のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

息子との別れ 続き

本日、司法解剖北海道大学で行われ、明日警察署に息子の遺体が帰ってくる。

 

私は昼過ぎに葬儀屋さんと一緒に迎えに行く。その夕方に納棺式を済ませ、葬儀は、おそらく来週になると思われる。

 

生前息子を愛してくださった、息子の友達、元職場の方々等が最後のお別れができるように、一般会葬を設けて、随時来ていただき、三密にならないように来ていただけるよう工夫をしてくださるという。そのような時を設け、次の日の朝に親戚、関係者のみで告別式を行う運びになると思われる。

 

明日、あらためて牧師と葬儀屋さんと話し合った上で、正式に葬儀の告知を行いたい。

息子との別れ〜私よりも先に…

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1月8日(金)13時半過ぎに、警察から電話があった。

 

それは私の次男死亡の知らせだった。警察官の話によると、本日の昼頃に、息子と親しくしている同じアパートの隣人が、最近次男の気配がしないことを心配して訪ねたら、部屋の入り口付近でうつ伏せに倒れていたとのこと。すぐに救急車を呼ぶも、既に心肺停止だったため、救急から警察の対応になり、まずは私に一報が来たということ。

 

まずは、一般的な検死をして死因を調べるとのことで、北大病院へ遺体を一度運び、その後警察署に戻るので、そのときにまた連絡をくれて、遺体の本人確認をしたいという話だった。

 

夕方に警察から電話があった。私は妻と、私の出身教会であり、次男の所属教会でもある教会の牧師とともに警察へ向かった。着くと狭い取調室へ通され、そこで基本的な事情聴取、息子の経歴等を聞かれた。そこそこ話が終わった頃に、遺体安置室へと向かった。

 

そこは、一度外に出て、外から回らないと入られない一枚ドアの狭い部屋だった。外気の寒さで遺体の腐敗が免れていると思われるほど寒い、2、3畳ほどの小さな部屋。そこに遺体があった。担当刑事が遺体の顔にかかっている布を取り「ご確認ください」と言った。

 

間違いない。間違いなく息子の顔だった。その光景は一生忘れないと思う。部屋で、うつ伏せに倒れていたので、顔は真紫で、痛々しかった。冷たくなって、頭を撫でても、顔をさすっても起きない。まさしく息子は死んだのだ。

 

まだ、その死が事故なのか、事件なのかは不明だ。今、必死に警察が調べてくれている。

 

それにしても、息子が死ぬということが、これほど悲しいとは…。

わかっていても気を抜くと黙っていても涙が込み上げてくる。

 

今まで色々あった息子だったが、やはり、いつまでも私の可愛い子なのだ。

 

ただ、彼が幼いときに主イエスを信じ告白し洗礼を受けていたことは、親としては何よりである。途中、教会から離れていたが、所属教会の牧師が足繁く訪ねてくださり、息子は信仰を回復した。回復したというよりも、新生したのだと思う。

 

それからは彼自身の口から信仰の話が出るほど、息子は新しく変えられた。病気を患っていたが、今年から社会復帰すると意気込み喜んでいた矢先だっただけに、この死がどんな状況で起きたのか、非常に気になるところではあるが。

 

この別れは悲しすぎるが、彼は、私たち地上の旅人であるキリスト者が日頃憧れている天の御国に先に行き、そこで主とお会いしている。天に希望のある人生において、彼は私よりも先に、その祝福に預かっている。

 

ずっとがんばってきた彼だから、今は私よりも先に目の涙をイエス様に拭っていただいているに違いない。そこで、私が逝くまで、ゆっくり休んでいてくれ。父さんもいずれ、あとで行くので。また会おう。

 

だから私も主だけを仰ぎ、その天の希望のゆえに、今与えられている務めを果たしていきたいと思う。

 

"しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」"
サムエル記 第二 12章23節

「わたしが休ませてあげます」

マタイの福音書11章20節~30節
 

 今年は、皆さんにとってどんな一年だったでしょうか。私は、正直に言うとかなり疲れを覚える一年であったと感じています。私は2018年の4月から白石教会の牧師として奉仕させていただいておりますが、体内時計が狂うような感覚は、今年の春からのコロナ騒動が初めてです。
 これまで、葬儀が続いたり、奉仕が続いて忙しいという疲れはありましたが、それは牧師としての日常であり、普通のことです。しかし、今年は普通ではありませんでした。
 まず週日の集会を休会にしなければならないという非日常。聖書研究会や祈祷会までも停止する、そして何よりも会堂での礼拝をやめるというのは、37年の私のクリスチャン人生の中で初めてのことです。また説教原稿を土曜日までに到着するように準備するとか、一度、事前に説教を録画して日曜日に配信するとか、これまで考えていなかった方法で主の日の備えをするというのは、私の体内時計を大きく狂わせました。
 今は、非日常が続いているとはいえ、春の時のような無理はしていませんので、随分心が軽くなりました。
 そんな一年を振り返って、ふと思ったのは、今年の年間聖句に「あなたの行く道すべてにおいて主を知れ」とありますが、本当に「すべての道」で、どんな時にも主を知っていたか。それは言い換えると、どんな困難があったとしても、また、嬉しいことが続いたときも、いつでも主を認め、主を愛し、主に栄光を帰していたのか。それが問われました。
 というのも、私たちクリスチャンは主を信じ、主の前に重荷を降ろし、主に従う者で、確かに主のくびきも負う者とされましたが、そのくびきが本当に負いやすいものだったのか。その荷は軽かったのかと言えば、そうではない気がするからです。イエス様を信じて、本当に私は休んで、疲れを癒されているのか。そして、主のくびきの売りである「負いやすさ」を味わっているのか。主の荷物の軽さを実感しているか。そのことを思わされるのです。
 そのように一年を振り返り、自分の歩みが果たして主の前に相応しかったのか。そのことを今日、このマタイ11章20節以降のみことばから学べることは、神様の摂理、そのご配慮は素晴らしいと言わざるを得ません。
 今日の中心聖句は、有名な28節のみことばですが、これは多くの教会の屋外掲示板にでもよく見るみことばです。それは、イエス様を信じたら、そのようになれますよと言う福音だからです。
 皆さんはいかがでしょうか。主の前に重荷を降ろして休んでいる一年だったでしょうか。たましいに安らぎを覚える一年だったでしょうか。
 
