のりさんのブログ

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説教題 「これはわたしの愛する子」

聖書箇所 マタイの福音書3章13~17節
 
 


 今日のお話は、神のことばご自身であるイエス様が、荒野で叫ぶ預言者ヨハネのところに来られた場面の出来事です。バプテスマのヨハネヨルダン川で洗礼を授けていました。イスラエルの北側にあるヘルモン山(標高2814m)に積もった雪の雪解け水がガリラヤ湖を通って、流れてきます。この周辺の町々もこの川の水によって潤されていました。イスラエルの人たちにとって、この川はまさにいのちの水でした。
 
 そこにイエス様がナザレからヨルダン川沿いの荒野にいるヨハネのところまで歩いて来られました。それは、まるで荒野で神のことばを伝える主の預言者ヨハネを生かし、励まし、潤すように主が来られたとも言えるのではないでしょうか。
 
 確かに、この箇所において主イエスは何のために来られたのかというと、13節にあるように「ヨハネからバプテスマを受けるために」と書いてありますから、わざわざヨハネから洗礼を受けるために来られたことがわかります。イエス様は洗礼を受けられ、そこに聖霊が下り、天のお父様の声が聞こえるという、三位一体の神様の顕現とも言える箇所です。イエス様の公生涯のスタートラインに相応しい。まさにバプテスマ。それでこの箇所は、イエス様の洗礼の場面として知られています。新共同訳の小見出しでも「イエス洗礼を受ける」と書いてあります。
 
 ところがヨハネの方は、「待っていました」という感じではありませんでした。旧約聖書預言者は後半、メシアを待ち望む預言を多く語っていますが、誰もそのメシアご自身には会ったことがありませんでした。しかし、今日の箇所は、これまでどの預言者も待ち望みながらも会えていなかった、そのお方にようやくお会いするという記念すべき日です。
 
 しかし、この預言者ヨハネの戸惑い。ここに、この箇所が単にイエス様の洗礼だけにとどまらない、預言者ヨハネにとっても大切な出来事であったと言えます。11節で「わたしのあとに来られる方」と言って、イエス様が来られることを察していながらの彼の戸惑い。でも、素晴らしい経験をさせられて、更に預言者として整えらえる。
 
 私たちも、いつも色々な意味でスタートラインに立たされます。主のことばを預かり、まさにこの世と言う荒野で、たった一人であったとしてもそのみことばを語ることが使命です。特に神学校を卒業して、遣わされる場所は、すべて荒野と言っても良いと思います。そこに、どのように立って行くのか。そこでどのように語っていくのか。そのようなヨハネのところにイエス様が来てくださったのです。このバプテスマのヨハネから、主のことばを預かる者の姿をともに見ていきたいと思います。
 
 
1. イエスと出会うこと~神であるイエス


14節「しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか』」


 「そうさせまいとして」とあるように、ヨハネは自分とイエス様との格差をかなり意識していることがわかります。11節で、ヨハネは自分のことを「その方のはきものを脱がせて差しあげる資格もありません」と言って、イエス様に対してへりくだっていました。そして、ここでもやはりヨハネは、自分自身がイエス様の前に自分がどんな存在かということを告白しているのです。
 
14節の鍵括弧の言葉は、ヨハネのイエス様に対する身分の差があることをあらためて断言しています。もし、ヨハネがイエス様のことを自分と同じ預言者仲間の一人だと思っていたら、こうはならないでしょう。
 
 使徒ペテロは、別な箇所でイエス様の神のご性質に触れたときに何と言ったでしょうか。
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言いました。
 私たちも、イエス様の神性に触れるときに自分の醜さがよく見えてきます。
 確かにイエス様は神と人との間の仲介者です。しかし、ここでもやはり私たちの出発点をきちんと押さえた上で、友となってくださった神の御子であるイエス様に感謝したいと思うのです。その出発点は、本来私達は罪があって聖なるお方に近づけない存在である。ところが、そういう者に、イエス様は近づいてくださった。イエス様の方から近づいてくださったという恵みの大きさ。
 
