のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

刑罰と愛、断絶と平和、さばきと赦し。

"キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。"
ペテロの手紙 第一 3章18節


 今は受難節です。それはキリストの受難、すなわち十字架へ向かう一切の歩みから十字架の死に至るまで経験された苦しみの道です。

 

 神の御子が人間となられた苦しみがあり、ご自分が造られた世界に来られたのに、生まれた場所は家畜小屋でした。

 貧しい人々を招き、罪人を受け入れ、神の国の福音を宣べ伝え、会堂で教え、病人や悪霊につかれた人々を癒しました。それは、彼らの病を負う歩みでした。

 そして、同胞のユダヤ人から捨てられ、弟子たちに裏切られ、最後に父なる神にも捨てられたのです。それは、彼の打ち傷によって私たちが癒やされるためであり、それは私たちが受けるべき神のさばきの身代わりだったのです。

 主は私たちの代わりに、聖なる神からの刑罰を受けることにより、神との関係が修復されるからです。それは神のきよさのゆえに通るべきプロセスです。しかし同時に、神はそのことを御子に負わせることにより、信じる私たちを神の子どもとしてくださる赦しの道とされたのです。

 御子が宥めのそなえものとなられたことで、神は私たちに愛を示されたと聖書は言います。

 

"神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章9~10節

 神は刑罰の中に愛を示し、断絶から平和をつくり、さばきを通して赦しを与えるお方です。

 私たちにとって、一見矛盾しているように見えますが、神はそのようにして苦難の中から喜びと希望を与えるのです。

 それは、刑罰と修復はセットだからです。

 神は、人間が悪魔に唆され義人イエスを苦しめ処刑したことを、ご自身の救いの業に取り込み、それをもって罪を犯した人間に子としての立場を与えて修復の業としたということです。