多くの若者が散っていった。

 パウロバルナバも神になりかかった。しかし、「かろうじて」難を逃れた。

 私たちも誰かを必要以上に持ち上げたり、虜になる気持ちに注意しなければならない。また、持ち上げられた時に、神になろうとする自分がいることも、いつも警戒しなければならない。

 いつもきよい神の前に立ち、いかに自分が汚れたものかを思い知り、そのようなものを愛して御子を送り、御子の贖いを通して神の子どもとしてくださり、神の働きに召しておられることへの感謝に溢れたいものである。