のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

北海道聖書学院講師の恵み

 2020年4月。私は北海道聖書学院の講師として働くことになった。担当はキリスト教会史である。当初、2021年からとお話があったが、諸事情があって急遽、今年からになってしまった。

 私は2021年からのつもりで講義ノートを作成していたが、2019年の秋口に前倒しできないかという連絡があり、講義ノートを急ピッチで仕上げることになった。

 講義ノートとは言っても、参考になる資料の良いとこどりのようなものだが、あとはその都度、個人的に学んだことなどを講義中に挟み込んで講義ノートを補っている。授業後に、その補足した事柄を講義ノートに追加するなどしてアップデートしている。

 講義ノートについては以上だが、今もなお、思うのは、なぜ私が今、神学校の講師なのかという疑問である。確かに子どもの頃から歴史は好きだった。しかし、キリスト教会史を誰かに教えるほど詳しいわけでもなければ、得意なわけでもない。

 しかし、よくわからない中でオファーがあり、引き受けることにしたのである。それは、神学校での授業を持つことが、教会の牧会宣教にも生かされると思ったからである。礼拝説教も牧師室の中にだけいて出来上がるものではない。

 私自身の日々の生活、学び、訓練が説教に生かされるのだと思う。しかも、神学校の奉仕をするということは、神学校でのチャペルの説教奉仕も回ってくるということだ。だから、説教の自己研鑽になることは明白である。

 また講師の働きは、神学生、聴講生との関わりのときでもある。授業において、休み時間において、昼の食事において、様々な人たちと席をともにする。そこに、授業だけでは得られない、良き関係性を得ることになる。

 それが、また大変有意義であり、楽しくやりがいもあるのである。一人ひとりの様子を見ながら、いつ当てるか。どこで横道にそれるかを考える。それぞれ力も賜物も違うので、一人ひとりと向き合わなけれぼならない。

 それがまた楽しい。この喜びを一度体験すると、もう手放せなくて、次の授業が待ち遠しいほどである。

神と人の間に横たわる罪

 聖書は創世記から黙示録まで、一貫して、神と人の間にある罪の問題に私たちを注目させている。

 よくイエスの救いについて、十字架の死による懲罰的代理を軽くみる人たちがいる。救いというのは、罪の赦しよりもイエスのように生きるようになることだとして、罪の問題はむしろ偏っているとか、古典的だとする。

 しかし、聖書はアダムの罪から神と人とは断絶が始まり、人は神の祝福を失ったと証言している。

 だから、懲罰的代理による救いは、あらゆる回復にとって欠かせない、救いの中心的出来事である。それは、神との関係回復こそ、隣人同士の真の平和が訪れるし、被造世界の回復もあるのだ。

 被造物たちも救いを待ち望んでいるとは、そのような神と人における回復を待っているということなのである。

 なぜ近代になり、神と人の間にある罪の問題を軽視するようになったのか。それは、装唱える方々が、そもそもキリストの十字架の贖いを信じないで、ただキリストへの憧れとか、キリスト者としての生き方に共鳴して洗礼を受けたからだと言える。

 そうなると、罪を悔い改めてイエスを主であると信じた人との間に、かなり大きなギャップが生まれる。それは、信仰の違いであると言える。

 恐らくサタンは背後で喜んでいるだろう。サタンが企む、神の救いを信じる人を妨害することが進みつつあるからだ。聖書が言っているように罪の悔い改めなしで教会に入ってくる人たちを増やして、福音を骨抜きにしているからである。

 しかも、創世記の天地創造の場面を神話だとするクリスチャンたちも増えてきたので、もはや創世記3章は作り話として、罪の起源も含めて、それらの問題を無きものとする力が蔓延っているからである。

 でも、聖書を素直に読むならば、罪から来る報酬は死であることが、リアルに伝わってくるし、だからこそ、その死である滅びから救われなければならない自分に気づかされるのである。

 ぜひ、明日の主日礼拝も、まず悔い改めて福音を信じるところからくる信仰を告白して、あたえられた使命を果たしていきたい。

 

神愛園清田奉仕

 今日は月に一度の神愛園清田の礼拝説教の日でした。いつものようにリモートなので皆さんの顔が見えないのが少し残念ですが、月に一度でも、礼拝奉仕ができることに心から感謝をしています。

 まだまだリモート慣れしていないので、かなり語りづらいのですが、これからも何とか、皆さんに聖書のみことばを語ることができればと願っております。

仮定の質問には答えられない?

