のりさんのブログ

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「その星を見て喜ぶ」


聖書箇所 マタイの福音書2章1~12節
 
序論
 クリスマスおめでとうございます。今年も白石教会の皆さんとクリスマスを迎えることが許され、心から主にあって感謝しております。
今年は特に、まさかのコロナウィルスで、集まることがどれほど大変か思い知らされましたので、普段の礼拝もそうですし、このようなクリスマスをお祝いすることも当たり前ではないのだと、あらためて思わされております。
 でも、そのような中にあっても、色々と工夫して、そこにかける手間や時間や労力もおささげして、このように集まる意味をともに経験できていることは、何よりの神様からの祝福ではないかと思います。それは、主を礼拝することこそ、私たちクリスチャンの、またクリスチャンだけでなく、神様につくられたすべてのものにとっての喜びだからです。それは、主につくられたものが一つとなって喜び主を礼拝することこそ、どんな犠牲を払っても優先すべき価値があることを、主の群れとして共有できるからです。
 そのことを被造物も待ち望んでいると聖書は言います。それは、私たち被造物の代表である人間が、神様と和解するときに、罪の呪いが解けて、地球規模、いや宇宙規模の、血を流すことのない真の平和が訪れるからです。
 今日も、この礼拝が単に私たち個人の幸せにとどまらないで、全被造物、全宇宙も含む祝福の前衛であることを覚えつつ、みことばに聴いてまいりたいと思います。
 
1.真の人生の目的を知り行動する
 今日の聖書の場面は、東方の博士が救い主を求めて旅をし、最終的には主にお会いして主を礼拝するというお話です。そうです。彼等も主を礼拝するために、色々なことを乗り越える必要があったというお話です。
 そのことを伝えるために、この福音書記者マタイは、この出来事の中で、読者である私たちの視線を上手に誘導しています。それは、二つの「見よ」という言葉で、私たちも、この博士たちといっしょに旅をしているような、この博士たちが体験したことを共有するような導きをしているのです。「見よ」という言葉は、2節と9節にあります。そして、そのあとに必ず誰かの視線も記録しています。それは、いずれも博士たちの目線です。この目線が、世界で最初のクリスマスに招かれた礼拝者としての目線であるということです。
 では1節、2節をもう一度お読みします。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」
 東方の博士という人たちは、メソポタミヤ地方、現在のイラクやイランのあたりにいた占星術師だと考えられています。簡単に言うと星占いをする人たちです。星の動きを見て、将来を予測することは今でも毎日テレビで必ずあります。でも、聖書では、占いをすることは禁じられています。それは、主が忌み嫌っていることであるとあります。神を信じるものにとって、占いをするということは、実は神を信じていないということであり、神様ではない他の力に寄り縋るという浮気をしていることになるからです。主に信頼するならば、主のみことばである聖書に聴くことがもっとも大切です。
 でも神様は、そのような人たちを礼拝者として招いているのです。なぜならば、彼らはまだ本当の神様を知らにないからです。生まれてから、まだ本当の神様のことを教えてくれる人がいなかったからです。だから、主はそういう人たちを憐れんで招いておられるのです。