1.さばきの日には罰が
 今日の説教は、20節から24節と25節から30節に分けることができますが、実はこの25節から30節が11章全体の結論となっています。
 この11章の中心的テーマはバプテスマのヨハネの質問から始まりましたが、主の業、主のしるしによってイエスこそキリストなのだということを判断するということだと言えます。だからイエス様は、ヨハネに対しては5節にあるように、聖書で預言されてきたメシア(キリスト)はわたしで間違いないのだと信じなさいと言われたのです。また、群衆に対しても、神様がヨハネ預言者エリヤの再来として遣わし、そしてメシアとして主イエスを遣わすというしるしを明らかに示しているのに、なぜそのまま信じないのかと言われました。「笛吹けど踊らず」と、神様がせっかく吹いている救いの笛の音でなぜ踊らないのかと嘆かれたのです。
 そして、今日の20節以降で、主イエスの「力ある業」というしるしによって悔い改めないとどうなるのかが語られます。それは、悔い改めなかったら滅びる。そのことが、主イエスの嘆きのことばからはっきり知ることができます。聖書は決してカルト宗教のように怖がらせて信じさせようとはしません。でも、このような主イエスの嘆きの言葉を通して、私たちに対する神様の求めを知ることができます。
 ここまで神様がお膳立てして、誰でもわかるようにはっきりと示されていながら、どうして罪を悔い改め、主イエスを信じないのか。そのように20節では、悔い改めない町々をイエス様が責め始められたと言われています。どのような町々をイエス様は責めたのでしょうか。21節~24節。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
 ここでイエス様は、コラジン、ベツサイダ。そしてカペナウムという町に対して嘆かれているのがわかります。それも、ツロとシドン、そしてソドムという町の方がマシだと言っているのです。これはどういう意味でしょうか。
 コラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムというのは、イエス様が育ったナザレも含むガリラヤ湖沿岸の町々です。それは、この11章が語られている時点で、主イエスの教えを聴き、病人や悪霊に憑かれた人を癒す業を見てきた地域の町々です。一方、ツロとかシドンというのは、地中海沿いの異邦人の町です。それは、当時、ユダヤ人たちからは偶像崇拝の罪人として蔑まれていたまた異邦人が住む町でした。またソドムというのは、アブラハムの時代にその堕落のために火と硫黄によって滅ぼされた、主のさばきによって滅ぼされた代表のような町です。
 でもイエス様は、ガリラヤ湖周辺の人たちよりも、そのツロ、シドン、そしてソドムの人たちの方が、罰が軽いと言うのです。それは、ガリラヤ湖周辺の人たちは、神のしるしである主イエスに既に出会い、その教えを聴き、その力ある業を見たからです。力ある業というのは、5節で言われているメシアとしての証拠になる業のことですが、その証拠を見たのに信じない。ここに、罪の重さ、その罰の重さがあるということです。
 そのくらい、神が明らかにしたことを受け取らない責任が重いことを言っています。それも、単なる預言者ではない、神ご自身が、肉眼でわかるように人間となって来てくださったという、そこまでされてもなお信じないのか。その責任は重いぞと主イエスは仰っているのです。
 私たちも、いつも主イエスご自身に敏感でありたいと思います。特に、クリスチャンになってからの方が危険です。それは主からの祝福が毎日続くので、恵みに慣れてしまうからです。23節のカペナウムが自分たちは天にあげられる。つまり天国に行けると自負していたことがわかります。でも、その救いに対する神への感謝もなく、自分たちの功績であるかのように思い上がっているのならば、それはハデス。つまり地獄行きだと言われているくらい厳しいことばです。