最近、政治家の方々が、ほぼ口を揃えて、言い逃れのための決まり文句を活用している。

それは「仮定の質問なので意見は差し控えたい」というものだ。

これは面白い。政治って、仮定のはなしはタブーなのか?そもそも、法律を作るのだって、もしかしたら、こんなことがあるかも知れないという前提のもとでできているのではないか。

ある犯罪を仮定し、ある人的ミスを仮定し、人間の弱さを仮定して法律ってできているのではないか。つまり、政治家は仮定の話から逃げてはならないのだ。仮定の話だから、そうなったときはこうするとか、そうならなかったときには、こうしないとか。行政として、もしどんなことがあったとしても国民を守るという決意は、その仮定の話から具体性を持ってくるのではないか。

 

最近は、この「仮定の話だから」という言い訳で、大事な質問から逃げている答弁が目立ちすぎる。そんなに、責任を取るのが嫌なのか、そんなに政権の座を守りたいのか。守るものはそれで良いのか。守るものは自分の座ではなく、国民の生活ではないのか。そうであるならば、私たちの生活にはいつも、もしこうなったらどうしようということの連続である。

 

そこに切り込まなくて何が政治なのか。もっと仮定の話を明らかにして、きちん質問に答えて、だから俺に任せておけと言ってもらった方が気持ちが良い。それを実現するから行政ではないのか。

宜しくお願いしたい。

晴れ時々ひとり

 人生には晴れもあれば曇りもある。快晴もあれば嵐もある。大勢でいたいときもあるが、一人の方が良い時もある。いや、むしろ一人の時間を待つべきだと私は思う。

 恐らく、人によっては誰かと一緒にいないと寂しくて辛くなる人もいると思うので、みんながそうだとは言えないが、私は一人でいる方が好きだ。

 だから今週も一人でいる時間を作ろうとして来たが、なかなかそうもいかない。一時間で良いから一人の時間を待とうとしても、その後のことを考えて過ごすので、その一時間は結局、そのあとに続くための準備のときとなってしまう。そのあとに過ごす人の時間、タイミングに合わせているので、結局は自分の時間ではなく、そのあとに過ごす人との時間なのだ。

 だから、一日中とか、二、三日とか、少し長いスパンでの一人が良い。かつて、一般の仕事をしていたときは、仕事としての時間は仕方ないとして、そのほかに出張もあり、一人である程度長くいる時を持つことができた。

 だから家に帰って来ても、リセットされて、新鮮に家庭人となり、また仕事へも新鮮な気持ちで出かけられた。

 今、そんな時間がほしい。自分のリトリートのため。ただ一人だけで神と語り、身も心も委ねる時間を。

 

「闇に輝く大きな光」


 イザヤ書9章2節〜マタイの福音書4章15〜16節
 この節の中心テーマは闇に光が輝くという希望である。その理由は、闇の中で見る大きな光、死の陰の地の上に輝く光に現わされる神の恵みによる救いが比喩的に示されているからである。ゆえにこのイザヤ書における9:2の役割としては、9章前半自体がそうであるように、イザヤを通して語られる他のさばきの預言の中にあって、読者に希望を与えていることがわかる。特に、1~2節には、3~7節の具体的なメシア預言を効果的に照らす役割があると言うことができる。
 ヘブル語聖書では、9章2節から9章が始まる。そして、ここからまた詩文体になる。この部分が8章19節から9章1節と密接な関係を持つことは、この2節のテーマである「光と闇」の対比から明らかにされる。ここで言われている「闇」とは何か。また「光」とは何か。その二つのキーワードに注目しつつ、この2節から広がるイザヤの預言に聴いてみる。
 
1.闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち
 まず闇についての部分。「闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち」という表現である。ここでは闇の中ということばと死の陰の地が対応しており、歩んでいた民と住んでいた者たちがそれぞれ対応している。
 この「闇」と「死の陰」は、BC734年~732年にアッシリアのティグラセ・ピレセルが侵入して、占領した後の悲惨な状況のことだと言われている[1]。
 ここでは同じような意味でありながら、後半のことばによって、より具体的に救いが表されていることが分かる。それは、同義的並行法によって互いの意味を補い合っているからである。そこに「死の陰の地」と言われることで、当時の文脈としては、その闇というのは、民が受ける圧制であったり、苦難であったり、苦しみを表す暗黒であることがわかる。闇の中でも死の陰の地においても、そんなところを歩まなければならない苦しみがあり、そんなところなのに住まなければならない辛さがあることがわかる。その闇の中、死の陰の地で苦しむ民にとって必要なことは何だろうか。そのような自分ではどうすることもできない状況で、彼らにとって必要なのはメシアである。そのメシアへの希望。メシア自身が光として来臨する希望である。8章や9章8~10章4節に悲痛さが示されているのは、この預言が語られた時代での闇の状況であり、それによって、闇をも滅ぼすことができる光であるメシアへの渇望を表わしている。
 
