のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

神に用いられるために

お水を飲む時、私たちはきれいに洗われているコップを使います。汚れているものは使いません。

 

同じように私たち自身も、いつも罪の清算がされ、きよさを保っていなければ、神様は用いてくださらないでしょう。

 

では、土の器である私たちがどのようにすれば自らをきよく保てるのでしょうか。

 

聖書の詩篇にこんな言葉があります。

 

"どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。
私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください。
私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。"
詩篇 119篇9~11節
聖書 新改訳2017

 

ここには、「若い人は」と書かれていますが、若い人ばかりではありません。どんな人もきよく保つためには、神のことばである聖書にしたがって歩むことが不可欠なのです。

 

では、本当に神の言葉のとおりに歩めるでしょうか。この詩篇の詩人は、そのことをよくわかっていました。だから、「どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください」と神に願うのです。

 

なぜならば、神のことばに従うということは、罪ある私たちの力ではできないことだからです。

 

もともとは、私たちは神のかたちに造られた者たちです。しかし、罪が入ってからは、良いことをしようとしても、中途半端だったり、結局は自分の手柄にしてしまうような弱い者になってしまいました。それは、神のかたちを損なってしまった結果です。

 

しかし、神様は私たちの罪を赦すため、罪の身代わりとして、愛する御子イエスを十字架にかけ殺しました。ここに愛があります。それは、私たちの救いのためにかけがえのないお方のいのちを差し出したからです。この御子のいのちが信じる私たちに与えられたのです。

 

それは、同時に神の霊である聖霊が与えられたことでもあります。

 

この聖霊こそ、私たちがきよく生きるために欠かせない助けとなります。それは、この聖霊の働きにより、信じる者は完全にきよいキリストのように日々造り変えられるからです。

 

だから、今はまだ私たちは古い人が残っているので、日々罪を犯してしまうかも知れませんが、主のイエスを信じ、聖霊が与えられているのならば、この聖霊の助けの中、神に祈り聖書のみことばをいただく中で、私たちはきよくされていくのです。

 

ですから、日々、神の前に祈り、神のことばである聖書のみことばに聞いていく歩みが大切です。そのようにして、日々犯してしまう罪も、その都度、神との交わりの中で悔い改めて、清算できるからです。

 

そうすることによって、きれいに洗われた器とされ、神の働きに用いていただけるのです。

 

今日も、神と交わりみことばをいただいて、悔い改めて、神の業に用いていただこうではありませんか。