 私たちも、本来ならば、滅ぼされても仕方のない者であるという自覚が大切です。そこに気が付かなければ、罪の悔い改めができないからです。私たちは信仰告白でこのように罪を告白しています。
「人は、アダムとエバをはじめとして、神に背き、罪の道を選び取りました。罪のゆえに、すべての人は創造主の御心にかなわず、造られたときの神の似姿を損ない、世界の秩序を混乱させ、悪と死に隷属させるもろもろの霊に身をゆだねました。」
 これは神を離れてあるもともとの私たちの現実を言い表していると思います。この現実が自分にあると気が付くとき、そこに待っているのは「滅び」であると自覚するのです。だから、次の行動を主は待っておられる。笛の音を聴いて踊る子どものように、主によって示されたしるしに応答することに繋がっていきます。それが自分の罪を悔い改めることなのです。
 
2.たましいの安らぎ
 だから主イエスは、その悔い改めた人々に語り掛けます。28節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
 ここでイエス様は、「すべて」の人に語られているように思えますが、この「すべて」は「疲れた人、重荷を負っている人」にかかっている「すべて」です。それが悔い改めた人がようやく気付かされる自分の現実です。
 神様はすべての人が真理を知って救われることを望んでおられますが、実際にイエス様を信じて休息を得ることができるのは、すべての人ではありません。自分が神様の前にどんな存在か。だからこそ、神様の憐みにすがるほかない。その現実を知って、そういう自分を受け入れるためには、先ほどのカペナウムの人々が思っていた自分の力で天国に行けるという思い上がり、神の憐みは必要ない。神の救いは必要がないという高慢に気付き、悔い改めなければならないのです。
 その高慢な気持ちが拭えていないと、イエス様のこの招きのことばに正しく応答することができません。29節をご覧ください。イエス様はこのように仰っています。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
 イエス様が「わたしは心優しく、へりくだっている」と言われた。この言葉を聞いて、違和感がある人は、高慢が拭いきれていないと思います。この言葉を私が言ったのであれば、なんだこいつは高慢だなと思われても仕方がないのですが、本当にへりくだって来てくださったイエス様が、そのことを教えるためにあえてこう仰っていることに対しても引っかかるとしたら、それは、まだ自分の罪の重さ、主の前に高ぶっていることになるのです。実は、私が中学生のときに、ここを初めて読んだときに、キリストって偉そうだなと思いました。
 本当にへりくだっている人は、こんなことを言えるはずがないと思いました。でも、そういう捉えが間違いだと、あとで気付かされました。それは、全知全能の神であるお方なのに、神としての在り方を捨てて、ご自分を無にして、とことん仕える者となってくださった。何よりも、私という罪人の罪を負って、つまりご自分を罪人と同じように卑しいところに置き、死んでくださったことを知ったからです。私のために十字架の死にまで従われた。
 そのことがわかったときに、この主のへりくだりは真実だ。私のような不真実な者が「私はへりくだっている」と言うのとは全く意味が違う。イエス様こそ、真実なお方。わたしは道であり真理でありいのちです」と言われたお方。そのお方が私の神なのだと分かった時、私の心に平安が訪れました。そうすればたましいに安らぎが来ますと言われた、そのみことばが自分にうちに現実のものとなったのです。
 そこで、ようやく私が主の前に疲れている者であり、重荷を負っている者であったことに気付かされたのです。
 みなさんはいかがでしょうか。
 この主イエスの招きは、これまで多くの人々を救い、真の休息を与え、真の安らぎを与えてきました。つまり救われてきたのです。でも、この言葉は、救いを信じたあとも、大切なみことば。主の招きです。
 
