のりさんのブログ

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「自分と宣教」

序:イエス大宣教命令
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:18~20
 私たちすべてのキリスト者は、主イエス・キリストよりこの命令を受けていると信じる。この命令を受けた私たち一人ひとりのキリスト者は、この命令をもって、この世界に遣わされていると考えることができる。しかし、これまで私はどのくらい真剣にこのみことばに向き合って「宣教」を考え、また関わって来たのか。この度、宣教学序説の講義を受けて、あらためて私においての「宣教」を考え直したいと思う。
 
I.  主の教える宣教を私はどのようにしてきたか。
 ①滝川キリスト福音集会時代
 私は17歳のときに、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けてキリスト者となった。そして、間髪をいれず日曜学校の教師として毎週、イエス様のお話をすることになり、私の信仰生活が始まった。しかし、当時の私は、バプテスマを受ける前から少しは聖書を読んではいたが、ほぼ何も知らないと言っても良いくらいの素人クリスチャンである。相手が子どもであるだけに、悪い意味での適当は良くない。私は、仕方なく毎日聖書を読み、特に福音書を重点的に読むことになった。というか、読まざるを得ない状況であった。特に子どもの前で原稿を持って読むわけにはいかないので、暗記するというよりも、内容を理解することに時間を費やした。今思えば、それが今の私を形成するために主が用いられたことは、誠に感謝なことである。
 そんな慌ただしさの中での信仰生活で、私は「宣教」とは何かとか、「礼拝」とは何かなどと考えたことがなかった。常に実践の中でただ与えられた役目を果たすだけの信仰生活であったことは明白である。
 
 ②東栄福音キリスト教会に転会
そんな信仰生活から、少し組織的に聖書の教理を考え始めたのは22歳のころであった。丁度、それまで属していた教会から、今までとは違う教会、つまり現在の母教会である東栄福音キリスト教会へ転会する時期であった。東栄教会へ移ってから、私にとって不足していた教理についての教え、神学的な信仰の捉え方の必要を学ぶこととなった。聖書を継続的に学ぶことと、そして、そこからあぶり出される教理を知り、組織的に整理することが新しい取り組みであった。その中で、「宣教」についても考えるようになった。
 それはマタイ4:23のみことばに立ち止まったときからである。
「イエスガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
 ここに描かれている主イエスのお姿に「宣教」とは何かと言うことを、私は考えるようになった。それは、当初、この大きく三つに分類できる内のどれが「宣教」だろうかと考え、きっと「教え」か「宣べ伝え」だろうと絞りこんでいた。それは、文字通りに教えるか、伝えるかだろうと、主イエスの業、すなわち私たちキリスト者が為すべき業を細分化して、そのうちの一つが「宣教」だと思いこんでいたからである。つまり、伝道も宣教も言い替えられる同義語にすぎないと捉えていたのである。
 