 その恵みにまず立っていく。それが主の言葉を預かる者として大切な姿勢だからです。
 私たちも、いつもまずイエス様の神性に触れて、きよさに触れて、本来近づくことができない存在のお方が、自ら私のところに来られたという恵みに感謝したいと思います。ヨハネも「あなたが、私のところにおいでになったのですか」と言わざるをえなかった。
 神であるお方が、この奴隷以下の私のところに来てくださった。その恵みをいつも覚えていきたいです。
 
 
2. イエスと出会う~完全な人としてのイエス


 ところが、そのへりくだったヨハネに、イエス様は答えて言われます。15節。
『今はそうさせてほしい。このようにして、正しいことをすべて実現ことが、わたしたちにはふさわしいのです。』


 ヨハネは言いました。私があなたに洗礼を授けるなんて、立場が違い過ぎますとイエス様に最上級の尊敬をもって答えましたが、イエス様の言葉はどうだったか。この言葉が新約聖書で最初のイエス様ご自身のことばとして記録されています。
 
 このことばは、どのようなイエス様を伝えているでしょうか。ここは完全な人間イエスとして語られています。この「今は」という言葉は、今、人として歩む上でというふうに解釈できると思います。だから、今、完全な人間として、すべて正しいことを実行することは、完全な人としてふさわしいことだと仰っているのです。
 この正しいことというのは、他の箇所では「義」と訳されていることばです。それは法律的に良いことという意味でなく、神様との関係における義を指していると思われます。「義人はいない一人もいない」というその「義」です。その義を行うのが「わたしたちにふさわしい」。すなわち、それは、バプテスマのヨハネをその業に招いているということです。
 
 確かにヨハネは、私から見たら大変良い人だと思います。しかし、完全な人間、罪がまったくないイエス様と比べるならば罪人です。これがどうして「ふさわしい」のでしょうか。
 
 それは、ヨハネ自身が主の前に、まず罪深さが示されて、悔い改めて、霊的な道路工事が始まっている人だからです。だから彼は人々に悔い改めのメッセージを語り、バプテスマを授けていた。そういう人がこのイエス様の業に招かれているということです。
 この言葉を聞いたヨハネは、きっと心から嬉しかったと思います。靴の紐をほどく価値のない私に、イエス様が「わたしたちにふさわしい」と、きよいイエス様の仲間だと言ってくださる。その愛のことばに励まされたに違いありません。なぜなら、彼の霊的な道路工事は途中にも関わらず、イエス様の業をともに行う者として「ふさわしい」と招いておられるからです。
 
それはヨハネだけでなく、私たち、神の言葉を語るすべての者にも適用できます。私たち全員が、聖化の途上にあります。みんな工事中です。だから、お互いに色々な問題を起こすような者です。しかし、主はそのような途上の者であることをよくご存じで、「わたしたちにふさわしい」と言ってくださるのです。それは、自分が遣わされる場所が荒野である前に、私たち自身が荒野。つまり不毛な土地であり、耕しても耕しても何の実も育たないような荒れ地です。しかし、そこに主が「わたしたちにふさわしい」と来てくださって、その主の働きに招いてくださっておられるから、私たちは潤されるのです。そこを忘れると、遣わされている場所が悪いという不満が出て来るでしょう。
 
 
3.主の愛の招きに応えて、苦しみさえも受けていく主の預言者


 だからイエス様が、その足跡に従うようにと来てくださっているのです。ここでイエス様は、いよいよ洗礼を受けます。なぜ罪のないイエス様が洗礼を受けたのか。それでこの話の流れで言うと、「すべての正しいこと」と言われた、そのすぐあとで16節の「イエスバプテスマを受けて」とありますので、神の御子イエス様は、罪のない人間イエスでありつつ、罪ある私たちの模範として全ての正しいこと、神の義を実現するためにはふさわしい。
 