結び
 今年、新型コロナウィルスで忙しかったことを冒頭でお話しました。体内時計が狂ったとも言いました。それで、かなり疲れを覚え、今もその疲労感は続いています。
 そこで、このみことばが今日、私自身を励ましてくれています。そうだ、主の許に降ろせば良いのだ。主のくびきは負いやすく、その荷は軽いのだ。そのことを思い巡らして、そこにへりくだって働いていられる主を仰ぐとき、また新しい力が湧いてきて、次の一歩があるのです。
 私たちは主の許に重荷を降ろして休んでも良いのに、つい重荷を持ったまま頑張っているときがあります。それは、荷持ついっぱい風呂敷に詰めて担いだまま電車に乗るのと似ています。電車に乗ったのだから降ろせば楽になるのに、降ろさないで歯を食いしばって担いだまま。そんなことが、主イエスを信じたあとも起こって来る。
 でも、ある時に気づかされるのです。その荷物と私ごとイエス様が背負ってくださっていることに。だから、わたしのくびきは負いやすい。わたしの荷は軽いのです。
 主が私の重荷ごと負ってくださっているから。その究極的な出来事が十字架でした。十字架を背負って歩まれる主は、私、そしてあなたの罪の重荷ごと負われたのです。主が十字架に磔にされたのは、私のすべての罪の重荷までその身に帯びて、釘付けになったのです。
 そして、そのように主の招き応答したもののことを、主は、それは天のお父様が選んで定めていたのだと太鼓判を押してくださっておられる。25節から27節のことばは、まさに私たちの救いには神様の選びがあって、その救いが私自身の至らなさでなくなることがないことを保証しています。
 神様は、ここまでしてまで、あなたを愛し、その救いに、この恵みに、このイエス・キリストに気付いてほしい。わかってほしい。信じてほしいと迫ってくださっているのです。その神の愛を、あらためてこの2020年の最後に覚えて、また新しい年に向かわせていただきたいと思います。

「その星を見て喜ぶ」


聖書箇所 マタイの福音書2章1~12節
 
序論
 クリスマスおめでとうございます。今年も白石教会の皆さんとクリスマスを迎えることが許され、心から主にあって感謝しております。
今年は特に、まさかのコロナウィルスで、集まることがどれほど大変か思い知らされましたので、普段の礼拝もそうですし、このようなクリスマスをお祝いすることも当たり前ではないのだと、あらためて思わされております。
 でも、そのような中にあっても、色々と工夫して、そこにかける手間や時間や労力もおささげして、このように集まる意味をともに経験できていることは、何よりの神様からの祝福ではないかと思います。それは、主を礼拝することこそ、私たちクリスチャンの、またクリスチャンだけでなく、神様につくられたすべてのものにとっての喜びだからです。それは、主につくられたものが一つとなって喜び主を礼拝することこそ、どんな犠牲を払っても優先すべき価値があることを、主の群れとして共有できるからです。
 そのことを被造物も待ち望んでいると聖書は言います。それは、私たち被造物の代表である人間が、神様と和解するときに、罪の呪いが解けて、地球規模、いや宇宙規模の、血を流すことのない真の平和が訪れるからです。
 今日も、この礼拝が単に私たち個人の幸せにとどまらないで、全被造物、全宇宙も含む祝福の前衛であることを覚えつつ、みことばに聴いてまいりたいと思います。
 
