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デカルト「方法序説」ブックレポート   

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題:「理性をメガネとしたら」  

 

1. アウトライン
 
 ①第一部 諸学問についての様々な考察
 理性とは良識である。そして、それはこの世でもっとも公平に分配されている。しかし、理性が平等に備わっているというのなら、どうして意見の食い違いが起るのか。それは、各々の理性の使い方に問題があるからである。それは、良い精神を持つことでは十分ではなく、むしろよく用いることが大切なのである。
 デカルト自身は、いかなる点においても普通の人よりも完全であると思ったことがなく、他人の持つすばやい考え、まぎれのない想像、豊かな答えを持ちたいと望んだ。それは理性(判断力)のみが人間の他の動物との違いであって、それが各々完全なかたちで備わっていると考えたいからである。  

 しかし、デカルト自身にも誇りたいことがある。年少の頃に早くも、様々な学問において幾多の成果を得ることができる一つの方法をつくりあげたことであるが、それですら間違っているかも知れないので、この序説を通して、めいめいが判断したことの意見から自分を教育するあたらな手段として付け加えるものである。
 デカルトは幼少の頃から、学問によって人生に有用なあらゆることの、明らかな確実な認識を得ることができると教えられてきたゆえに、学びに非常な熱意を抱いていた。しかし、学業を終えてわかったことは、自分の無知をあらわにしたということである。しかも教えられた既存の学問の多くは、決して役に立つものではなかったとの判断がなされる。
 結果、成年に達してから、書物による机上の学問を捨て、経験に基づく自分自身に見い出されうる学問を求めて、青年時代の残りの時間を旅行に費やし、そこで得る経験から利益を得ようと努めた。
    
 ②第二部 著者が求めた方法の含むおもな規則
 デカルトは、1619年ドイツで起こった三十年戦争に参戦したが、そこで終日炉部屋に篭り思索にふけることになった。そこで、ある考えに至る。
 それは、書物による学問は、少なくともその推理が蓋然的であるに過ぎず、 なんらの論証をももたない。それは多くの違った人々の意見から少しずつ組み立てられ広げられてきたものであるから、良識ある一人の人が、目の前に現れる事柄に関して、生まれつきの持ち前で為しうる単純な推理ほどに真理に近くありえないということである。
 しかし、一私人が、一国のすべてを土台からつくりかえ、それをいったん 覆して建て直すというようなやり方で、国を改革しようと計画することは、まことに不当なことであり、また、諸々の学問の組織を、あるいは学校で諸々の学問を教えるために定められている秩序を、改革しようとすることすらも、一私人の計画すべきことではない。しかし、今まで自分の信念のうちに受け入れたすべての意見に関しては、話は別であり、一度きっぱりとそれらを除いてしまおうと企てること、そして、その上で再度、他の一層良い意見を取り入れるか、以前と同じ意見でも一度理性の規準によって正しく整えた上で 取り入れることが最上の方法なのである。
 問題は、これまでの意見を取り除いた後に、どのように事柄の真偽を見究め、正しく理性を導いていくかである。そこで、若いときに学んでいた論理学、解析、代数がその解明に役立つと考えたが、何れも複雑であり、かえって混乱と不明瞭さをもたらしてしまう。それが法律であった場合、複雑すぎることによってしばしば悪行に口実を与え、僅かな法律しか持たずに厳格に守られている方が国家としてはるかによく治まっている。
 ゆえに論理学を構成する多数の規則の代わりに、たとえ一度でもそれからはずれまいという固い不動の決心さえするならば、次の四つの規則で十分である。
 第一は、私が明証的に真であると認めた上でなくては、いかなるものをも真 として受け入れないこと。注意深く即断と偏見を避けること。
 第二は、私が吟味する問題のおのおのを、できる限り多くの、しかもその問 題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと。
 第三は、私の思想を順序に従って導くこと。最も単純で最も認識しやすいも のからはじめて、少しずつ、いわば階段を踏んで、最も複雑なものの認識にまでのぼって行き、かつ自然のままでは前後の順序をもたぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。
 第四は、何ものも見落とすことがなかったと確信しうるほどに、完全な枚挙 と、全体にわたる通覧とをあらゆる場合に行うこと。
 