その延長線上に、そのために迫害を受け、死に直面するということも含んでいます。イエス様はまさにその信仰者の鏡として、死に至るまで忠実に神様に従い通しました。ペテロも第一の手紙の中でこう言っています。Ⅰペテロ2:21です。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」
 このバプテスマも神への忠実な信仰者の模範として必要であったということができます。しかし、それだけでしょうか。
 それはパウロが言い当てていると思います。Ⅱコリント5:21
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
 ここにパウロは、「神は罪を知らない方を」と言っています。そういう方を罪とされた。それも私たちの代わりにです。それは、その身代わりになった方が持っている義を、もっていない私たちがもらうためということです。死刑囚が死刑囚の身代わりはできません。死刑になるはずのない方が死刑にされるからこそ身代わりが成り立つのです。
 
 ペテロも先ほどのキリストが模範を残されたということばに続いてこう言います。
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒されたのです。」
 つまり、このバプテスマは単に忠実な信仰者としての模範だけでなく、罪の身代わりのための十字架に向かう歩みの決断としてここに示されたということです。それは、私たちが失っている神様との関係の回復という義に生きるため、その義を実行する者となるためだということです。その道は決して平坦ではありません。主が神様に従い通して十字架で殺されたように、私たちも、主に従っているからと言って、必ずしも楽な道ではありません。しかし、そこに確かな約束がある。荒野に水が荒れ地に川が、焼けた地は沢となり、水の湧くところとなるのです。

 


結び


 そのとき、天が開けて、神の御霊が鳩のように下ってきて、イエス様の上に来られたと書いてあります。16節。
「こうして、イエスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
 そして、そこに声が聞こえてきます。17節。
「また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
 それは、父なる神様の御子イエス様に対する愛の関係を表すものでした。つまり、天のお父様は「この者こそわたしのかけがえのないひとり息子、わたしの心にかなったものだ」という意味です。そのかけがえのない御子を、ヨハネあなたのために遣わしたんだよということの表明です。
 
 そして、その完全な愛の関係にある三位一体の神の交わりに、ヨハネも招かれている。その恵みがあるということです。
 このあと、ヨハネはヘロデとヘロデアの不倫を指摘したために、捕えられて牢獄に入れられます。そして、「おいでになるはずの方はあなたですか」とイエス様に弟子たちを遣わして確認するような事態となり、ヘロデアの娘の余興の褒美として首を刎ねられると言う惨い死を遂げます。
 
 しかし、そこへ向かうヨハネには、すでにこの主イエスにある恵みが与えられていたのです。だから、主は、ヨハネの受難を知りつつも、そのままにされました。しかし主の約束は変わりません。しかも、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な人は現れなかった」とイエス様に言わしめた旧約最後の大預言者とされました。
 
 私たちも、そのように正しいことを実現する主の預言者として招かれていることを覚えたいと思います。その道はやはり荒野です。ときに、このヨハネのように過酷な道、いばらの道のようなところを通らされるかも知れません。ヨハネがそうだったように、その苦難の中で天に召されるようなことになるかも知れません。
 
 しかし、イエス様が「わたしたちにふさわしい」という招きは、「わたしの愛する子、わたしにとってかけがげのない子どもだよ」という神様の愛の交わりの中にあなたも招かれているという祝福なのです。その主の祝福の招きを益々知らされ、その祝福に感謝して生きるならば、その場所が緑の牧場でも荒野だとしても感謝なことです。
 
 天のお父様は、イエス様を信じ従おうとする私たちをも「わたしの愛する子」とその存在を喜ぶと言ってくださっています。皆さんはこれから伝道者として、主のことばに仕えるものとして遣わされるでしょう。だからこそ、ともにその主の前にますます低くされ、天の父に愛され喜ばれている恵みをまず受け取りたいです。そこに「正しいことをすべて実現することがわたしたちにふさわしい」と励ましてくださる主の招きに応えて、ともにこのお方にすべてを献げてまいりましょう。