のりさんのブログ

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さあ、河馬を見よ

ヨブ記 40章15~24節

"さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの。牛のように草をはむ。
見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。
尾は杉の木のように垂れ下がり、ももの筋は絡み合っている。
骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。
これは神の作品の第一のもの、これを造った者が、その剣でこれに近づく。
山々はこの獣のために産物をもたらし、野の獣もみなそこで戯れる。
蓮の下にそれは横たわる。葦の茂み、沼地の中で。
蓮はこれをその陰でおおい、川の柳はこれを囲む。
たとえ川があふれても、慌てない。ヨルダン川が口に注ぎ込んでも、動じない。
その目をつかんで、これを捕らえられるか。罠にかけて、その鼻を突き通せるか。"

  自らに起きた試練の中でヨブは、自分の潔白を語るあまり、結果的に自分の義を立ててしまい、そのような正しい自分に罰を与えるような神こそどうかしていると、神こそ不義であると言う態度になってしまった。

 友人達からも責められ、そのような心地になる気持ちは誰にでもあるかも知れない。特にヨブのように信仰深く、子どもたちの罪のためにもいつもとりなしをしていたほどの信仰者にいきなり家族が全て奪われるような出来事が起こり、妻からも蔑まれ灰の中に座るも、一向に事態は改善しない。

 しかし、どのような時にも目に見えること、自分の主観だけで物事を判断することはアダムの罪の繰り返しにすぎない。神の言葉を待たずに自分の義を立てることは、蛇のささやきに負けたアダムとエバの姿と重なる。

 しかし、ここで神は口を開き、「河馬を見よ」と言われる。そこに、ご自身の御手の業から表される神ご自身の創造主たる主権を示される。

 しかも、「あなた(ヨブ)と並べてわたしが造ったもの」とヨブ自身が、自分のことを神よりも義としているが、この河馬もあなたと引けを取らない被造物なのだと、河馬に現されたご自身の御業の素晴らしさをあえて語られるのである。

 パウロも言う。

"神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。"
ローマ人への手紙 1章19~21節


 私たちも今朝、あらためて主が創造された被造物を代表する河馬を見たいと思う。

 これは神の作品の第一のもの、これを造った者が、その剣でこれに近づく。
山々はこの獣のために産物をもたらし、野の獣もみなそこで戯れる。
 蓮の下にそれは横たわる。葦の茂み、沼地の中で。
 蓮はこれをその陰でおおい、川の柳はこれを囲む。
 たとえ川があふれても、慌てない。ヨルダン川が口に注ぎ込んでも、動じない。
 その目をつかんで、これを捕らえられるか。罠にかけて、その鼻を突き通せるか。

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