 それは私たちもそうです。私たちもイスラエル人ではないし、世界でも最も偶像の神様の数が多いとされる日本人でした。私も、浄土真宗大谷派の家に生まれ、同時に神棚に手を合わせて中学生くらいまで過ごして来ました。本当の神様を知らずに歩んできました。だからと言って、すぐに滅ぼされることなく、聖書に出会い、真の神様を知らされ、このお方こそ、真の神様だいうことがわかって今に至っています。これは、ただ主の憐みしかありません。でも、そのことを忘れると、簡単に信じない人を蔑む自分がいます。どうして、わかってくれないのか。こんなに素晴らしい救いをどうして信じてくれないのか。
 でも、それはかつては自分もそうだったことを忘れている態度です。私がイエス様を信じたのは、他の人よりも物分かりが良かったからではありません。私も頑なに信じない方を選んでいたのに、あるときに不思議と、信じようと思えたのです。それは、私の意思が神様によって変えられたのだと思います。それが聖霊の働きだということはあとからわかりました。
 この博士たちも、多くの占星術師がいる中で、彼等だけが、ある星にきがついて、その星を調べているうちに、他人事ではなく、自分が信じたい。自分が主に会いたい。自分が礼拝したいという思いにされていったと思います。しかも、東方で発見したその星はユダヤ人の王様と関係している星だとわかり、すぐに旅行支度して出かけるのです。しかも、手ぶらではありません。最後にささげる黄金・乳香・没薬などが入った宝箱をいくつも持って出掛けます。
 東方がイランあたりだとすると、イスラエルまでは約2000kmあります。普通に歩いたら一か月くらいかかりますが、おそらく3人以上はいたはずですから、そんなに早くは進めません。しかも、今のように道路が整備されていないので、砂漠をラクダに乗って、ゆっくり行かなければなりませんでした。正直いって面倒くさいです。でも、その面倒くささを乗り越えても、旅をしてきた理由は何でしょうか。それが、2節にあるように「拝みにまいりました」つまり礼拝をささげること。主を礼拝することの前には、どんな労力も時間も惜しくはない。主を礼拝するためならば、どんな手間も惜しまない。なぜですか。それは、そこに私たちの本当の生きる意味があるからです。
 マタイは「見よ」と指さして、博士たちが何を見て、何に価値を置いて、危険な旅をしてきたのかに、私たちを気づかせようとしています。それは、「その方の星」でした。それは、東方で博士たちが見つけ、調べ、没頭してきた救い主を示す星でした。でも、彼らの心も行動も、すっかり変えられたのです。その星に吸い寄せられるように、彼らは行動せざるを得なかった。恐らく周囲には、なんて馬鹿なことするのかとたしなめる学者仲間もいたでしょう。でも、この数人の博士たちは、そこを押し切ってまでも、どうしても主を礼拝せざるえを得なかったのです。
 ここが、礼拝者として、この博士たちから学ぶことです。礼拝せざるを得ないほど、礼拝したいという思い。どんな犠牲を払ってでも、礼拝したいという姿勢。ここに私は感動を覚えます。
 でも、この礼拝者としての姿は皆さんの姿でもあります。今、新型コロナウィルスが蔓延して、人が集まることに危険を覚えるときであるにも関わらず、マスクをしてまで、何度も手を消毒し、洗って迄して、寒いのに換気迄して、そして、ある人は車で、ある人は徒歩で、またある人はバスや電車を乗り継いで、どんな手間も惜しまず礼拝をささげようと来ておられます。ライブ配信で礼拝をささげておられる方々もそうです。見ている画面の中に自分も参加させて、それでも主を愛し礼拝をささげています。
 これは、このときの博士たちといっしょです。そうです。マタイは、この博士たちの目線を読者である私たちにも共有してほしい。どんなときでも、何よりも主を礼拝することを第一にしてほしい。その生き方、その人生に歩みを合わせてほしい。ここに、マタイが「見よ」と導いている第一の理由があるのです。
 