Ⅱ.これからどのようにしたいか
 しかし、北海道聖書学院に入学し、この度、宣教学序説を学び大きく理解を深めることができた。それは、あらためて大宣教命令のみことばを読み直すことにより、聖書が教える「宣教」が多角形的立体として捉える事ができたからである。そのみことばであるマタイ28:18~20は、その「宣教」の広さ、高さ、深さを指し示す。その目的は「あらゆる国の人々を弟子と」することであるが、まず「行って」という言葉に、これまで私が描いていた意味とは異なる、いや更に進歩した理解を知らされた。
「殻を破る」とは、まさにその中心概念である。この視点は、これまで「宣教」を福音伝道と同義語としてしか捉えていなかった私にとって、まさに大きな殻を破るべき視点である。
 私たちキリスト者にとって、常に殻が存在する。しかし、その殻は、油断をすると気づかないか、気づいていても避けることもできてしまうものである。だから、その殻をしっかり常に捉えていないと、私たちの「宣教」は「行って」というステップの大切さを見失い、キリストの教会としての使命から逸れた歩みになってしまうことは歴史が証明している。
 かつて初代キリスト教会はユダヤ人たちに迫害を受けた。その後、ローマ帝国中に広まり、今度はローマ帝国から迫害を受けることになる。しかし、4世紀に入りローマ皇帝コンスタンティヌスがクリスチャンになり、その後キリスト教が公認され、国教にまでなると教会は「殻」を見失う。迫害は決して起きてほしくない出来事だが、迫害のような打ち破るべき信仰のストレスを失うことで、クリスチャン一人ひとりも教会としても信仰の戦いを忘れ、安堵感と自惚れが強くなり堕落の一途をたどっていく。それは、教会と政治が繋がり、他宗教の禁止とオールキリスト教徒化によって、教会に不純物が入り込み、力を持ち、信仰のない教会員の増加に繋がる。そうなることは「宣教」のない教会を作ることになり殻を破ることから遠のいてしまうのである。
 しかし、1517年に殻を破る出来事が起こった。それは宗教改革である。カトリックの修道士であったマルティン・ルターはそれまで1500年かけてモンスター化したローマ・カトリック教会内にいながら、ヴィッテンベルク城の扉に95カ条にわたる質問状を公開した。そのルターの行動はヨーロッパ中に広がり、多くの国で殻が次々に破られていった。
 以上のように、今後も私たちキリスト者はそれぞれに与えられた立場や、環境において課せられている殻を認識する必要がある。平和が続いて、殻を見失っているなら霊の目が開かれて、しっかり捉える事ができるように祈るべきである。
 現代におかれている私たちにとっての殻とは何か。私にとっての殻と何だろうか。それは、この神学生としての訓練がまさにそうであり、同時に家庭内における妻や子どもとの関わりにある諸問題。または、現在、混迷を極めつつある社会問題、政治的課題、環境問題も私がキリスト者として正面からぶつかっていくべき殻であると思う。
 つまり、そういった具体的なことに関わっていくことが、前述したマタイ4:23にある「教える」ことであり、「福音を宣べ伝える」ことであり、「病気、わずらいの癒し」なのである。つまり、それら主に結び付けられるすべての取り組みこそが「宣教」なのである。
 
Ⅲ.宣教に生きる
 そして、その殻にぶつかっていくあらゆる取り組み、祈り、備えもまた「宣教」であり、またそこに向かおうとするキリスト者の存在の一つひとつ自体がまた「宣教」であると言うことができる。しかし、あらためて大宣教命令に立ち返ってみると、「行って…バプテスマを授け…弟子としなさい」へと向かうためには、義務感だけでは続かないばかりか、主イエスが望まれる「宣教」だと言えるだろうか。主ご自身はどのような思いで宣教されたかをみことばから見ると、主イエスはマタイ4:23と同様に9:35でも「教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、わずらいを直された」とある。ここで主が、群衆をどのようにご覧になっておられたかが記されている。9:36
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」
 そして仰せられた。続いて9:37~38
「 そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」
 その後、十二人の使徒を選びその宣教の業を託された。ここに、主が私たちに何を求めておられるかが表わされていると思う。それは、まず主が群衆に思われた内臓をズタズタにするほどの憐れみを示されたように、その主の心をわが心とするということである。そのために主は祈りによる参加を呼び掛ける。そして、次に祈り手の中から働き人を召される。
 ここに私は、使徒14:26~27のアンテオケ教会での宣教師派遣にも繋がることと認識する。彼らは祈りの中で、その中からサウロとバルナバを派遣することを決定した。その祈りの中に聖霊が働き、彼らの危機意識・御国意識・宣教意識を高め、積極的な献身の思いが生み出されたのである。つまり、彼らは、彼らの前に置かれた「殻」を祈りにより聖霊の助けの中で打ち破って、次の一歩に踏み出して行ったのである。
 
結論
 それが、私が具体的に「宣教」に関わっていくに大切なプロセスであり、主イエスの御心をわが心としていく歩みであると確信する。その確信の源は、主が群衆に向けられたマタイ9:36の御心。その憐れみに満ちた心が私にも向けられている事実である。主はこんな私のために心砕かれ、はらわたを痛めるほどに憐れみ、愛して下さり十字架に迄向かってくださった。その主の愛を想うとき、私の心に生まれる思いは、私と同じようにその主の憐れみに気がついて主に立ち返る人が益々起こされることである。
 この偉大な主の宣教の業に関わらせていただける恵みに、ただただ感謝するのみである。これからも、この講義を通して与えられた恵みを反芻しつつ、恵みの業の一端を担いたいと願う。