のりさんのブログ

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神のかたちからの歪み、そして回復へ

"神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」" 創世記 1章26節

 

 

"神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」" 創世記 1章27~28節

 

 

 私たち人間はそもそも、神のかたちにつくられた尊い者たちです。しかもそこに性別という区別を設けられて、神のかたちを男と女とに創造することで、「われわれに似せて」つくられたとあります。三位一体の神はご自身が三つの位格をお持ちでありながら完全に一つである「かたち」を人間にも表されたのです。

 

 そして、その男と女という人格の異なった者たちの結合により、そこから子孫が増やされ、広がっていくよう祝福されました。

 

 全ての被造物もその神の秩序を保ち、調和のとれた「非常に良い」世界をかたちづくっていました。それがそもそもの自然のかたちです。

 

 ところが人間は神のようになれるという誘惑に負けて、神との約束を破り、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。それゆえに、神へのその反逆は、神との断絶を生み、神との関係だけのバランスが崩れただけでなく、この地、つまり神に造られたもの全てがアダムのゆえに呪われてしまい、その調和を失い、神が造られたバランスのとれた世界そのものが歪んでしまったのです。全てが自然のかたちを失ったのです。

 

その歪みとして、まず男と女の間、つまり人間同士の間に「恥ずかしい」という亀裂が起こり、互いのからだを隠すようになりました。自分の恥ずかしさがバレないように、いちじくの歯を綴り合わせて粗末な腰の覆いで隠したように、そこから、自分を大きく見せるためのアイテムを持ち、相手よりも力を持ち支配しよう、また自分の思い通りになるように利用しようという自己中心な思いが起こり、そこに殺人が始まります。

 

彼らから生まれたカインとアベルのように、兄であるカインは、弟アベルを神にえこひいきされていると思い込み、自分の捧げものが受け入れられなかったことに腹を立て、アベルを殺します。

 

人間の歪みはそのように、どんどん加速して、神が与えてくださった、神のかたちを損なってしまうのです。その歪みは、結婚関係の中、また性においても、もともとの自然なかたちを損わせていきます。

 

いまや、男女として与えられていた性、そして結婚という神のかたちを表す自然の様も歪み、同性でも結婚するとか、同性で性的な関係を持つことや、同性への恋愛が権利として認められています。

 

ここで、問題なのは神が造られた自然なかたちの歪みから起こっている人間社会のアンバランスをどのように扱うかでしょう。

 

たとえば、生まれつき障害をもっている方々がおられます。それは、その方々に問題があって、そのように生まれて来ているのではありません。そもそものアダムからの呪われた地と変貌してからの影響であって、その原因は本人にはありません。だから、主イエスもそれは神のわざが現されるためであって、その人の先祖が悪いとか、その人本人のせいではないと言われました。

 

"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
エスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。"
ヨハネ福音書 9章1~3節


 

また、このような障害も、その程度の差こそあれ、私も含め、様々なかたちでバランスを崩しており、大なり小なり歪みを持っているのではないでしょうか。それは身体のことだけでなく、心のあり方や、嗜好性も含めるすべてにおいてです。

 

ですから、パウロが言っているように、自然なかたちを損なったものとして私たち全ての人が歪みを持っていると言う点において、同じ罪人であることを受け入れる必要があると思います。同性同士による性的な関係だけが問題なのではないのです。

 

"こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、
同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。"
ローマ人への手紙 1章26~28節


ですから、たとえば本来ならば、相手を殺すための道具である戦車や戦闘機や銃は、神の国にはあってはならない恐ろしい道具です。しかし、私は子どもの頃から、それらのものが格好いいと思っていたし、今までもプラモデルなどで作って楽しんでいました。

 

人を殺す道具を格好良いと思う私は歪んでいます。だから、その嗜好は聖書から見るならば外れてしまっています。だから、その嗜好は認めつつも、変えられたいと願いつつ、今は神を信じキリストの救いを信じて聖霊による聖化を信じて毎日、神に感謝して生きています。

 

同じように、性の嗜好も様々なかたちで歪みを私たちは持っているので、神が求めている自然なかたちを目指して、聖霊の助けの中、つくり変えられていくように願っていくことが大切だと思います。

 

私は戦車や銃が好きなことを正当化しません。権利だとは思いません。そのような嗜好は宜しくないと思います。それは、神が造られたこの世界を壊すものだからです。性においても同様に、神の国を壊すようなかたちは神が造られた自然とは相反するものですので、その事実を認めて、神が造られたそもそものかたちに回復するように、主イエスが再び来られるときまで、ともに祈り求めていきたいと思います。

 

私は断絶や差別を求めていません。弱さを持つお互いとして、歪みを認めつつ、完成を目指したいのです。歪みを正当化して罪の呪いが広がることを望みません。罪ある自分の至らなさを認めて、それを回復するために十字架にかかられたキリストを主として崇め、神を愛し隣人を愛しつつ従ってまいりたいのです。

 

それは、主イエスが「この人に神のわざが現れるためです」と言われたように、歪みを持っている私たち一人ひとりに神のわざが表されて、神のかたちへと造りかえられ、神の栄光を現すものとされていくことが、この世に置かれた私たちが神の国を目指して歩む意味ではないでしょうか。