2.大きな光を見た(る)~光が照った(光り輝く[2])
 次にその光について語られている部分をみる。「大きな光を見た~光が照った」という表現である。ここでは大きな光を見たことと光が照ったという言葉が対応している。
 それぞれの行の主動詞「見た」と「照った」は完了形であり、イザヤの目には、暗黒の闇の中に差し込む大きな光がはっきりと見えていたことがわかる。異邦人のガリラヤはまさに神の光栄を受けることが宣言されたのである。
 ここでも一見同じようなことを言っているようでありながら、民が見た「大きな光」がただ偶然そこにあったというよりも「照った(輝く[3])」という、光の出現の必然性を見ることができる。しかも、その光は暗闇の中にいる民の遠くにいて光っているのではなく、死を覚悟し、いのちを失いかけている民の真上に輝いているという救いであることがここに示されているのである。
 それが救いの光であり、神がもたらすメシアによる救いの預言であった。それは、神がイザヤを通してユダの民への救いの希望を与えるためであり、これから起こる背教への神のさばきとしての苦しみがあるが、必ずそこには救いの希望があることを予め示したものである。この希望はそれから約700年後にイエスによって成就した。
 
3.マタイ4章15~16節への引用
①文脈:イエスの宣教第一年開始のとき、バプテスマのヨハネガリラヤの国主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられたことを聞いて、イエスガリラヤに立ち退かれて、その宣教はガリラヤから始めることになった。そのことをマタイは「預言者イザヤを通して言われたことが、成就するためであった」として、イザヤ9章1~2節を引用した。
②歴史的関係性:イザヤの預言どおり、ガリラヤ地方はBC8世紀にアッシリアによって侵略され、イスラエル人は捕虜としてアッシリアに連行され、アッシリア人が植民地として移住した。そのためガリラヤに残留したイスラエル人には異邦人の血が混じって、イエスの時代には、ユダヤ地方の人たちからは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ蔑まれていた。
③イザヤ9:2とマタイ4:16との比較
Is.「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
Matt.「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 日本語訳での大きな違いは「歩いていた…住んでいた」が何れも「すわっていた」となっている点である。これはヘブル語では「住んでいた」יֹשְׁבֵי֙ yō·šə·ḇê に含まれる別意であるが、何れもギリシャ語で「すわっていた」καθημένοις(基本形κάθημαι[4]=座る)と訳することで、歩くこともできず、虐げられてうずくまって身動き取れなくなっている状態を表わしていると考えることができる。マタイにおいて民の状態が窮状化しているのは、イザヤが預言したときから比較して、その時期が極まったことを表わしていると推察できる。
④メシアであるイエスは世の光としてこの世に来られた[5]。その救いの光であるイエスは、「異邦人のガリラヤ」に代表されるように、罪の暗闇で虐げられている人々、罪の報酬である死の地、死の陰で、立つこともできずに、ただ滅びを待っている悲惨な者を救うために来られたのである。つまりメシアは政治的な支配者としてではなく、人類全体のための罪からの解放者として表わされているのである[6]。
ヨハネが捕らえられたことは、光であるイエスが来られた世界がいっそう「暗やみ」、「死の地と死の陰」であることを証明していると考えられる[7]。
 
4.まとめ
 イザヤ9:1~2の預言は、表現としては婉曲的ながら、イザヤ9:6~7の預言との連続性の中で、マタイ4:15~16でその成就が明確に証しされているように直接的成就だと考えられる。バビロン捕囚以降、クロス王による解放を見ても、このガリラヤの地でイエスの出現以外、他に類を見ることができないからである。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12


[1] 鍋谷尭爾『新聖書注解旧約3』(いのちのことば社,1982)p.542
[2] 新改訳2017
[3] 新改訳2017
[4] Buhner,J,A『ギリシャ新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館, 2015)p.274
[5] ヨハネ1:4~9、8:12、
[6] この箇所だけを見るとメシアは悪魔に対する勝利者であり解放者である新しい天の御国の王として、悪霊や病気で苦しんでいる人を霊的な祝福によって、その御国へ招き入れるという面だけが見える。
[7] ヨハネ1:6~8