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「断食の訓練」〜霊性の神学における考察

 

「断食」は、現代社会では時代錯誤のように映っているのではないだろうか。しかし、聖書は頻繁に断食を述べ、世界のキリスト教会も幾世紀にも渡って熱心に実践してきた歴史がある。ところがその実践も形骸化し、宗教儀式として本来の意味を履き違えたところに断食の衰退の原因を見る。 また現代社会の飽食文化や極端な健康志向も断食に対する偏見を生んでいる。だからこそ、あえて聖書に帰り、聖書が繰り返し述べている断食について、「現代の視点」で見直すことが有益であると捉える。

1. 聖書における断食
聖書では一貫して、断食は霊的・信仰的な目的のために食物を控えることを意味している。有名な断食は、福音書の悪魔の誘惑を受けられるイエスは荒野において 40 日 40 夜断食後、みことばによってサタンに勝利した 1。
聖書全体を見渡しても、断食は個人的にも公にも、神との関係の中でもたれていたことがわかる。特に集団による断食は、直面した課題に対して一つの心で結束し、共に対処する備えがある人々が集まる、素晴らしく力強いものである。エステル記でも、ユダヤ人の集団が一致した祈りと断食によって、表面的だけでなく本質的な癒しを体験できた 2。

2. 断食は命令か
では、聖書はすべてのキリスト者に断食を義務付けているだろうか。イエスは施しや祈りをその教えの中から除外されていないように断食も除外してはいない。しかし、断食をすべきだとは言っておられない 3。それを適切に行う相応しいときがあるということを示している。花婿のたとえで語られた「花婿が奪い取られる、そのとき、彼らは断食することになる4」その日こそ、主の死と復活の三日間だけでなく、まさに現代の教会の時代であるとアーサー・ウォーリス 5 は結論づけている。 このことから聖書は、断食を命令ではなく、私たちキリスト者に期待していると言うことを認めることができる。

3. 断食の目的
ここで断食の目的に注目しなければならないが、注意すべきは断食によって神をコントロールしようとすることである。だから断食は主を礼拝することの連続性の中にある「祈り」の霊的訓練として意識付けすることが大切である。スポルジョンもウェスレーもその重要性を強調する。 また極端に禁欲でもない。断食によって露わにされていく自己を知り、そこからキリストに向かわされるのである。その他、生活のバランスを保つことや執成しの祈り、意思決定の導き、束縛からの解放、身体的健康等において神に求め続ける人に神が報いてくださることを体験を持って味わうことができる。

4. 断食の実行
最後に、その断食を今行おうとするなら、ある程度、学びと訓練が必要である。まずは、24 時間継続の短時間の部分断食を行ってみる。その日の昼から翌日の昼までが最も良いとされている。
何れにしても、断食の実行は、聖書に根拠があることを忘れてはならない。それは、断食には断食を伴う祈りでしか経験できない霊的な領域における数々の発見と躍進をもたらすのである。

1.マタイ 4:1~11、ルカ 4:1~13
2.エステル 4:16, 9:26~32
3.マタイ 6:16~18
4.マタイ 9:15
5.Wallis, Arthur.(1922~1988), was an itinerant Bible teacher and author in UK.