1.真の人生の目的を知り行動する
 今日の聖書の場面は、東方の博士が救い主を求めて旅をし、最終的には主にお会いして主を礼拝するというお話です。そうです。彼等も主を礼拝するために、色々なことを乗り越える必要があったというお話です。
 そのことを伝えるために、この福音書記者マタイは、この出来事の中で、読者である私たちの視線を上手に誘導しています。それは、二つの「見よ」という言葉で、私たちも、この博士たちといっしょに旅をしているような、この博士たちが体験したことを共有するような導きをしているのです。「見よ」という言葉は、2節と9節にあります。そして、そのあとに必ず誰かの視線も記録しています。それは、いずれも博士たちの目線です。この目線が、世界で最初のクリスマスに招かれた礼拝者としての目線であるということです。
 では1節、2節をもう一度お読みします。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」
 東方の博士という人たちは、メソポタミヤ地方、現在のイラクやイランのあたりにいた占星術師だと考えられています。簡単に言うと星占いをする人たちです。星の動きを見て、将来を予測することは今でも毎日テレビで必ずあります。でも、聖書では、占いをすることは禁じられています。それは、主が忌み嫌っていることであるとあります。神を信じるものにとって、占いをするということは、実は神を信じていないということであり、神様ではない他の力に寄り縋るという浮気をしていることになるからです。主に信頼するならば、主のみことばである聖書に聴くことがもっとも大切です。
 でも神様は、そのような人たちを礼拝者として招いているのです。なぜならば、彼らはまだ本当の神様を知らにないからです。生まれてから、まだ本当の神様のことを教えてくれる人がいなかったからです。だから、主はそういう人たちを憐れんで招いておられるのです。
 それは私たちもそうです。私たちもイスラエル人ではないし、世界でも最も偶像の神様の数が多いとされる日本人でした。私も、浄土真宗大谷派の家に生まれ、同時に神棚に手を合わせて中学生くらいまで過ごして来ました。本当の神様を知らずに歩んできました。だからと言って、すぐに滅ぼされることなく、聖書に出会い、真の神様を知らされ、このお方こそ、真の神様だいうことがわかって今に至っています。これは、ただ主の憐みしかありません。でも、そのことを忘れると、簡単に信じない人を蔑む自分がいます。どうして、わかってくれないのか。こんなに素晴らしい救いをどうして信じてくれないのか。
 でも、それはかつては自分もそうだったことを忘れている態度です。私がイエス様を信じたのは、他の人よりも物分かりが良かったからではありません。私も頑なに信じない方を選んでいたのに、あるときに不思議と、信じようと思えたのです。それは、私の意思が神様によって変えられたのだと思います。それが聖霊の働きだということはあとからわかりました。
 この博士たちも、多くの占星術師がいる中で、彼等だけが、ある星にきがついて、その星を調べているうちに、他人事ではなく、自分が信じたい。自分が主に会いたい。自分が礼拝したいという思いにされていったと思います。しかも、東方で発見したその星はユダヤ人の王様と関係している星だとわかり、すぐに旅行支度して出かけるのです。しかも、手ぶらではありません。最後にささげる黄金・乳香・没薬などが入った宝箱をいくつも持って出掛けます。
 東方がイランあたりだとすると、イスラエルまでは約2000kmあります。普通に歩いたら一か月くらいかかりますが、おそらく3人以上はいたはずですから、そんなに早くは進めません。しかも、今のように道路が整備されていないので、砂漠をラクダに乗って、ゆっくり行かなければなりませんでした。正直いって面倒くさいです。でも、その面倒くささを乗り越えても、旅をしてきた理由は何でしょうか。それが、2節にあるように「拝みにまいりました」つまり礼拝をささげること。主を礼拝することの前には、どんな労力も時間も惜しくはない。主を礼拝するためならば、どんな手間も惜しまない。なぜですか。それは、そこに私たちの本当の生きる意味があるからです。
 マタイは「見よ」と指さして、博士たちが何を見て、何に価値を置いて、危険な旅をしてきたのかに、私たちを気づかせようとしています。それは、「その方の星」でした。それは、東方で博士たちが見つけ、調べ、没頭してきた救い主を示す星でした。でも、彼らの心も行動も、すっかり変えられたのです。その星に吸い寄せられるように、彼らは行動せざるを得なかった。恐らく周囲には、なんて馬鹿なことするのかとたしなめる学者仲間もいたでしょう。でも、この数人の博士たちは、そこを押し切ってまでも、どうしても主を礼拝せざるえを得なかったのです。
 ここが、礼拝者として、この博士たちから学ぶことです。礼拝せざるを得ないほど、礼拝したいという思い。どんな犠牲を払ってでも、礼拝したいという姿勢。ここに私は感動を覚えます。
 でも、この礼拝者としての姿は皆さんの姿でもあります。今、新型コロナウィルスが蔓延して、人が集まることに危険を覚えるときであるにも関わらず、マスクをしてまで、何度も手を消毒し、洗って迄して、寒いのに換気迄して、そして、ある人は車で、ある人は徒歩で、またある人はバスや電車を乗り継いで、どんな手間も惜しまず礼拝をささげようと来ておられます。ライブ配信で礼拝をささげておられる方々もそうです。見ている画面の中に自分も参加させて、それでも主を愛し礼拝をささげています。
 これは、このときの博士たちといっしょです。そうです。マタイは、この博士たちの目線を読者である私たちにも共有してほしい。どんなときでも、何よりも主を礼拝することを第一にしてほしい。その生き方、その人生に歩みを合わせてほしい。ここに、マタイが「見よ」と導いている第一の理由があるのです。
 
