のりさんのブログ

時々、色々とアップしてます。

「神の宮の門口に立ちたい」ルカの福音書23章

「私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです」詩篇84:10

 

  十字架上の強盗に注目したいと思います。

  この箇所は、初めは二人ともイエスを罵っていましたが、最後の最後に、そのうちの一人が救われたという感動的な場面です。
 おそらく、回心した方の強盗は、十字架の上のイエスの姿に触れていく中で変えられたと思います。

  これまでの彼の人生の中で、いつが一番幸せだったでしょうか。だれもが、その母親から生まれ、どういう生い立ちかは、わかりません。しかし、あるときから、彼は強盗をして生活するようになっていきました。同じ強盗仲間もいて、人から奪ったもので生活していました。
 決して幸せだったとは言えないでしょう。しかし、ローマ軍に捕まりある意味、彼の人生で最悪のときに、彼にとっての幸せが始まったのです。

  一見、このゴルゴタの丘に磔されている強盗の姿は、だれが見ても不幸です。またある意味、自業自得と言われても仕方がない場面です。
 しかし彼は人生の最後の最後に、すべての人が必要としている救いを手にしたのです。しかも、彼のことばに感動します。42節。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
 何と控えめな姿。さっきまで罵っていたとは思えないほど、彼の心はイエス様に釘付けになったのです。つまり、くだけた言い方をするなら、イエス様が大好きになったのです。そのイエス様に思い出してもらうだけで幸せですと言っているのです。
 私は、彼の姿を学びたいと思います。彼こそぶどう園で遅くなってから雇われた労務者です。あとから来たにも関わらず、ペテロなどの弟子よりも先に、ある意味、御国の祝福に与ったのです。彼は、死ぬ寸前まで強盗でした。しかし、イエス様に出会って、永遠のいのちを得たのです。


 イエスの十字架は、罪人を滅びから救う力を持っています。そして、その救いに与った者は、自分を誇るものを一切持っていません。この強盗がその代表です。

  同じように私たちも自分の力や頑張りで救われるのではありません。すでに目の前に差し出されている救いを受け取るだけです。そして、その立場に驕ることなく、ただ主に覚えて頂いていることに幸福を覚えるのです。

  主よ、あなたの御国の端くれで十分幸せです。