のりさんのブログ

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キリストの打ち傷のゆえに

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。」ペテロの手紙第一2章24節(新改訳2017版)


 カトリックの修道女で渡辺和子さんというシスターをご存知でしょうか。旭川市出身で、お父さんが軍人で、あの226事件の時に、目の前でそのお父さんを殺される体験をした方です。当時9歳だった渡辺和子さんは、たった1mの距離で、お父さんが青年将校に44発もの銃弾を受けて死んでいく凄惨な様を目の当たりにしたのです。


 その体験から、父親のような惨めな死に方はしたくないとの思いで洗礼を受けようと思ったそうです。その後、洗礼を受けてしばらくは一般信徒として歩まれましたが、29歳のときに、修道会に入り、修道女になるわけです。


 そこから2016年に天に召されるまで、60年間、シスターとして活躍されました。テレビにもよく出演されて、本もたくさん出しておられたので、大変有名なカトリックのシスターです。
 その渡辺さんが晩年仰っていたことを、少しご紹介いたします。


 渡辺さんは、修道女になってからも多くの痛みや苦しみを経験し、また人の言葉や態度で傷ついたことがあったそうです。
 良かれと思って、してあげたことに対して、「ありがとう」の一言もないとき、またそれどころか、かえって悪者にされた時が何度もあったということです。「飼い犬に手をかまれた」思いも、一度ならず味わったそうです。
 その中で、思い切り仕返しをしたいと思ったこともありました。でも、それをしないで済んだのは、幼い時から、相手のレベルに自分を下げてはいけないというお母さんの教えであり、「赦しなさい」という、イエス様の言葉だったと言います。
 仕返しをしたら、どんなにすっきりするだろうという思いもありましたが、、一方、したらしたで、今度は相手を傷つけたことからくる心の痛みを、味わわなければならなくなることを、苦い経験から学んだということです。


 そして、このように仰っておりました。自分の心の痛みを癒すためには、まずは「思いを断ち切ることだ」と。いつまでも傷にこだわっていると、その間、私は相手の支配下にある。もちろん人間なので、きれいに断ち切ることは不可能です。しかし、赦すことで、赦すと決断することで、相手の束縛から自由になれると言うのです。


 渡辺和子さんが、洗礼を受けたばかりの若い時のことですが、ある方がこのように教えてくださったそうです。


「あなたの心が痛みを感じるのは、茨の冠をかぶったイエスさまが、身近においでになる証拠なのですよ。あなたが傷ついて血が心から流れているとしたら、それは、十字架の上のイエスさまの御傷の返り血だと思いなさい。」


 その言葉から、渡辺和子さんは、傷つけられる時にこそ、イエスさまは近くにいてくださる。私の痛みと流す血は、イエスさまのおそばにいる証拠。そう思う時、傷ついても痛んでもいいのだと思えるようになったそうです。


 それは、今日のみことばにあるように、イエス様の十字架の打ち傷によって癒されるという意味ではないでしょうか。イエス様が、私たちが傷つく前に既に私たちの罪を背負って傷ついてくださった。それは、私たちのすべての苦しみをも背負ったということです。


 もし私たちが、理不尽な苦しみの中にあったり、誰かから傷つくことをされた、言われたとしても、それこそ、きよいイエス様が私たちの罪のために十字架にかけられなければならなかったという理不尽な思いを通ってくださった。その恵みに浸れるときなのだ。主のお苦しみを覚えて、ますますイエス様の救いの恵みを味わえる、その恵みのときなのだと、覚えるとき、目の前にある様々な問題がまだ解決していなくても、私たちのことをよく知っていてくださるイエス様が一緒なのだから安心だという平安に満たされるのです。それが罪を離れて、イエスさまの義に生きるということです。


 今日も新しい一日が始まりました。今日も、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられたことを信じて、そのイエス様の十字架の打ち傷によって、癒される一日でありますように、お祈りをいたします。