2.その目的は自分自身をささげること
 そのような礼拝を第一にする歩みにはどんな祝福が待っているでしょうか。それは次の9節の「見よ」に繋がっていきます。
 その前にヘロデ大王のお話があります。この王様の話は、これまで語られてきた東方の博士たちの対極の存在として見ることができます。それは、世界で最初のクリスマスに神様が招いてくださった人とそうでない人の対比を表しているからです。
 神様は最も近くにいて、しかもユダヤの王でもある人よりも、東の果てから、占星術の学者を招かれたというギャップです。そして博士たちにはその視線、目線が記されていますが、ヘロデに関しては何も記されていません。それはヘロデの霊的な目が死んでいたことを意味しているのかも知れません。また博士たちは2,000kmの彼方から礼拝するためにわざわざ来ているのに対して、ヘロデは近くにいながら自分で礼拝しに行こうともしません。それよりも、あとで自分も拝みに行くからと嘘まで言って、その目的が礼拝ではなく抹殺することです。
 ここに、残念ながら二つの立場があることを知らなければなりません。それは、主の祝福を受けるものとそうでないものです。でも、これは、主がヘロデ大王を招いていないという意味ではありません。もし、そうならば、博士たちを直接イエス様のところまで導いたでしょう。でも、ここであえて博士たちがヘロデの王宮に立ち寄るようにされたのは、博士たちの存在、その言葉、行動をヘロデに見せて、彼に悔い改めさせ、ともに礼拝する者として招いていたからではないでしょうか。
 でも、そのチャンスを台無しにして、礼拝するという恵みの業を人を騙すために用いていることは、大変残念なことです。
 でも、そのような人にも主は憐みをかけておられることを覚えたいと思います。そして、そのような人の救いのために博士たちが用いられたように、私たちも、その使命があるということも覚えたいです。
 さて、ヘロデのために時間を割いた博士たちですが、神様の祝福は終わっていません。9節、10節。
「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
 きっとは博士たちは、ヘロデの魂胆には気付かずに、あくまで善意で訪ね、そして再び出かけたことでしょう。6節の旧約聖書ミカ書5章の預言も聞いたことでしょう。その預言自体は預言者ミカの時代のものですから700年も前にキリスト誕生が伝えられていたということです。
 そのみことばから与えられた希望をもって、ベツレヘムへ向かいました。すると「見よ」です。あの星がイエス様がおられる所まで博士たちを案内するように導き、とうとうその上にとどまったのです。ここの「見よ」は何を見よと言っているのか。それは、博士たちの目線に表わされています。
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」
 博士たちの目は何を捉えていたのか。それは、その星です。でも、その星を拝むためではありません。その星が指し示していた救い主を拝むこと。その星が導いていたキリストを礼拝すること。それが彼らの変わらない目的でした。だから、この「見よ」は、2,000km先から全くぶれることなくロックオンし続けていた博士たちのことであり、その救い主を探し求めて来た旅のゴールで、その博士達から溢れ出て来た喜びの様子だったのです。
 この喜びこそが、礼拝において最も大切な心の動きです。礼拝の中心と言っても良いと思います。それは、礼拝が礼拝であるために、なくてはならない礼拝の原動力だからです。博士たちは2000kmも旅をしてきて体はへとへとだったはずなのに、礼拝するエネルギーは満タンでした。この喜びをもって、ささげる礼拝の様子が11節です。
「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
 博士たちの喜びは最高潮に達して、持ってきた宝箱をあけて用意してきた黄金・乳香・没薬をささげたのです。この行為は今でいう献金です。博士たちはどうしてこの宝物をささげたのか。ヨセフ、マリヤ夫婦が貧しくて可哀そうだったからでしょうか。それとも挨拶替わりでしょうか。そうではありません。それは「ひれふして拝んだ」ということからわかります。これは礼拝したということですから、ここまで導いてくださった真の神様への感謝と献身を表すものです。宝の箱を開けるとは、自分の一番大切なもののことを言っています。
 それは私たち自身のことです。それをお金や品物を通して現わしています。神様からの恵みに感謝し、喜んで自分自身をおささげする。それが礼拝です。礼拝は恵みへの応答です。そして、主との交わりです。だから、礼拝プログラムも神様からの業と私たちの応答の業と交互に交わるようになっています。
 献金も確かに神様からいただいた恵みの一部ではありますが、そこに載せるのは私たちの一部ではありません。私たちのすべてです。私たち自身として、ささげて、また新しい歩みが始まるのです。博士たちは、このあと夢によって安全な道に回るように導かれ、その歩みが確かなものとされました。おそらく国へ帰った後も、この一連の出来事を人々に宣べ伝えたでしょう。そうです。彼等は占星術師から主の預言者に生まれ変わったのです。
 ここに主の逆転があります。イエス・キリストを信じる人は、逆転の人生に切り替わります。罪人から罪赦された人へ。罪の奴隷から神の国の市民に、悪魔の手先から神の子どもにされるのです。
 パウロはこう言いました。
「(私たちクリスチャンは)悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」
 
結び
 今年、800年ぶりに土星木星が重なって明るい一個の星に見えるらしいです。それをグレートコンジャクションと言います。2000年前のイエス様誕生に現れた、この星と同じかどうかはわかりませんが、世界で初めのクリスマスにおける、この博士たちの礼拝は今も尚変わらず、私たちに大切なことを伝えています。
 あなたの歩みはいかがでしょうか。どんなことよりも、まず、ただ主を礼拝することだけを喜び、目指しているでしょうか。主を礼拝すること以上に大切な務めはありません。また主を礼拝できること以上に素晴らしい権利はありません。
 その生き方には必ず主の守りと祝福があります。博士たちが危険や困難を乗り越え、ただ主を礼拝するためだけにはるばる旅に出ました。途中、ヘロデ王にも会って、最後にはそのヘロデ王による危険も予想できましたが、神様が特別な方法によって、守ってくださいました。主に信頼し、主の救いを喜び礼拝を大切にする人を主は蔑ろにしません。必ず、どんな場合でも最善を成してくださいます。
 この2020年のクリスマスを、どうか、お一人お一人にとって、主から信仰と希望と愛をいただいて、踏み出すときとなり2021年に向かって行きますように。主を愛して踏み出すその一歩を主は必ず祝福されます。