のりさんのブログ

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神と人の間に横たわる罪

 聖書は創世記から黙示録まで、一貫して、神と人の間にある罪の問題に私たちを注目させている。

 よくイエスの救いについて、十字架の死による懲罰的代理を軽くみる人たちがいる。救いというのは、罪の赦しよりもイエスのように生きるようになることだとして、罪の問題はむしろ偏っているとか、古典的だとする。

 しかし、聖書はアダムの罪から神と人とは断絶が始まり、人は神の祝福を失ったと証言している。

 だから、懲罰的代理による救いは、あらゆる回復にとって欠かせない、救いの中心的出来事である。それは、神との関係回復こそ、隣人同士の真の平和が訪れるし、被造世界の回復もあるのだ。

 被造物たちも救いを待ち望んでいるとは、そのような神と人における回復を待っているということなのである。

 なぜ近代になり、神と人の間にある罪の問題を軽視するようになったのか。それは、装唱える方々が、そもそもキリストの十字架の贖いを信じないで、ただキリストへの憧れとか、キリスト者としての生き方に共鳴して洗礼を受けたからだと言える。

 そうなると、罪を悔い改めてイエスを主であると信じた人との間に、かなり大きなギャップが生まれる。それは、信仰の違いであると言える。

 恐らくサタンは背後で喜んでいるだろう。サタンが企む、神の救いを信じる人を妨害することが進みつつあるからだ。聖書が言っているように罪の悔い改めなしで教会に入ってくる人たちを増やして、福音を骨抜きにしているからである。

 しかも、創世記の天地創造の場面を神話だとするクリスチャンたちも増えてきたので、もはや創世記3章は作り話として、罪の起源も含めて、それらの問題を無きものとする力が蔓延っているからである。

 でも、聖書を素直に読むならば、罪から来る報酬は死であることが、リアルに伝わってくるし、だからこそ、その死である滅びから救われなければならない自分に気づかされるのである。

 ぜひ、明日の主日礼拝も、まず悔い改めて福音を信じるところからくる信仰を告白して、あたえられた使命を果たしていきたい。