 ③第三部 著者がこの方法から取り出した道徳上の規則
 家の建て直しにしても、その間の仮住まいは必要であると同様に、理性が自分に対する判断において非決定であれと命ずる間も、できる限り幸福に生きうるために、暫定的な道徳規則を考えた。
 第一の格率は、自分の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児期 から教えられた宗教を持ち続け、他は周囲の良識ある人々の意見に従う。極端な意見にではなく、穏健な意見に従う。
 第二の格率は、自分の行動において、できる限りしっかりした、きっぱりした態度を取ることであり、いかに疑わしい意見にでも、いったんそれを取ると決心した場合は、それが極めて確実なものである場合と同様に、変わらぬ態度で、それに従い続けること。森で迷ったときは意味もなく徘徊するよりも、ひとまず真っ直ぐ歩き続ければ、行きたいところではないにしても森 からは抜け出せる。森で迷い続けるよりはよほど良い。
 第三の格率は、常に運命よりもむしろ自己に打ち克つことに努め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えようと努めること。そして、一般的に言って、我々が完全に支配しうるものとしては我々の思想しかなく、我々の外なるものについては、最善の努力をつくしてなおなしとげえぬ事柄にはすべて、我々にとっては絶対的に不可能であると信ずる習慣をつけること。自分の置かれた環境や才能について不満を持っても不毛である。自分自身で変えることができるのは自分自身だけである。
 
 ④第四部 著者が神と人間精神との存在を証明するために用いた諸理由
 真理にたどり着くためには僅かであっても疑わしきは排除すべきである。そうした上で、まったく疑いえぬ何ものかが、自分の信念のうちに残らぬかどうかを見ることにすべきであると考えた。
たとえば感覚は、我々を時に欺くため、感覚が想像させる通りのものは何も存在しない。推理も間違いを起こす可能性があるため投げ捨てた。更に、我々が目覚めている思想はすべてそのまま眠っている時にも現れうるため、自分の精神に入っていたすべてのものは、夢の幻想と同じように真ではないと仮想しようと決心した。
 このように、少しでも疑いのあるものは偽であるとして廃棄し、最後に残った疑い得ないものが真理であるとする考え方に至る。しかし、そういう中にあっても、そう考えている自分自身は必然的に何者かでなければならない。
 それで「我思う、ゆえに我あり。」という真理は、懐疑論者のどのような 法外な想定によっても揺り動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを 認め、哲学の第一原理として受け入れることができると判断した。
 ところがデカルトの着地点は自分の存在を確かめることではない。そこで、精神について証明していく。精神は物体から全然分かたれているものであり、精神は物体よりも認識しやすいものであり、物体が存在していなくても、精神はそれがあることを主張することで、自分の存在は証明される。ゆえに、自分の本質は精神であり、身体に依存しない。
 それに続き、自分は、自分を疑っていること、したがって自分の存在が不完全なものであることを反省し、自分が自分よりも完全な何者か(神)を探究した。それについて以下のように証明した。
 
 a.何かを疑っている私は不完全な存在である。
 b.そのような不完全な私は完全である神の存在を知っている。
 c.どうして不完全な存在である私が完全なる存在を認識できたのか。
 d.不完全である私が、自分の力で完全なる存在である神にたどり着くことは 不可能である。
 e.つまりは、完全なるものの概念は、完全性を持つ神から与えられたもので ある。
 
 ⑤第五部 著者が探求した自然学の諸問題
 更にデカルトは、以上の第一の真理から演繹した他の真理の連鎖を示す。デカルト自身は、神と精神との存在を証明するために先に用いた以外の、いかなるものをも想定せぬようにする。また、以前に明晰で確実だと思われた幾何学者たちの論証よりも更に明晰で確実だと思われるものでなければ、どんなものをも真として受け入れぬことにしようという決心を守り続けた。また、哲学において論ぜられるのを常とする主要な難問のすべてについて、満足すべき結果とある種の法則も認めえたと言っている。
 これらの法則の帰結を吟味して、それまでに私が学び、学ぼうと望んだすべてのことよりも、更に有益で重要な多くの真理を発見したとする。その中で、物質的事物の本性という、自分が知っているすべてのことについて考えた。
 神が想像的空間のどこかに、新たな世界を組み立てるために必要なだけの物質を造ったと仮定する。しかも、神がこの物質の様々にかつ無秩序に揺り動かして、詩人の創造するような混沌状態を造り出したとする。その上で、神は通常の協力のみを自然に与えて、神の定めた諸法則にしたがって自然が動くままにまかせた場合に、この新たな一つの世界において起るであろうところのもの、これらについて語ることにした。そこから自然の諸法則がなんであるかを示した。
 一例として、哲学の原理・第二部「物質的事物の原理について」によれば、 
 投げられたものの運動については、以下のように確証される。
 第一の法則は、いかなるものも、できるかぎり常に同じ状態を固執する。 
 第二は、すべての運動はそれ自身としては直線運動であるということ。