2.その目的は自分自身をささげること
 そのような礼拝を第一にする歩みにはどんな祝福が待っているでしょうか。それは次の9節の「見よ」に繋がっていきます。
 その前にヘロデ大王のお話があります。この王様の話は、これまで語られてきた東方の博士たちの対極の存在として見ることができます。それは、世界で最初のクリスマスに神様が招いてくださった人とそうでない人の対比を表しているからです。
 神様は最も近くにいて、しかもユダヤの王でもある人よりも、東の果てから、占星術の学者を招かれたというギャップです。そして博士たちにはその視線、目線が記されていますが、ヘロデに関しては何も記されていません。それはヘロデの霊的な目が死んでいたことを意味しているのかも知れません。また博士たちは2,000kmの彼方から礼拝するためにわざわざ来ているのに対して、ヘロデは近くにいながら自分で礼拝しに行こうともしません。それよりも、あとで自分も拝みに行くからと嘘まで言って、その目的が礼拝ではなく抹殺することです。
 ここに、残念ながら二つの立場があることを知らなければなりません。それは、主の祝福を受けるものとそうでないものです。でも、これは、主がヘロデ大王を招いていないという意味ではありません。もし、そうならば、博士たちを直接イエス様のところまで導いたでしょう。でも、ここであえて博士たちがヘロデの王宮に立ち寄るようにされたのは、博士たちの存在、その言葉、行動をヘロデに見せて、彼に悔い改めさせ、ともに礼拝する者として招いていたからではないでしょうか。
 でも、そのチャンスを台無しにして、礼拝するという恵みの業を人を騙すために用いていることは、大変残念なことです。
 でも、そのような人にも主は憐みをかけておられることを覚えたいと思います。そして、そのような人の救いのために博士たちが用いられたように、私たちも、その使命があるということも覚えたいです。
 さて、ヘロデのために時間を割いた博士たちですが、神様の祝福は終わっていません。9節、10節。
「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
 きっとは博士たちは、ヘロデの魂胆には気付かずに、あくまで善意で訪ね、そして再び出かけたことでしょう。6節の旧約聖書ミカ書5章の預言も聞いたことでしょう。その預言自体は預言者ミカの時代のものですから700年も前にキリスト誕生が伝えられていたということです。
 そのみことばから与えられた希望をもって、ベツレヘムへ向かいました。すると「見よ」です。あの星がイエス様がおられる所まで博士たちを案内するように導き、とうとうその上にとどまったのです。ここの「見よ」は何を見よと言っているのか。それは、博士たちの目線に表わされています。
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」
 博士たちの目は何を捉えていたのか。それは、その星です。でも、その星を拝むためではありません。その星が指し示していた救い主を拝むこと。その星が導いていたキリストを礼拝すること。それが彼らの変わらない目的でした。だから、この「見よ」は、2,000km先から全くぶれることなくロックオンし続けていた博士たちのことであり、その救い主を探し求めて来た旅のゴールで、その博士達から溢れ出て来た喜びの様子だったのです。
 この喜びこそが、礼拝において最も大切な心の動きです。礼拝の中心と言っても良いと思います。それは、礼拝が礼拝であるために、なくてはならない礼拝の原動力だからです。博士たちは2000kmも旅をしてきて体はへとへとだったはずなのに、礼拝するエネルギーは満タンでした。この喜びをもって、ささげる礼拝の様子が11節です。
「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
 博士たちの喜びは最高潮に達して、持ってきた宝箱をあけて用意してきた黄金・乳香・没薬をささげたのです。この行為は今でいう献金です。博士たちはどうしてこの宝物をささげたのか。ヨセフ、マリヤ夫婦が貧しくて可哀そうだったからでしょうか。それとも挨拶替わりでしょうか。そうではありません。それは「ひれふして拝んだ」ということからわかります。これは礼拝したということですから、ここまで導いてくださった真の神様への感謝と献身を表すものです。宝の箱を開けるとは、自分の一番大切なもののことを言っています。
 それは私たち自身のことです。それをお金や品物を通して現わしています。神様からの恵みに感謝し、喜んで自分自身をおささげする。それが礼拝です。礼拝は恵みへの応答です。そして、主との交わりです。だから、礼拝プログラムも神様からの業と私たちの応答の業と交互に交わるようになっています。
 献金も確かに神様からいただいた恵みの一部ではありますが、そこに載せるのは私たちの一部ではありません。私たちのすべてです。私たち自身として、ささげて、また新しい歩みが始まるのです。博士たちは、このあと夢によって安全な道に回るように導かれ、その歩みが確かなものとされました。おそらく国へ帰った後も、この一連の出来事を人々に宣べ伝えたでしょう。そうです。彼等は占星術師から主の預言者に生まれ変わったのです。
 ここに主の逆転があります。イエス・キリストを信じる人は、逆転の人生に切り替わります。罪人から罪赦された人へ。罪の奴隷から神の国の市民に、悪魔の手先から神の子どもにされるのです。
 パウロはこう言いました。
「(私たちクリスチャンは)悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」
 
結び
 今年、800年ぶりに土星木星が重なって明るい一個の星に見えるらしいです。それをグレートコンジャクションと言います。2000年前のイエス様誕生に現れた、この星と同じかどうかはわかりませんが、世界で初めのクリスマスにおける、この博士たちの礼拝は今も尚変わらず、私たちに大切なことを伝えています。
 あなたの歩みはいかがでしょうか。どんなことよりも、まず、ただ主を礼拝することだけを喜び、目指しているでしょうか。主を礼拝すること以上に大切な務めはありません。また主を礼拝できること以上に素晴らしい権利はありません。
 その生き方には必ず主の守りと祝福があります。博士たちが危険や困難を乗り越え、ただ主を礼拝するためだけにはるばる旅に出ました。途中、ヘロデ王にも会って、最後にはそのヘロデ王による危険も予想できましたが、神様が特別な方法によって、守ってくださいました。主に信頼し、主の救いを喜び礼拝を大切にする人を主は蔑ろにしません。必ず、どんな場合でも最善を成してくださいます。
 この2020年のクリスマスを、どうか、お一人お一人にとって、主から信仰と希望と愛をいただいて、踏み出すときとなり2021年に向かって行きますように。主を愛して踏み出すその一歩を主は必ず祝福されます。