 第三は、一つの物体は、他のもっと力の強い物体に衝突する場合には、なんらその運動を失わないが、反対に、もっと力の弱い物体に衝突する場合には、これに移されるだけの運動を失うということである。
 以上のように、混沌状態にある物質のほとんどが、これらの法則に従って、ある仕方で配置され整頓されていることを知ることができる。その上で、地球を含む宇宙の天体や光などの実態・位置・運動および様々な性質について、その方法を述べている。つまり、力学的に自然を解明しようとしたのである。
 また身体の生理機能について考えた。しかもその原動力は心臓にあるとし、しかも神から光なき火を焚きつけられて心臓に熱がこもり、それが原動力となって生命活動が始まるとした。その熱によって心臓にある血液は温められて希薄化する。それによって心臓は膨張し、その反動による収縮力によって血液が全身に送り出されて身体の生理機能が働くのである。そこに精神が結合して人間は理性を伴って活動する。
 しかし、すべての物質が自動式の機械のようであるとするなら、人間や動物、また機械との違いはどこにあるのか。その事柄を考察するために三つの問題に分けて分析する。一つは人間と機械の違い。これは、第一に言葉を意識的にかつ自由に使用できるか。第二に、理性によってどんな事態にも臨機応変に対応できるかという判断基準が挙げられる。二つ目は人間と動物の違い。これも前述の基準で判断できるとした。三つ目は動物と機械の違いである。以上の判断基準に照らせば、動物は理性がないため機械と同じということになる。
   
 ⑥第六部 自然の探究においてさらに前進するために必要だと考えるもの
 方法序説の締めくくりとして、今後の著者自身の展望、及びこの序説を書くに至った経緯などを記す。その他、思考は言葉にして書きとめることにより初めて正式な理解に至るということ、「議論のための議論」の不毛性などについても記している。
 冒頭でガリレオ・ガリレイの宗教裁判について語る。そのガリレイの考えに宗教にも国家にも有害であると思えるものはないとしながら、だれかの不利になりそうな意見については何も書くまいと注意をはらってきたものの、自分の中に誤っているものもあるかも知れぬと恐れる。それが著作の出版を思いとどまった理由である。また普遍学のまとめとして、学問の基礎を固めて全ての学問を統一するという明晰判明な認識を求め、最初に個人的な思想改革からはじまったことに立ち返り、そこから自分が明晰判明に認識したものはすべて正しいこと。そして自分自身が存在する自然界の概念を導き出した。それが自然界は物質と運動法則で成り立っているという概念である。それは数学を基本とした客観的・機械論的な概念をもとに自然界のあらゆるものを解き明かし、実生活に役立てることができると考えた。
 
2. 感想・評価・批判
 デカルトの思想が、混沌とした時代の中で学校教育にまで影響を与えるほどヨーロッパ全体に浸透していったという事実は注目に値する。それが合理主義哲学として認められていったことは思想的、歴史的な観点では一般論として評価できるのかも知れない。
 しかし人間の理性に基づいて合理的に物事の真偽を判断する「自我の原点」を発見したことによって近代思想へと転換するという意味で、聖書理解、信仰における視点においては、自由主義神学に見られるような聖書観に、今もなお大きな影響を与えていると言える。そして、その機械論的世界観などにみられる思想において、合理的な視点の限界を見る。
 私として考えさせられることは、理性はすべての人間に平等に備わっていると言って、それは正しく使われない限りはじまらないという警告を発している点、また神について理性を最善を尽くして正しく用いて、その存在を証明しようとした点である。
 また、よく「考える」というデカルトの姿勢は人間が人間として生きていく上で大変重要なことである。昨今、私たちは考えることをしなくなってきている。それは信仰だけでなく、政治・思想においてのカルト化の大きな要因となる重大な問題である。これからの日本、世界の動きに対しても、神は何と言っているのかを私たちは聖書をメガネに、信仰をもって、祈りの中でよく考え、判断しなければならない。
 
(文字数 5751字)
【参考文献】
野田又夫編『世界の名著22』中央公論社, 1967年、
・奥間綾子・園尾公佑編『方法序説まんがで読破』イースト・プレス, 2016年